板橋高校卒業式「君が代」刑事弾圧事件 最高裁に口頭審理を要請中
★ 立川、葛飾に続く「言論表現の自由」圧殺を許すな! ★
最高裁は「表現そのものを処罰すること」の憲法適合性を判断せよ!
◇ 5/31欧州人権専門家の『legal opinion』を最高裁へ提出!! ◇
◎ 板橋高校卒業式事件・顛末記<9>
「アオジ」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
会場を出る際、何やらあやしい風を感じた。
しかと聞こえなかったが、のち「ICレコーダー」のよると、「ぶっ殺すぞ」との罵声であった。
土屋の入場のときに露払いをつとめた地元の右翼の男のようである。
「ぶっ殺す」というのは、穏やかでないが、連中はしょっちゅう恫喝として使っているのであろう。
やっこさんがやくざかどうかは知らないが、日本社会の重大な問題点、構造的腐敗の原点にこのやくざの問題がある。
「やーさんと 呼んでやくざも 身内かな」
この小さな島国に、いまや一億をはるかに超える人間がいる。
親の親とたどっていけば、何十代もさかのぼれば皆、親戚になるような社会である。
天皇にも石川五右衛門にも関係してしまう。
以前、系図のだいぶな本を見ていたら、かの宮本顕治が天皇の遠縁であったのに驚いた。
あらためて思うに、それは当たり前であって、驚くにはあたらないということである。
やーさんも天皇も大泥棒も何とかも、みな近かったり遠かったりする親戚なのがこの日本社会の特性である。
仏教でいう、因縁みたいなものである。
その社会の中で、育ちがいいとか、家柄とかいってるアホがいるが、まこと噴飯ものである。
麻生のあの下品なふるまいは、およそ育ちのなんたるかを如実に物語っている。
安倍普三のポスターの顔の鼻の下にひげをつけた奴がいたが、いやあ、ヒトラーそっくりでびっくりした。
話がいつも逸れてしまう。 それらの問題はまた別の章で記そう。
会場を後にして、隣接する格技棟の廊下を進んでいるときに、この突っ張った方が飛んできた。
「ちょっと待て、なにがたがた騒いでやがんだ・・・」というわけである。
私は、この方の興奮を収めることにしばし専念することとなった。
のち、ここでの滞留は、「ぶっ殺す」というんだから仕方がなかった、被告に責任はないという被告の主張に対して、地裁判事は、「自らが招いた結果であって、被告に責任がある」とした。
ある人なり、やくざなり、右翼なりを興奮させたり怒らせたりするのは、原因を作ったその市民の側に責任があるということだ。
校長・教頭など割って入る者は誰もいない。
この直前、来ていた主任指導主事・金子一彦が過剰に反応して、「警察を呼べ」との指示をそばにいた指導主事に命じた。
金子一彦が、都教委高等学校教育課・課長、賀澤に携帯で格技棟の隅から電話している。
「今、教頭の許可を得て、警察を呼んでいます」と。 校長は無視されてしまったようだ。
一方、主任の命令を受けた指導主事は、校長室に飛んで行った。
「警察にきてもらうよう電話せよとの指示だ」と、校長室待機、連絡係の指導主事に言う。
ここは、後の事態が大きく変わったか変わらなかったかの、一瞬の判断の分かれ目であった。
その指導主事、一瞬の思慮の結果、まず課長の賀澤に電話して了解を取ることにした。
賀澤はすでに金子の電話を受けて、いささかの間があった。
賀澤の返答はこうであった。
「警告を三回出して、それでも退去しなければ、警察を呼びなさい」
私は、主任・金子によって危機に陥り、課長・賀澤によって救出されたのである。
ここで振り返ると、警察に連絡されたら、一発、逮捕であっただろう。
公安二課もやって来たであろう、というより後の経緯と同様、公安二課指揮の公安事件の発生であった。
いったいどのくらい勾留されたのであろうか。
立川、75日、葛飾、23日、間をとって44日かなどと馬鹿なことを考えたりする。
それから何年後か、立川の集会に行って発言した。
「あの年の冬は、いつ捕まっても平気なように、掛け布団一枚かぶって、畳の上に直接寝てました」と言ったらみんな呆れて笑っていた。
左にいた、弁護士・内田雅敏氏も、「何だー、こいつ」というような顔で笑っていた。
その寝方はさすが1冬しか続かなかったが、私の部屋はその後も冬、暖房なしで過ごした。
