◎ 傍聴・支援 感謝いたします
2012年2月に提訴し、5月の第一回口頭弁論を皮切りに進めてきたこの「授業をしてたのに処分」裁判もやっと地裁判決を迎えました。最高裁で累積加重処分が取り消されたこと、05年卒業式で受けた減給処分が取り消されたことから勝訴になると思われますが、判決はみてみなければ分からない、という怖さも感じます。多くのかたは既にこの事件・裁判の概要はご存じのことと思いますが、再度事件の発端から今日の判決までの流れをご紹介します。
■ 事件の概要
2005年3月の卒業式で2回目の不起立をしたため減給1月の処分を受けました。この処分に対し2回の再発防止研修が課されました。1回目の基本研修は7月21日に行われ、私は出席しました。
翌22日に校長から2回目の専門研修が9月13日(火)に指定されていることを通知されました。火曜日は私の授業が5時間あります。すぐにそのことを校長にいい、校長と長時間のやりとりがありましたが、校長も「日程変更を要請します」といいました。
ところが日程変更は認められませんでした。私は、校長は都教委にきちんと事態を伝えていないと思い、8月中旬に都教委に「日程変更のお願い」を送り、「文化祭の代休となる3日間、私の授業が入っていない金曜日なら何の支障もなくいける、その他の日でも授業に差し障りがなければいけるよう努力する」旨を述べたのですが日程変更は認められませんでした。それで私は13日にはいつものように学校で5時間の授業をしました。その結果職務命令違反として12月1日に減給6月という極めて重い処分を受けました。この処分についての再発防止研修が2006年2月1日に指定され、午前に基本研修、午後に専門研修が行われました。私は授業を1時間他の曜日に変更すれば支障はありませんでしたので出席しました。雨の降る寒い日でしたが近藤さんが最後までいてくださいました。
■ 人事委員会不服審査請求
処分を受けるとは全く思っていなかったので驚き・落胆しました。都教委への怒りもあり、混乱していたと思います。加藤弁護士が「これは勝てます、いちばん勝ちやすい事案です」と励ましてくださいました。同時に処分を受けたゼッケン処分との併合の話もありましたが、あまりにも違いがありすぎました。職務命令による累積加重での減給6月と職務命令とは関係ない戒告(一名は減給)、9月の専門研修と7月の基本研修。共通なのは再発防止研修が関係しているということだけです。併合は無理なので請求人1人で2006年1月20日に都人事委に不服審査請求をしました。多くの裁判が忙しくなる中、加藤弁護士が2007年5月までに準備書面を2つ提出してくださいました。
■ 審査請求の中断
当時は予防訴訟、君が代一次、嘱託解雇、嘱託採用拒否一次などの原告も多い裁判で「拳法で勝つ」ために忙しい時期を迎えていました。君が代二次訴訟につながる処分の人事委員会審理もあります。2007年の夏にこの審査請求を維持するのは無理となりました。その当時の弁護士の方々は見るからに睡眠不足で疲れ切っていて、私は過労死の人が出るのではと内心心配しました。採用拒否一次の弁護団会議には原告もほとんどの方が参加し、私も弁護士の方々が一所懸命に取り組んでいることは身近に感じていました。その中でこれ以上の無理はお願いできないと思いました。でも審査請求を取り下げるという選択はできずに、人事委事務局の方からの今後どうするかという問い合わせに、人事委事務局に教えていただきながら審査延期の手続きを3回ほどしました。法律事務所を2つくらい訪ね、代理人を打診したこともあります。でも一般の法律事務所の応対は芳しくありませんでした。(「君が代」がからむ面倒な事案で勝ってもそれほどの金銭的利益にはならない。私も審査請求・裁判の意義を説明できる状況ではありませんでした。)
■ 審査請求の再開
