《河原井さん根津さんらの「君が代」解雇をさせない会 都庁前通信》
◆ なぜ、「君が代」不起立なのか教員の声/大阪から
大阪でも咋年から「君が代」不起立した教員への処分が始まりました。橋下府知事・市長が発案した大阪府教育基本条例、大阪市教育基本条例に「職務命令違反は戒告処分」「同一の職務命令違反3回で分限免職」と規定し、それを使って府教委及び市教委は、今年も不起立処分を強行するのでしょう。
東京・大阪の「君が代」不起立処分は、国際的には異常な罰則です。大阪でも、それにきっぱり立ち向かう教員たちがいます。昨年処分された教員の一人、辻谷さんの不起立の気持ちをお伝えします。
◎ 私が私として生きるために
正直に言えば、まさかこんな時代が来るとは思っていなかった。高校教員となって38年。年々のこの季節を振り返ってみると、卒業式を前にして職員会議の議論、校長交渉、同僚との話し合い、HRにおける生徒との話、そんなことにかなりの時間を費やしてきた。
それでも、あのころはまだ甘かった。「職務命令など出せるはずがない」は「職務命令が出るかもしれない」に変わり、そして一咋年の6月には君が代起立斉唱強制条例が成立した。
周りを見れば、オリンピックやワールドカップで、「日の丸」や「君が代」は日本人に一定馴染まれているかのように見える。
しかし、そのことと、学校における卒業式や入学式で「日の丸」「君が代」を強制する、つまり全教職員に「起立」させ「斉唱」を命じることは、まったく意味が違う。
教育においては、「何かをしなければならない」以上に、「何かをしてはいけない」の方が、はるかに重い。教師にはしてはいけないことがあるのだ。
生徒たちから、時折聞かれることがある。どうして「君が代」を歌わないの、と。
「君が代」斉唱が式次第に入って以来、私はずっと「不起立」で来た。国家のシンボルとしての国歌を学校で子どもたちに強制するわけにはいかないのだ。
ところが、昨年4月に施行された「教育条例」に照らし合わせると、同じ職務命令に3回違反すれば「免職」、つまり入学式や卒業式において3回不起立でクビ!だ。いくらなんでもこれはない。
向こうが使って来たのは禁じ手だ。これを許せば教員は奴隷になる。ここは真っ向勝負で挑むしかない。
昨春の入学式「君が代」不起立に至る思いをざっと振り返ればそのようなところだ。
日本社会では、総じて「個人」は弱い。
「私」を貫けば自己中、我がままと言われる。戦争中の滅私奉公は戦後そのまま企業戦士の精神として受け継がれて来た。
昨年、全校人権行事で映画「田中さんはラジオ体操をしない」を上映し、沖電気解雇撤回闘争当該の田中哲朗さんに話しをしてもらった。
おかしなことに対して諦めずにおかしいと声を上げて闘う田中さんの姿に多くの生徒は驚愕し感動した。
しかし、「おかしなことであっても会社の言うことを聞くのは当然だ」という声も多々あった。
こんな状況で、愛国心を押し付ければいとも簡単に戦争への道を突き進むことになる。
何よりも大事なのは「私」。私が私を生きることが、こんな時代に対する不服従となる。労働の世界においても教育の世界においても然りだ。
我がままだと言われようが、非国民と罵られようが、正々堂々と「私」を生きる一それが、主流的な秩序つまり多数の人々に対する揺さぶりになるはずだ。
こんな時代であればこそ、私、いや私たちは、それぞれの私を生きようではないか。
◆ なぜ、「君が代」不起立なのか教員の声/大阪から
大阪でも咋年から「君が代」不起立した教員への処分が始まりました。橋下府知事・市長が発案した大阪府教育基本条例、大阪市教育基本条例に「職務命令違反は戒告処分」「同一の職務命令違反3回で分限免職」と規定し、それを使って府教委及び市教委は、今年も不起立処分を強行するのでしょう。
東京・大阪の「君が代」不起立処分は、国際的には異常な罰則です。大阪でも、それにきっぱり立ち向かう教員たちがいます。昨年処分された教員の一人、辻谷さんの不起立の気持ちをお伝えします。
◎ 私が私として生きるために
正直に言えば、まさかこんな時代が来るとは思っていなかった。高校教員となって38年。年々のこの季節を振り返ってみると、卒業式を前にして職員会議の議論、校長交渉、同僚との話し合い、HRにおける生徒との話、そんなことにかなりの時間を費やしてきた。
それでも、あのころはまだ甘かった。「職務命令など出せるはずがない」は「職務命令が出るかもしれない」に変わり、そして一咋年の6月には君が代起立斉唱強制条例が成立した。
周りを見れば、オリンピックやワールドカップで、「日の丸」や「君が代」は日本人に一定馴染まれているかのように見える。
しかし、そのことと、学校における卒業式や入学式で「日の丸」「君が代」を強制する、つまり全教職員に「起立」させ「斉唱」を命じることは、まったく意味が違う。
教育においては、「何かをしなければならない」以上に、「何かをしてはいけない」の方が、はるかに重い。教師にはしてはいけないことがあるのだ。
生徒たちから、時折聞かれることがある。どうして「君が代」を歌わないの、と。
「君が代」斉唱が式次第に入って以来、私はずっと「不起立」で来た。国家のシンボルとしての国歌を学校で子どもたちに強制するわけにはいかないのだ。
ところが、昨年4月に施行された「教育条例」に照らし合わせると、同じ職務命令に3回違反すれば「免職」、つまり入学式や卒業式において3回不起立でクビ!だ。いくらなんでもこれはない。
向こうが使って来たのは禁じ手だ。これを許せば教員は奴隷になる。ここは真っ向勝負で挑むしかない。
昨春の入学式「君が代」不起立に至る思いをざっと振り返ればそのようなところだ。
日本社会では、総じて「個人」は弱い。
「私」を貫けば自己中、我がままと言われる。戦争中の滅私奉公は戦後そのまま企業戦士の精神として受け継がれて来た。
昨年、全校人権行事で映画「田中さんはラジオ体操をしない」を上映し、沖電気解雇撤回闘争当該の田中哲朗さんに話しをしてもらった。
おかしなことに対して諦めずにおかしいと声を上げて闘う田中さんの姿に多くの生徒は驚愕し感動した。
しかし、「おかしなことであっても会社の言うことを聞くのは当然だ」という声も多々あった。
こんな状況で、愛国心を押し付ければいとも簡単に戦争への道を突き進むことになる。
何よりも大事なのは「私」。私が私を生きることが、こんな時代に対する不服従となる。労働の世界においても教育の世界においても然りだ。
我がままだと言われようが、非国民と罵られようが、正々堂々と「私」を生きる一それが、主流的な秩序つまり多数の人々に対する揺さぶりになるはずだ。
こんな時代であればこそ、私、いや私たちは、それぞれの私を生きようではないか。
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