パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

RAA:世界に例をみない国策売春

2013年05月22日 | 平和憲法
 ▼ RAAの話題をドヤ顔で持ち出す人は「従軍慰安婦」の基本書すら読んでない
 『誰かの妄想・はてな版』(2013-03-17)

http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20130317/1363532913
 ここのコメント欄のemmy_hilander氏とか、ブクマのkomamix氏とかが、何の根拠もなく、「RAAだって結局はアメリカの意向で出来て」とかデマを垂れ流しています。
 RAA(Recreation and Amusement Association:特殊慰安施設協会)は、東久邇宮内閣が成立した1945年8月17日の翌日、内務省警保局長・橋本政美が各庁・府県長官宛に発せられた「進駐軍特殊慰安施設について」と題する電報から始まります。もちろん警保局長が勝手にやったのではなく、前日の東久邇宮内閣の初閣議で決められたことはまず間違いなく、敗戦後初の内閣が最初にやったことが、連合軍将兵の下の世話だったわけです。
 ここで重要なのは、8月17日・18日の時点では連合国軍はまだ上陸していないということです。連合国軍の上陸は公式には1945年8月28日*1。つまり、日本政府は、連合国軍が上陸している以前から、要求されてもいない性欲処理を自ら申し出たわけです。
 emmy_hilander氏もkomamix氏も、この程度のことすら知らないわけですが、まあ慰安婦問題否認論者のほとんどは同レベルでしょう。
 そしてそれは、彼らが慰安婦問題の基本書すらろくに読んでおらず、慰安婦問題について大した知識もないことを示しています。なぜなら、RAAに関する記述は、吉見義明氏の「従軍慰安婦」(1995)にはもちろん、千田夏光氏の「従軍慰安婦」(1973)にも載っている有名な事実だからです。
 ● 吉見「従軍慰安婦」P196-202
 連合国軍が日本に進駐するのは八月二八日である。その直前の八月一八日、日本政府はみずから進んで連合国軍用の慰安所の設置を指示している。国民の中に恐怖感が広がり、騒ぎが大きくなると、ただちに動き出しているのである。軍慰安所制度をもっていただけに動きはすばやかった。
 (略)
 日本政府によって推進され、業者を使って開設された連合国軍用慰安所は、こうして消滅した。だが、連合国軍が進駐した地域の多くの人びとがその設置を要望し、短期間のうちに全国主要都市に設置されていったという事実は重い。また、連合国軍も短期間とはいえ、これを受け入れていた(その後もアメリカ軍基地の周辺の売春施設がなくならなかったのは周知の事実である)。結局、日本人も連合国軍も、戦争中の従軍慰安婦制度を人権侵害問題として捉えるという意識が希薄なまま、推移していくことになった。
 ● 千田「従軍慰安婦」P209-211
 ともあれ、こうして“慰安婦”の歴史は昭和十三年早春に生まれ、昭和二十年夏の敗戦により終末を告げた。だが、こうした慰安婦の密着性、その必要性を考えるのは“軍”だけの発想ではなかった。戦後に明らかとなったが、日本為政者にも明確にあった。
 その象徴的なあらわれが内務省(警察)、大蔵省が共同して敗戦直後に作りあげた“特殊慰安施設協会”である。すでにご承知の方もおられるだろうが、この略称“RAA”(レクリエーション・アミューズメント・アソシエーション)なる協会は、日本の降伏により全面進駐してくる連合軍が、戦勝国軍隊としてかつて日本軍が占領地でやったと同様な行為を展開するだとろとまず考え、それを前提に作られたのであった。すなわち、連合軍将兵による日本婦女子へ手当たりしだいの暴行の阻止である。
 (略)女性の数は当初二万人で、のち五万人をこえたという。もちろん、この中に朝鮮人女性は一人もいない。できることならすべてを朝鮮人女性にゆだねたいというのが願いだったかも知れないが、敗戦とともに朝鮮は植民地でも国土でもなくなっていた。朝鮮総督の命令いっか、警官隊を動員し若い婦女子を思いのまま集め得たのは夢物語になっていた。吐きかけた唾がかえって来たのである。
 いっぽう所要経費、すなわち女性を集める費用や施設費は概算で五千万円と見積られ*2、この金は大蔵省の口ききで、勧銀から三千三百万円が融資という形で右から左に支出された。三千万円は現在の貨幣価値にして五百億円以上にはなる*3。そして、「これだけの金で日本女性の貞操が守れるなら安い」と当事*4主計局長だった池田勇人(後首相)が語ったという話も伝えられている。融資は無担保だったという*5。
 RAAが正式に消滅したのは1949年4月22日ですが、連合軍用慰安所としては1946年3月27日の封鎖で事実上消滅しています。このわずか7ヶ月間に連合軍用慰安婦として売春を強要された女性は最盛期で7万人と言われます*6。
 わずか7ヶ月間、占領軍兵力40万~50万に対して、7万人の慰安婦であったことを考えると、1937年7月から1945年8月までの8年間で300万人の日本軍に対して20万人の慰安婦というのは推定値としても特におかしくはありませんし、むしろ20万人でも少ないのではないかと思わされます。
 少なくとも、慰安婦数を2万人程度という秦郁彦氏の推定は現実離れしていると言えるでしょうね。
 ▼ 函館にもいた夜の女たち、特殊慰安施設RAA、
   国策で誕生し国に捨てられたパンパン物語り

