《澤藤統一郎の憲法日記から》
◆ どう考えても、「国旗・国歌(日の丸・君が代)」強制は違憲だ
東京「君が代」裁判(第4次訴訟)の控訴理由書提出期限が12月18日とされて、俄然忙しくなっている。
課題として獲得すべき判決は二つ。
「日の丸・君が代」強制が違憲であることの判決。
あるいは、停職・減給だけでなく戒告も裁量権濫用に当たるとして処分を取消す判決。
いずれもけっして低いハードルではないが、原告団も弁護団も元気だ。
違憲論の組み立ても幾つか試みられているが、「国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明の強制は、憲法19条が保障した思想・良心の自由を侵害する」という構成が本命だと思う。どうして、司法はこのシンプルな常識的論理を認めようとしないのだろうか。
私たちの主張は、どんな内容の思想もどんな良心も、19条の効果として国家の権力作用を拒否できると考えているわけではない。国民個人に対する国家の権力発動を「思想良心を侵害するものとして拒否できる」のは、個人の人格の中核にあって、その尊厳を支えている思想や良心を侵害する場合に限定されるものではあろう。
歴史的には、近世のキリシタン弾圧や近代の天皇崇拝の強制、あるいは特高警察による思想弾圧の対象となった信仰や思想。
今の世では、まさしく、「日の丸・君が代」強制を拒否する思想こそが、個人の人格の中核にある思想として国家権力の発動による侵害から守られなければならない。
いうまでもなく、憲法とは権力を統制する手段である。国家と国民個人の関係を規律して、権力の恣意的発動から個人の人権を擁護するためにある。したがって、憲法が最も関心を寄せる課題は、国家権力と国民個人の関係である。
国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する起立斉唱の命令とは、国旗・国歌が象徴する国家と個人が対峙する局面において、権力の発動によって個人に国家の優越を認めるよう強制するということなのだ。憲法の最大関心テーマであって、これを措いて思想良心侵害の場面を想定しがたい。
この強制を合憲だという最高裁の論理はかなり複雑である。シンプルには、合憲と言えないことを物語っている。
最高裁判決の論理は以下のとおり
「儀式」も「儀礼」も宗教で重んじられる。信仰という精神の内奥にあるものの表出としての「儀式」「儀礼」という身体的外部行為は、内心の信仰そのものと切り離すことができない不可分一体のものではないか。
いかなる宗教も、その宗教特有の儀式においてそれぞれの宗教儀礼を行う。信仰を同じくする多数人が、同一の場に集合して、同じ行動をし、同じ聖なる歌を唱う。声を合わせて信じる神を称える。そのことによって、お互いに信仰を確認し、信仰を深め合う。そのように意味づけられた行為である「儀式」「儀礼」は宗教に欠かせない本質的な要素である。
しかも、そのことは、実は宗教儀式と非宗教的な儀式において、本質的差異はないのではないか。ナチの演出による聖火行事。あるいは、国家主義的な演出としてのマスゲームなど。最高裁がいう「儀式的行事における慣例上の儀礼的所作」が思想や信仰と無縁であるということではない。
戦前の国家神道の時代。臣民に神道的な儀式や儀礼が強制された。身体的な動作の強制を以て、望ましい臣民の精神形成がはかられたのだ。その伝統はなくなったのか。まさしく国旗・国歌(日の丸・君が代)への起立・斉唱の強制として、今も生きているというべきだろう。
かつてはご真影と教育勅語を中心とした学校儀式が、今は国旗・国歌(日の丸・君が代)に置き換えられている。天皇を「玉」と呼んで、その権威利用を試みた明治政府は、国家神道を発明して、国民精神を統一する道具に使って成功を見た。
戦後の保守政権も、便利な国民統合の道具として国旗・国歌(日の丸・君が代)を使い続けているのだ。国民統合とは、部分的には企業の統合であり、各官庁や公的組織の一体感獲得の方法でもある。国旗・国歌(日の丸・君が代)に従順な国民精神の形成はこの国の支配層の要求に合致しているのだ。だから、「10・23通達」は国民世論に大きな反発を受けなかったのだ。
しかし、国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制は、明らかに、国家を個人のうえに置くものとして反憲法的といわざるを得ないし、そのような強制が拒絶する人格に向けられたときには思想良心の侵害となることは明らかではないか。
さて、12月18日までに、裁判所に受けいれられるような文体で、文章にしなければならない。
(2017年11月21日・連日更新第1696回)
『澤藤統一郎の憲法日記』
http://article9.jp/wordpress/?p=9497
◆ どう考えても、「国旗・国歌(日の丸・君が代)」強制は違憲だ
東京「君が代」裁判(第4次訴訟)の控訴理由書提出期限が12月18日とされて、俄然忙しくなっている。
課題として獲得すべき判決は二つ。
「日の丸・君が代」強制が違憲であることの判決。
あるいは、停職・減給だけでなく戒告も裁量権濫用に当たるとして処分を取消す判決。
いずれもけっして低いハードルではないが、原告団も弁護団も元気だ。
