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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

「愛国」は伝統や文化ではない

2006年11月16日 | 平和憲法
「愛国」は伝統や文化ではない・教育基本法改正案(政府案)について 2006/11/15

 【伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する…】
 これが、私が問題点の多いと思う教育基本法改正案(政府案)の中でも、特に問題視される「愛国」の表記です。
 今回は、日本の公教育における伝統と文化、そして「愛国」について書いてみたいと思います。(※本記事中、紹介したした歴史的諸文献の口語訳は筆者が行ないました)

●「学事奨励に関する被仰出書」
 日本では教育の場として藩校・寺子屋・塾などが開かれました。あるいはもっと前にさかのぼれば紫式部や清少納言のような家庭教師もいました。
 しかし、地域的・身分的・期間的・人的側面、そして性別の面でも極めて限定的なものに過ぎませんでした。
 本格的な公教育が始まったのは近代です。政府はいわゆる「被仰出書(おおせいだされしょ)」、正式には「学事奨励に関する被仰出書(太政官布告第214号)」を発して、初めて日本の公教育の理念が示されました。

 この「被仰出書」の冒頭は、教育の必要性についてこう説いています。
【人々が自立して財産を管理し、その仕事を成功させ、その人生を全うさせるのは、他でもなく自分を律して知識を開き、才能を伸ばすことによるものである。そのためには、学ぶということがなくてはならない。それが学校を設置する理由であり……】
 日本は初めて全国に学校を作るにあたって、教えられる側の「人々」、すなわち子どもたちの将来のためを真っ先に考えました。

 「被仰出書」にはこのほか【華族・士族・兵卒・農民・工匠・商人および婦女子を問わず、村々に不学の家やの不学の人をなくすることを目ざす】として、身分・男女別を問わず誰でも学べるよう定められました。

 人々の「教育を受ける権利」を政府として保障するために、学校を設置して教育環境を整え、教育を受けさせるようにし、「不学」の人をなくすこと。これこそが日本の公教育の原点だったと言えるでしょう。

●軍人・山縣有朋による「教育勅語」
 しかし日本の公教育は、徐々に変わっていきました。
 翌1872年の「徴兵告諭」に始まり、73年の「徴兵令」、74年の「征台の役」、75年の「江華島事件」など軍事面での動きが急激に加速します。
 こうして、軍が強化・整備されていく中、1882年「軍人勅諭」が作られました。この「勅諭」は、徴兵でかき集めた人々に対して「軍人としての心得」を説き、「天皇への絶対的な忠誠心」「天皇の統帥権(軍隊指揮権)の歴史的正当性」を叩き込むものでした。
 これを入隊させてからではなく、幼い頃から全ての国民にその基礎を叩き込んでおこうと、1890年、山縣有朋内閣のときに教育勅語が作られました。そこには【何かあれば国に義勇をささげ、天皇陛下をお助けせよ】との教えが記されました。

 この教育勅語が教育の中心に置かれ、それまでの「子どもたち一人ひとりのための教育」ではなく、天皇・国家のために「自ら犠牲となれ」という「愛国心」「忠誠心」の徹底と、軍務の基礎を植えつけるという、極めて偏向した教育に転じていったのです。
 山縣有朋はもともと軍人であり、首相になる以前に次のような意見書を政府に突きつけています。
 【日本の利益線は朝鮮だ。その利益線を守るのに大事なのは、まず兵備、次に教育だ。教育の力で国を愛する心を養成し、これを保ち続けよ】
 根っからの軍人である山縣有朋は、この後の朝鮮半島への侵略のために「兵備」という軍拡とともに「愛国」教育を主張し、自ら首相の座に着き、教育勅語を作らせたのです。