今年の冬は寒かったのか、霜やけが手ににょこにょこ出来て弱った。
かくして、警察の登場なしでその間、その元気なおっさんの説得に成功、格技棟を後にする。
説得の成功のカギは、式に参加して、今後私が一言でもしゃべったら、「ぶん殴っていいですよ」との私の発言にあった。
「ぶっ殺す」に対しての、「ぶん殴っていいよ」の対置である。
暴力には、暴力をである。
この間、いきさつを知らない教頭は、警察が来るのを迎えるべく、棟の入口の方に行ったり来たりしていた。
一件は落着した。
なんと、その方、最後には校長に、「入れてやれよ!」とまで言い残して、踵を返して会場入り口に足早に立ち去った。
かっと来るけど、いい人なのかもしれない。
もとより、式参加はもうすっかり熱なく、そのお方と背中向き合いこっちも格技棟出口に歩み出した。
歩を5,6歩進めた時、卒業生3年1組担任、体育科教員・Nが飛び込んできた。
「何やってんだー」と奥に向かって叫んだ。 そして、すれ違う私を冷たい目で睨み、奥の方へ突き進んで行った。
一瞬、校長らの反応を見てみたいと思ったが、もう馬鹿馬鹿しいという思いが身内に満ちて、一切振り返らずに格技棟を後にした。
のちNは、検察官に、「私が「F」を引っ張り出した!」供述した。
よほど、校長・都教委などに協力して、すぐあとの退職後の再任用を勝ち取りたかったのであろうか。
再任用とは、定年退職後、再び任用されることを言う。
合格の門は狭い。校長推薦と都教委面接がある。
給与にして、嘱託になるのとでは、年、200万円の差がある。
これは大きい。文字通り、食卓の装いが違ってくる。
法廷で、Nが不可解だったことの一つに、「検察庁に行きましたね」の弁護士の質問に対する答えである。
Nは、一瞬とまどってまわりを見るかのような動作をしたあと、「覚えていません」と答えた。
尋問の当初、「私は嘘を吐かない人間です」と胸を張ったNにして、よう言うよである。
検察庁における検察官に対してのNの供述証拠が出ていて、さらに証人として出廷するまえに、検察庁で「証人テスト」・打ち合わせをしてきたNが覚えていないも何もあったもんじゃない。
(略)
2002年2月頃だったか、私も再任用の都教委面接を受けた。
東京都のどの部署か定かでないが、管理職が面接官であった。
50歳前後の男と女の二名であった。
面接官、「現下の教育現場の最大の問題点は、何か」
私、 「最近の管理職の質が、非常に低下していることである」
その後、15分ほどか、女の面接官は私を睨んでいるだけで、一語の質問も発しなかった。
男の方は、どう繕っていいかわからず、おろおろしてた。
勿論、落とされた。
「国旗を掲揚し、国歌を斉唱することを、学校の最優先課題として取り組むことです!」とでも言っておけば、合格したかもしれない。
ここで、校長推薦についてふれたい。
教頭、今や副校長というのか、町の名が消え行くように、名作「坊っちゃん」の教頭名も都教委は破砕してしてしまった。
その教頭になるのも、主幹となるのも、主任教諭になるのも、退職後の職を得るのもすべて校長推薦が強く関わるようになった。
かくして、校長独裁の誕生である。
その校長でさえ、東京新聞で揶揄されたように、本店都教委の指令を受けるコンビニ店長である。
従業員の生殺与奪の権を握って、猛威を振るう。
かって、40弱しかなかった給料の等級表が、今数百に細分化されているとか。
何が生じているか、推して知るべしである。
Nは、この校長推薦のA評価を狙ったのであろう。
それにしても、かっての同僚、十数年のつきあいがある同僚の刑事事件の検察側証人になるとは、わが人品の至らなさを痛感するのみである。
※ 顛末記の過去ログは、
顛末記(8) http://wind.ap.teacup.com/people/4095.html
顛末記(7) http://wind.ap.teacup.com/people/4071.html
顛末記(6) http://wind.ap.teacup.com/people/4049.html
顛末記(5) http://wind.ap.teacup.com/people/4030.html
顛末記(4) http://wind.ap.teacup.com/people/4011.html