見通しの立たないまま審理の引き延ばしをしていた2009年の夏に被処分事務局会議で、この審理がどうなっているかを尋ねられ、中断していることを話したところ「弁護士が忙しいなら我々でやっていこうよ」と言ってくださり、再開することにしました。近藤さん、鈴木さん、平田さん、私でのプロジェクトチームが中心となり、事務局員全員が協力してくださいました。準備書面、証人尋問申出書、書証申出などを提出し2010年3月の第一回11月の第二回の公開口頭審理を行うことができました。2回とも近藤さんの精力的な呼びかけで40余の傍聴席に入れない人もいたようです。1回目には私の兄が、2回目には妻が来てくれました。1回目は宮島氏(福生高校校長当時)種村氏(研修センター統括指導主事当時)の精進尋問、2回目は藤森氏(人事部職員課長当時)福嶋原告本人の証人尋問でしたが、鈴木さんの的確な鋭い尋問により、問題の本質がより一層理解できたと思います。最終準備書面を2011年1月に提出し8月に請求棄却の裁決が出ました。この間の書証は鈴木さんに作っていただいています。結果は残念でしたが予想できたこと。中身のある人事委審理ができたと皆さまに感謝しています。
■ 裁判そして判決へ
人事委審理に来てくださった平松弁護士に裁判での代理人をお願いしました。予防訴訟、嘱託解雇、採用拒否、君が代一次などの裁判は最高裁判決もいくつかは既に出、あるいは最高裁の結果を待つ段階に入っていました。弁護士の方々もかつての忙しさではなくなっていたと思います。2012年2月に提訴し5月に第一回口頭弁論、2013年9月の第七回口頭弁論を経て今日の判決に至りました。弁護士の先生方には口頭弁論に向けて何回となく(おそらく20回以上)集まっていただきました。その時々で来て下さる方は多少変わりましたが多くの弁護士の方に来ていただき、法廷では提出した準備書面の要約を陳述していただきました。判例、資料を探していただき、また裁判官が理解しやすい効果的な論の立て方を考えていただきました。この間に最高裁判決により累積加重処分が原則取消しになり、この処分の発端となった05年卒業式での私の処分も取り消しになりました。良い結果を待つだけです(甘すぎるか)。
弁護士の方々、被処分者事務局の方々、そして人事委審理・裁判の傍聴に来てくださった方々に深く感謝を致します。
2013 12月19日
原告 福嶋常光
■ はじめに原告 福嶋常光
2012年2月に提訴し、5月の第一回口頭弁論を皮切りに進めてきたこの「授業をしてたのに処分」裁判もやっと地裁判決を迎えました。最高裁で累積加重処分が取り消されたこと、05年卒業式で受けた減給処分が取り消されたことから勝訴になると思われますが、判決はみてみなければ分からない、という怖さも感じます。多くのかたは既にこの事件・裁判の概要はご存じのことと思いますが、再度事件の発端から今日の判決までの流れをご紹介します。
■ 事件の概要
2005年3月の卒業式で2回目の不起立をしたため減給1月の処分を受けました。この処分に対し2回の再発防止研修が課されました。1回目の基本研修は7月21日に行われ、私は出席しました。
翌22日に校長から2回目の専門研修が9月13日(火)に指定されていることを通知されました。火曜日は私の授業が5時間あります。すぐにそのことを校長にいい、校長と長時間のやりとりがありましたが、校長も「日程変更を要請します」といいました。
ところが日程変更は認められませんでした。私は、校長は都教委にきちんと事態を伝えていないと思い、8月中旬に都教委に「日程変更のお願い」を送り、「文化祭の代休となる3日間、私の授業が入っていない金曜日なら何の支障もなくいける、その他の日でも授業に差し障りがなければいけるよう努力する」旨を述べたのですが日程変更は認められませんでした。それで私は13日にはいつものように学校で5時間の授業をしました。その結果職務命令違反として12月1日に減給6月という極めて重い処分を受けました。この処分についての再発防止研修が2006年2月1日に指定され、午前に基本研修、午後に専門研修が行われました。私は授業を1時間他の曜日に変更すれば支障はありませんでしたので出席しました。雨の降る寒い日でしたが近藤さんが最後までいてくださいました。
■ 人事委員会不服審査請求