●「愛国」は西洋の「借り物」
 こうして山縣有朋が教育に持ち込んだ「愛国」は、決して日本の「伝統や文化」と呼べるものではないという指摘は、実は当時からありました。
 教育勅語が定められた翌1891年、思想家・西村茂樹はその著書「尊皇愛国論」で次のように批判しています。彼は後に華族女学校の校長や宮中顧問官を務めるほどの「御用」「保守系」の思想家でしたが、そのような立場の人でさえ、この「愛国」には強い反発を示したのです。
【わが国で使われる「愛国」というものは、……西洋諸国の「patriotism」を訳したものである。……わが国の古典を見渡す限り、西洋の人々が唱えるような「愛国」というものはなく、また「愛国」の態度を示した者もいない】
 つまり朝鮮半島への侵略戦争に人々を駆り立てるために、山縣有朋が利用しようとした「愛国」は、同じく侵略戦争に明け暮れていた西洋からの「借り物」に過ぎないというのです。

 実際この教育勅語制定から敗戦までの約55年間、日本政府は軍国主義教育を強化しながら、日清戦争・日露戦争・第一次大戦・日中15年戦争・太平洋戦争へと突き進み、その期間の半分以上を戦争に費やしました。これほど対外戦争に明け暮れた時期はありません。
 このような教育によって自ら戦争に身を投じ、命を失っていった子どもたちは、それこそ数えきれません。それほどまでに、「借り物」の「愛国」教育はその威力を発揮し、多くの子どもたちの命を奪っていったのです。

●「子どもたちのため」を取り戻した「教育基本法」
 戦争が終わり、日本では「教育の民主化」が進められました。戦後の日本の国会は、教育勅語を廃して現行の教育基本法を制定しました。
 この教育基本法が定める教育理念は、「人格の完成」「平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」というものです。
 また、教育行政のあり方については「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」と定められました。これは敗戦まで続けられた、教育への国家の不当な支配を反省し、政府や権力者のためではなく、子も親も含めた国民全体のために教育があるのだという宣言に他なりません。

 子どもたちはおよそ56年ぶりに、教育の「権利主体」すなわち主役へと返り咲き、教育勅語の下で国家や権力者が続けてきた「不当な支配」から解放されたのです。

●「子どもたちのための教育」と「国家のための子どもたち」
 この現行の教育基本法について「戦後の占領下で制定された」ということだけを批判材料として、これを変えようとする人々を多く見かけます。しかし、こうして見てみると日本の教育は「被仰出書」が描いた、子どもたち一人ひとりのための教育、「人々」のための教育という原点を取り戻しただけではなかったのではないでしょうか。

 この現行の教育基本法によって、本来の日本の公教育の原点を取り戻したというのに、また一部の権力者によってそれが奪われようとしています。子どもたちに「愛国」を叩き込むなど、日本の公教育の歴史に照らして言えば、伝統でも文化でもなく、子どもたちを将来、戦争に駆り立てようとする「洗脳」に過ぎません。それは我が国の公教育の歴史が強く物語っています。
 現行の教育基本法に貫かれている「子どもたちのために何ができるか」という姿勢と、教育勅語や改定案に流れる「国家や権力者のために、子どもたちに何をさせるか」という姿勢では、天と地以上の開きがあります。

●「子どもたちのための教育」を守ることこそ日本の伝統・文化
 「侵略」や「戦争」のための「愛国」、この教育勅語の制定に力を注いだ山縣有朋は長州藩に生まれ、高杉晋作や木戸孝允、伊藤博文らとともに松下村塾に学んだ一人です。
 今その松下村塾に心酔する安倍晋三氏が首相となり、かの山縣有朋にならってか、日本の伝統・文化とは相容れない「愛国」教育を、再び強引に押し通そうとしています。
 彼らは教育勅語を絶賛しながら「愛国」を教育現場に持ち込み、憲法を変えて武力行使、すなわち戦争に道を開こうとしています。そうした人々に限って日本の伝統・文化を語るのですから、これほど馬鹿げたことはありません。

 かつて戦争に突き進み、戦争に明け暮れた「異常な55年間」を築いた教育勅語への逆行を許さず、現行の教育基本法が貫く「子どもたち一人ひとりのための教育」を、国家や権力者からの「不当な支配」から守りぬき、しっかりと実現していく。これこそが「被仰出書」という日本の公教育の原点であり、いまなお教育に求められる普遍的な理念です。
 このことが日本の教育の歴史、伝統・文化が示す確固たる結論であると思います。
(秀嶋泰冶)

「JANJAN」
http://www.janjan.jp/government/0611/0611134643/1.php

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