http://www.green.dti.ne.jp/seiun-dousoukai2/panpan-monogatari.html
 (前略)
 ● 世界に例をみない国策売春
 山田盟子著「占領軍慰安婦 国策売春の女たちの悲劇」の序章には次のように書かれている。
 『本土決戦が叫ばれた昭和20年(1945年)に、国土防衛軍である「江東区女性軍」の編成にくりこまれた女子青年団埼玉第一中隊の103人は、終戦の日には帰してもらえなかった。
 「絶えがたきを耐えて、全日本婦人の楯となるべき・・・」
 とお上が手早につくった「特殊慰安施設協会RAA(占領軍慰安所)のうち、都内の4ヶ所に強制連行され、やみくもに米軍との交接を強いられた。
 そのことは埼玉ならず、広島の女子青年団、そして川崎のM軍需工場など、他地区にも多く見られた。
 当時―天皇のために捧げたてまつると、血の誓紙を捧げてあった娘たちは、
 「血書を捧げた君たちの忠誠を、天はみそなわしたもうたのであろう。君たちでなければ、日本人の操を、進駐軍の手から守り通すことはできない」
 と逆手の賺(すか)しにあったのだった。

 占領軍慰安婦の持ちかけがお上からだされたのは敗戦直後の8月21日、RAAの誕生とともに26日には慰安婦の徴募がなされ、28日はRAAが皇居前で誓詞をなし、同日は厚木進駐の米兵に小町園が開所した。(注:原本によれば、横浜の小町園とあるが、ドウス昌代著「敗者の贈物 特殊慰安施設RAAをめぐる占領史の側面」によれば、大森海岸にあったという)
 RAA発表による占領軍慰安婦は、昭和20年11月まで2万人、最盛期7万人、閉鎖時の昭和21年(1946年3月27日、5万5千人)であり、閉鎖は性病兵が増えたという米軍側の主張によった。
 ――日本帝国の歴史に、千歳に残る烈婦・・・だけを、なぐさめに、RAAから追い出された慰安婦たちは、巷にほうり出されて街のパンパンになった』。
 (後略)

『函館にもいた夜の女たち、パンパン物語 : 函館東高資料集管理人』
http://shigashiko.exblog.jp/11739879/
コメント    この記事についてブログを書く
« RAAから変わらぬ女性に対... | トップ | 2013年第27回憲法フェ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

平和憲法」カテゴリの最新記事