違憲論の組み立ても幾つか試みられているが、「国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明の強制は、憲法19条が保障した思想・良心の自由を侵害する」という構成が本命だと思う。どうして、司法はこのシンプルな常識的論理を認めようとしないのだろうか。
私たちの主張は、どんな内容の思想もどんな良心も、19条の効果として国家の権力作用を拒否できると考えているわけではない。国民個人に対する国家の権力発動を「思想良心を侵害するものとして拒否できる」のは、個人の人格の中核にあって、その尊厳を支えている思想や良心を侵害する場合に限定されるものではあろう。
歴史的には、近世のキリシタン弾圧や近代の天皇崇拝の強制、あるいは特高警察による思想弾圧の対象となった信仰や思想。
今の世では、まさしく、「日の丸・君が代」強制を拒否する思想こそが、個人の人格の中核にある思想として国家権力の発動による侵害から守られなければならない。
いうまでもなく、憲法とは権力を統制する手段である。国家と国民個人の関係を規律して、権力の恣意的発動から個人の人権を擁護するためにある。したがって、憲法が最も関心を寄せる課題は、国家権力と国民個人の関係である。
国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する起立斉唱の命令とは、国旗・国歌が象徴する国家と個人が対峙する局面において、権力の発動によって個人に国家の優越を認めるよう強制するということなのだ。憲法の最大関心テーマであって、これを措いて思想良心侵害の場面を想定しがたい。
この強制を合憲だという最高裁の論理はかなり複雑である。シンプルには、合憲と言えないことを物語っている。
最高裁判決の論理は以下のとおり
(1) 「日の丸・君が代」への敬意表明という外部行為の強制は、個人の思想・良心を直接侵害するするものではない。ここで、「儀式的行事における慣例上の儀礼的所作」は、「起立や斉唱という身体的(外部的)行為」と「思想良心(内心)」との不可分一体性を否定するために使われている。しかし、果たして本当にそう言えるのだろうか。
(2) しかし、間接的な制約となる面があることは否定し得ない。
(3) その制約態様が間接的なものに過ぎないから、合理性・必要性があれば間接制約は許容される。
(4) 合理性・必要性を認めるキーワードとして、国旗・国歌(日の丸・君が代)に起立して斉唱するのは、「儀式的行事における慣例上の儀礼的所作」に過ぎないことが強調されている。
「儀式」も「儀礼」も宗教で重んじられる。信仰という精神の内奥にあるものの表出としての「儀式」「儀礼」という身体的外部行為は、内心の信仰そのものと切り離すことができない不可分一体のものではないか。
いかなる宗教も、その宗教特有の儀式においてそれぞれの宗教儀礼を行う。信仰を同じくする多数人が、同一の場に集合して、同じ行動をし、同じ聖なる歌を唱う。声を合わせて信じる神を称える。そのことによって、お互いに信仰を確認し、信仰を深め合う。そのように意味づけられた行為である「儀式」「儀礼」は宗教に欠かせない本質的な要素である。
しかも、そのことは、実は宗教儀式と非宗教的な儀式において、本質的差異はないのではないか。ナチの演出による聖火行事。あるいは、国家主義的な演出としてのマスゲームなど。最高裁がいう「儀式的行事における慣例上の儀礼的所作」が思想や信仰と無縁であるということではない。
戦前の国家神道の時代。臣民に神道的な儀式や儀礼が強制された。身体的な動作の強制を以て、望ましい臣民の精神形成がはかられたのだ。その伝統はなくなったのか。まさしく国旗・国歌(日の丸・君が代)への起立・斉唱の強制として、今も生きているというべきだろう。
かつてはご真影と教育勅語を中心とした学校儀式が、今は国旗・国歌(日の丸・君が代)に置き換えられている。天皇を「玉」と呼んで、その権威利用を試みた明治政府は、国家神道を発明して、国民精神を統一する道具に使って成功を見た。
戦後の保守政権も、便利な国民統合の道具として国旗・国歌(日の丸・君が代)を使い続けているのだ。国民統合とは、部分的には企業の統合であり、各官庁や公的組織の一体感獲得の方法でもある。国旗・国歌(日の丸・君が代)に従順な国民精神の形成はこの国の支配層の要求に合致しているのだ。だから、「10・23通達」は国民世論に大きな反発を受けなかったのだ。
しかし、国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制は、明らかに、国家を個人のうえに置くものとして反憲法的といわざるを得ないし、そのような強制が拒絶する人格に向けられたときには思想良心の侵害となることは明らかではないか。
さて、12月18日までに、裁判所に受けいれられるような文体で、文章にしなければならない。
(2017年11月21日・連日更新第1696回)
『澤藤統一郎の憲法日記』
http://article9.jp/wordpress/?p=9497
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