《尾形修一の紫陽花(あじさい)通信から》
◆ 菅前首相の弔辞でわかったこと
~世界が正反対に見えている。
「国葬」の前日に、北の丸公園の国立近代美術館に行った。そこから新宿に出て、ケイズシネマでブニュエルの『昇天峠』を見ようと思った。では、どう行くべきか。地下鉄東西線竹橋駅から東京メトロだけで新宿に行くには、かなり大回りしないといけない。そこで、公園を少し歩いて、武道館から田安門を通って九段下駅から都営地下鉄新宿線経由なら新宿三丁目まで3駅である。では当日は近づけない日本武道館の写真でも撮っておこうかと思った。
武道館の様子は映像や写真でたくさん報道されるから、まず田安門の写真を載せておきたい。「皇居」というけど、そこは本来「江戸城」である。そして、江戸城には多くの門がある。(外郭25棟、内郭11棟、城内87棟だそうである。)もちろん「皇居」に直結した門(半蔵門など)は一般人は通れない。しかし、普通に通れる門がかなりあって、それも江戸時代に作られたまま残っている門があることは案外忘れられているのではないか。
中でも重要文化財に指定されている門が桜田門(外桜田門)、田安門、清水門の3つである。桜田門外の変で有名な桜田門が当時のまま残されているのを知らない人がいる。田安門、清水門も、徳川御三卿の田安家、清水家の由来となった門である。日本武道館には九段下駅下車で、田安門を通るのが一番近いだろう。そこで田安門の石垣には黒白の幕が張りめぐらされて、門外に受付用のテントが設置されていた。重要文化財に幕を張って良いのか。まあ、良いんだろう。クリストみたいなアートもあるんだし。
前日の武道館には「故安倍晋三国葬儀場」と大書された看板が掛かっていた。そもそも武道館は「武道行事」に使われるべき施設だが、もうコンサート会場、あるいは大学の入学式会場という印象が強くなっている。ネットで調べると、前々日の25日には「第8回全国空手道選手権大会」が行われていた。従って、「国葬」準備は前日に突貫でやるしかなかったのである。
本来「国葬」というのは、全国民こぞって追悼する儀式のはずである。学校は休みになり、歌舞音曲も慎むということは今回は全くなかった。地方自治体がどう対応するべきかの通達もなかった。「国民一人一人に弔意の表明を強制するものではない」と岸田首相は何度も言っていた。それじゃあ「国葬」にする意味もない感じだが、反対派は反対してていいから、税金使って「国葬」という名前でやらしてくれという感じか。と言うことで、国民の日常はほとんど平常通りだったのではないか。
僕も全く「平常」で、というのは仕事と完全に被っていたので、リアルタイムでは全然見てない。ヒマだったとしても、もちろん見てなかっただろうけど。後でニュースを見ると、反対集会にも多くの人が集まっていたようだが、献花台にも長蛇の列だったようだ。どっちが多いと比べるべき問題でもないだろうが、この「分断」をどう考えるべきか。改めて別に書きたいと思う。
帰りの電車でスマホを見たら、「友人代表」の菅義偉前首相の「感動的」な弔辞が全文載っていた。読んで驚いたのだが、これは「友人代表」の言葉ではない。言ってみれば「部下代表」の言葉である。(「友人代表」にふさわしいのは、きっと加計孝太郎氏なんじゃないか。米国留学時代から知り合いらしいし。)
「TPP交渉に入るのを、私はできれば時間をかけたほうがいいという立場でした。総理は「タイミングを失してはならない。やるなら早いほうがいい」という意見で、どちらが正しかったかは、もはや歴史が証明済みです。
一歩後退すると勢いを失う。前進してこそ活路が開けると思っていたのでしょう。総理、あなたの判断はいつも正しかった。」
しかし、そうして交渉したTPPからは、トランプ政権になってアメリカが脱退してしまう。バイデン政権になっても復帰していない。アメリカの抜けたTPPになってしまった。何のためのTPPなのか。「歴史が証明済み」なのではないか。そういう前提になる政治認識もどうかと思うが、「総理、あなたの判断はいつも正しかった」という官房長官で良いのかと強く思う。だから政権末期に森友、加計、桜を見る会と連続して「権力の私物化」が起こったのではないか。もっとも身近にいて、諫言すべき人が「総理はいつも正しい」と思っているんだから、どうしようもないのである。
そして、こう続く。「安倍総理。日本国は、あなたという歴史上かけがえのないリーダーをいただいたからこそ、特定秘密保護法、一連の平和安全法制、改正組織犯罪処罰法など、難しかった法案をすべて成立させることができました。
どのひとつを欠いても、我が国の安全は確固たるものにはならない。あなたの信念、そして決意に、私たちはとこしえの感謝をささげるものです。」
世界が正反対に見えているのである。
安倍元首相に「とこしえの感謝を捧げる」べき「私たち」に、僕は含まれていない。多くの人が「排除」されている。
恐ろしいのは、菅氏がどう見ても本気で言っていることである。
「我が国の安全」は語っても、人権や正義は語らない。「国家」は語っても、一人一人の人間の苦しみを語らない。見えていない。
そういう「部下」が全国にたくさんいて、「安倍政治」を支えてきたのだろう。
『尾形修一の紫陽花(あじさい)通信』(2022年09月27日)
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