処分を受けるとは全く思っていなかったので驚き・落胆しました。都教委への怒りもあり、混乱していたと思います。加藤弁護士が「これは勝てます、いちばん勝ちやすい事案です」と励ましてくださいました。同時に処分を受けたゼッケン処分との併合の話もありましたが、あまりにも違いがありすぎました。職務命令による累積加重での減給6月と職務命令とは関係ない戒告(一名は減給)、9月の専門研修と7月の基本研修。共通なのは再発防止研修が関係しているということだけです。併合は無理なので請求人1人で2006年1月20日に都人事委に不服審査請求をしました。多くの裁判が忙しくなる中、加藤弁護士が2007年5月までに準備書面を2つ提出してくださいました。
■ 審査請求の中断
当時は予防訴訟、君が代一次、嘱託解雇、嘱託採用拒否一次などの原告も多い裁判で「拳法で勝つ」ために忙しい時期を迎えていました。君が代二次訴訟につながる処分の人事委員会審理もあります。2007年の夏にこの審査請求を維持するのは無理となりました。その当時の弁護士の方々は見るからに睡眠不足で疲れ切っていて、私は過労死の人が出るのではと内心心配しました。採用拒否一次の弁護団会議には原告もほとんどの方が参加し、私も弁護士の方々が一所懸命に取り組んでいることは身近に感じていました。その中でこれ以上の無理はお願いできないと思いました。でも審査請求を取り下げるという選択はできずに、人事委事務局の方からの今後どうするかという問い合わせに、人事委事務局に教えていただきながら審査延期の手続きを3回ほどしました。法律事務所を2つくらい訪ね、代理人を打診したこともあります。でも一般の法律事務所の応対は芳しくありませんでした。(「君が代」がからむ面倒な事案で勝ってもそれほどの金銭的利益にはならない。私も審査請求・裁判の意義を説明できる状況ではありませんでした。)
■ 審査請求の再開
見通しの立たないまま審理の引き延ばしをしていた2009年の夏に被処分事務局会議で、この審理がどうなっているかを尋ねられ、中断していることを話したところ「弁護士が忙しいなら我々でやっていこうよ」と言ってくださり、再開することにしました。近藤さん、鈴木さん、平田さん、私でのプロジェクトチームが中心となり、事務局員全員が協力してくださいました。準備書面、証人尋問申出書、書証申出などを提出し2010年3月の第一回11月の第二回の公開口頭審理を行うことができました。2回とも近藤さんの精力的な呼びかけで40余の傍聴席に入れない人もいたようです。1回目には私の兄が、2回目には妻が来てくれました。1回目は宮島氏(福生高校校長当時)種村氏(研修センター統括指導主事当時)の精進尋問、2回目は藤森氏(人事部職員課長当時)福嶋原告本人の証人尋問でしたが、鈴木さんの的確な鋭い尋問により、問題の本質がより一層理解できたと思います。最終準備書面を2011年1月に提出し8月に請求棄却の裁決が出ました。この間の書証は鈴木さんに作っていただいています。結果は残念でしたが予想できたこと。中身のある人事委審理ができたと皆さまに感謝しています。
■ 裁判そして判決へ
人事委審理に来てくださった平松弁護士に裁判での代理人をお願いしました。予防訴訟、嘱託解雇、採用拒否、君が代一次などの裁判は最高裁判決もいくつかは既に出、あるいは最高裁の結果を待つ段階に入っていました。弁護士の方々もかつての忙しさではなくなっていたと思います。2012年2月に提訴し5月に第一回口頭弁論、2013年9月の第七回口頭弁論を経て今日の判決に至りました。弁護士の先生方には口頭弁論に向けて何回となく(おそらく20回以上)集まっていただきました。その時々で来て下さる方は多少変わりましたが多くの弁護士の方に来ていただき、法廷では提出した準備書面の要約を陳述していただきました。判例、資料を探していただき、また裁判官が理解しやすい効果的な論の立て方を考えていただきました。この間に最高裁判決により累積加重処分が原則取消しになり、この処分の発端となった05年卒業式での私の処分も取り消しになりました。良い結果を待つだけです(甘すぎるか)。
弁護士の方々、被処分者事務局の方々、そして人事委審理・裁判の傍聴に来てくださった方々に深く感謝を致します。
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