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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

響かせあおう 死刑廃止の声(1)

2009年10月23日 | 平和憲法
 響かせあおう 死刑廃止の声 2009(1)
 ▲ DNA鑑定が間違っていた足利事件


 10月10日はWCADP(死刑廃止世界連盟)の世界死刑廃止デー、「響かせあおう 死刑廃止の声 2009 裁判官の証言 誤判は避けられない!」という集会が四谷区民ホールで開催された(主催 死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム’90)。
 たいへん充実した内容の集会だったので2回に分けて報告する。

 集会は、死刑廃止を推進する議員連盟の保坂展人事務局長(前衆議院議員)の報告から始まった。
 2006年の長勢甚遠大臣から森英介大臣まで4代の法務大臣により3年間大量死刑執行が続いた。だが死刑廃止議連の元メンバー、千葉景子大臣就任によりいったんブレーキが踏まれた。ただし、国民のなかには鳩山邦夫大臣の連続死刑執行に拍手喝采した人もいたし、民主党議員が判決から6月以内に執行しないのはけしからんと言っていた時期もあった。いずれ裁判員裁判で死刑判決が出れば、国民の決定なのになぜ執行しないかとの非難が起こるかもしれない。これを変えるのは大変だが、かつての脳死臨調のように、国民に開かれた場でしっかり議論する必要がある。世界が向かう死刑廃止の方向に、日本が歩み始める年にしたい。
 ▲ 死刑囚の表現をめぐって 大道寺幸子基金の発表とシンポジウム
 死刑囚(未決を含む)に小説、手記、短歌、絵画などの作品を募集し、池田浩士、加賀乙彦、川村湊、北川フラム、坂上香、太田昌国の6人の選考委員が選んだ作品についてシンポジウムが行われた。
 今年が5回目で文芸で3人、絵画で6人が、優秀賞、奨励賞、技能賞などの賞に入賞した。連続して応募する人もあり、年々応募者は増え、今年は文芸が10人、絵画が11人だった。また少しずつ自分の内面を表現していこうという気運が出てきているとのことだった。
 ▲ 足利事件と死刑
 菅家利和さんは1990年5月に発生した幼女殺害事件で91年に逮捕され2000年7月無期懲役が確定したが、冤罪であったことが明確になり今年6月、18年ぶりに釈放された。10月5日には検事の取調べ中のテープが残っていたことが発覚した。当事者である菅家利和さんと控訴審以降の弁護士佐藤博史さんから話を聞いた。進行は岩井信弁護士。
 まず佐藤弁護士から事件と裁判の概要について説明があった。
 足利では79年8月万弥ちゃん(当時5歳)事件、84年11月に有美ちゃん(当時5歳)事件が発生し未解決だった。そこに90年5月真実ちゃん(当時4歳)事件が発生した。警察は11月から菅家さんの尾行を続け、91年6月に無断でティッシュペーパーを押収し、DNA鑑定の結果が11月25日に科警研から報告された。当局からのリークで報道各紙が待機するなか、菅家さんは12月1日朝、足利警察に連行され22時に自白し逮捕された。
 12月1日の読売朝刊には「一両日中に任意同行」、2日朝刊には「運転手を逮捕、DNA一致で自供」という記事が出た。21日には万弥ちゃん、有美ちゃん事件も自供し全面解決と報じられた。
 92年2月から裁判が始まったが、12月22日の第6回公判で菅家さんは突如犯行を否認、しかし25日に上申書を提出した。「真実ちゃんの家族から極刑に処してほしいと言われ、こわくなりやっていないと証言しました。裁判長すみません」という内容だった。その後93年6月の第10回公判以降ふたたび否認したが、7月に無期懲役の判決が下った(万弥ちゃん事件、有美ちゃん事件は不起訴)。
 佐藤弁護士は控訴審から弁護を担当した。93年9月に初めて接見した際、無実だと確信した。争点はDNA鑑定と自白だった
 弁護団は、最高裁に上告中の97年に菅谷さんの毛髪を日本大学で独自にDNA鑑定してもらい、科警研の結果と違っていたので再鑑定を申し出た。しかし最高裁は無視し2000年に無期懲役が確定した。DNAは有機物なのでマイナス80度で保存する必要があるのに、裁判所には保存装置がなく常温で放置していた。調査官から「冷凍保存する機器を弁護団は寄付してくれますか」と冗談めかして言われた。
 2002年菅家さんは再審を請求した。しかし宇都宮地裁池本寿美子裁判長は08年2月棄却した。その理由は「毛髪が菅家さんのものかどうか疎明がない」というものだった。それなら菅家さんは収監させているのだから裁判所が再鑑定すればすむだけのことだ。抗告した東京高裁で再鑑定が決定され、今年5月菅家さんのものでないことが判明し、6月に再審が決定した。
 逮捕当時の朝日新聞には100万人から1人を識別できると書かれていたが、当時の水準では1000人に1.2人で、足利市では50人同じ型の人がいたことになる。
 自白の供述調書では、真実ちゃんをコンクリートの護岸に座らせ両手でのど仏を押して絞殺したことになっていた。しかし実際には片手で絞めた跡しかなかった。その他、調書には数々の疑問があった。
 菅家さんは92年1月27日以降、家族に無実だという手紙を14通送付した。兄がおかしいと思い、一審の弁護士にそのまま届けていた。また12月25日の上申書は、弁護士がアドバイスして菅家さんに書かせたものだった。
 今週受け取った検事の取調べ中のテープで92年12月7-8日のものがあった。検事の「本当に君がやったのか。楽な気持で答えるように」との問いかけに、菅家さんは「本当をいうとやっていません」と答えている。それに対し検事は「いままでの話と全然違う」「君と同じDNAの型を持っている人、何人いると思うの」とウソを押し付けた。そして「人間として失格じゃないかな」「一度話した以上、自分の心の傷として刻みつけておいてほしい」と説教している。これは、遺族が極刑を求めるより時間的に前の取り調べだった。検察に裁判所が欺かれたともいえる。
 今日は死刑問題の集会なので、▲ 足利事件と飯塚事件の関連について述べる。
 飯塚事件は足利事件の2年後、1992年2月20日に福岡県飯塚市の小学1年生の女児2人が殺害された事件である。94年9月に久間三千年さんが逮捕され06年9月死刑判決が確定した。この事件も足利事件同様、DNA鑑定が決め手となった。DNAの型は、奇しくも菅家さんと同じMCT118法の16-26だった。しかし帝京大学の鑑定では久間さんのものと一致しないとされた。何より久間さんは逮捕から一貫して犯行を否認していた。ところが昨年10月28日死刑が執行された
 この10月という時期は、15日に検察が足利事件のDNA再鑑定に反対しないという意見書を提出し、17日に朝日新聞に「再鑑定を」という記事が出た時期だった。久間さんもそれを知っていた可能性がある。死刑執行の事務を取り扱うのは法務省刑事局で、霞が関では「再鑑定に反対せず」を決めた検察庁と隣り合わせのビルにある。刑事局はそれを知りながら死刑を執行した。アメリカなら執行を止めるところだ。法務省はブレーキのきかない殺人マシンだ。取り返しのつかない結果になった。
 今年6月栃木県警本部長が菅家さんに謝罪し、10月5日には宇都宮地検の検事正が謝罪した。その場で15本の取り調べ録音テープを手渡された。
 来るべき再審で、DNA鑑定が間違っていたこと、飯塚事件の鑑定も間違っていた可能性があること、取り調べの全面可視化が必要であることを主張したい。また菅家さんの3件の自白についても、隠された真相を暴かないといけない。足利の悲劇を繰り返さないためには、一度開いたパンドラの箱を開けないといけない。
 ▲ 次に菅家さんから話があった。
 90年12月1日連行され取り調べが始まった。「わたしはやっていません」というと、刑事がひじでどついたのでわたしは後ろに倒れた。もう一人の刑事はポケットから真美ちゃんの写真を取り出し、写真にあやまれと言った。
 「今日は幼稚園の先生の披露宴に招かれている」と言ったら、刑事に「そんなのどうでもいい」と言われた。「許せない」と思った。証拠があるともいわれたが、わたしにはわからない。なお否認していると髪を引っ張られたり足で蹴られた。
 夜10時ごろ疲れて、両親や兄弟のことも忘れ、もうどうでもいいと思い「やりました」と答えた。そして深夜逮捕された。
 12月2日からの取り調べでは、犯人になったつもりになり、自分は自転車を使っていたので、自転車で真美ちゃんを乗せて渡良瀬川の土手に行ったと話した。
 第6回公判でいったん否認したあと上申書を書いた。字は確かにわたしのものだが、内容は弁護士に言われたとおりだ。「こわくなりやっていないと証言しました」という理由も弁護士がつくったものだ。
最後に、進行の岩井弁護士から2人にいくつか質問があった。
 Q テープに残っている取り調べ検事と公判検事は同じ人か
 A 取り調べも公判も、論告も同一の検事だ。いま公証人役場で働いている。
 Q テープについて
 A 再審公判で明らかにするが、しょせん3件の殺人を自白したテープだ。一歩間違えると久間さんと同じく死刑にされたかもしれない。
 Q 福島章上智大教授の精神鑑定について
 A 菅家さんを代償性小児性愛者と鑑定した。専門家の鑑定書により事件の動機まで作られてしまった。DNA鑑定以上に問題をはらんでいるともいえる。
 Q 18年後、佐藤弁護士の事務所に元・幼稚園の先生から連絡があったそうだが。
 A 「当時は、申し訳なかった」と菅家さんがあやまった。すると先生だけでなく、ご主人も先生のご両親も「菅家さんのせいじゃないよ。気にしなくていい」と言ってくれた。
 二人にとっては毎年の結婚記念日が菅家さんの逮捕の日に当たる。スタートからぶちこわしになったのに、菅家さんの無実を信じ、結婚記念日には「菅家さん、どうしているかな」と話をしていたということだった。
☆情熱弁護で有名な佐藤弁護士の真実を求める気迫が広い会場いっぱいに響き渡る報告だった。佐藤弁護士には4歳の孫がいて、この日の午前中は運動会があったそうだ。本来マイナス80度で保管すべき遺留品が15年常温保管されたのに、19年後の再鑑定でDNAが残っていたのは真美ちゃんが守り抜いてくれたからだと、声を詰まらせながら説明された。
 冤罪の端緒が、2006年に真犯人が発覚した富山の氷見事件、踏み字で有名になった2003年の志布志事件と同様、警察の強引な取り調べにあったことは明らかだ。しかしなぜ1審で弁護士、検事、裁判官が間違えたのか、また高裁の裁判官や最高裁の調査官も間違いを見抜けなかったのか。冤罪がどのようにつくられたのか、隠された真相を、ぜひ再審公判で明らかにしてほしい。
『多面体F』より(2009年10月13日 | 集会報告)
http://blog.goo.ne.jp/polyhedron-f/e/b586e2ccc7285c35e55d035feb5d808c

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