顛末記(3) http://wind.ap.teacup.com/people/3892.html
顛末記(2) http://wind.ap.teacup.com/people/3872.html
顛末記(1) http://wind.ap.teacup.com/people/3853.html
20回くらいの連載になる予定です。
★ 立川、葛飾に続く「言論表現の自由」圧殺を許すな! ★
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◎ 板橋高校卒業式事件・顛末記<9>
「アオジ」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
会場を出る際、何やらあやしい風を感じた。
しかと聞こえなかったが、のち「ICレコーダー」のよると、「ぶっ殺すぞ」との罵声であった。
土屋の入場のときに露払いをつとめた地元の右翼の男のようである。
「ぶっ殺す」というのは、穏やかでないが、連中はしょっちゅう恫喝として使っているのであろう。
やっこさんがやくざかどうかは知らないが、日本社会の重大な問題点、構造的腐敗の原点にこのやくざの問題がある。
「やーさんと 呼んでやくざも 身内かな」
この小さな島国に、いまや一億をはるかに超える人間がいる。
親の親とたどっていけば、何十代もさかのぼれば皆、親戚になるような社会である。
天皇にも石川五右衛門にも関係してしまう。
以前、系図のだいぶな本を見ていたら、かの宮本顕治が天皇の遠縁であったのに驚いた。
あらためて思うに、それは当たり前であって、驚くにはあたらないということである。
やーさんも天皇も大泥棒も何とかも、みな近かったり遠かったりする親戚なのがこの日本社会の特性である。
仏教でいう、因縁みたいなものである。
その社会の中で、育ちがいいとか、家柄とかいってるアホがいるが、まこと噴飯ものである。
麻生のあの下品なふるまいは、およそ育ちのなんたるかを如実に物語っている。
安倍普三のポスターの顔の鼻の下にひげをつけた奴がいたが、いやあ、ヒトラーそっくりでびっくりした。
話がいつも逸れてしまう。 それらの問題はまた別の章で記そう。
会場を後にして、隣接する格技棟の廊下を進んでいるときに、この突っ張った方が飛んできた。
「ちょっと待て、なにがたがた騒いでやがんだ・・・」というわけである。
私は、この方の興奮を収めることにしばし専念することとなった。
のち、ここでの滞留は、「ぶっ殺す」というんだから仕方がなかった、被告に責任はないという被告の主張に対して、地裁判事は、「自らが招いた結果であって、被告に責任がある」とした。
ある人なり、やくざなり、右翼なりを興奮させたり怒らせたりするのは、原因を作ったその市民の側に責任があるということだ。
校長・教頭など割って入る者は誰もいない。
この直前、来ていた主任指導主事・金子一彦が過剰に反応して、「警察を呼べ」との指示をそばにいた指導主事に命じた。
金子一彦が、都教委高等学校教育課・課長、賀澤に携帯で格技棟の隅から電話している。
「今、教頭の許可を得て、警察を呼んでいます」と。 校長は無視されてしまったようだ。
一方、主任の命令を受けた指導主事は、校長室に飛んで行った。
「警察にきてもらうよう電話せよとの指示だ」と、校長室待機、連絡係の指導主事に言う。
ここは、後の事態が大きく変わったか変わらなかったかの、一瞬の判断の分かれ目であった。
その指導主事、一瞬の思慮の結果、まず課長の賀澤に電話して了解を取ることにした。
賀澤はすでに金子の電話を受けて、いささかの間があった。
賀澤の返答はこうであった。
「警告を三回出して、それでも退去しなければ、警察を呼びなさい」
私は、主任・金子によって危機に陥り、課長・賀澤によって救出されたのである。
ここで振り返ると、警察に連絡されたら、一発、逮捕であっただろう。
公安二課もやって来たであろう、というより後の経緯と同様、公安二課指揮の公安事件の発生であった。
いったいどのくらい勾留されたのであろうか。
立川、75日、葛飾、23日、間をとって44日かなどと馬鹿なことを考えたりする。
それから何年後か、立川の集会に行って発言した。
「あの年の冬は、いつ捕まっても平気なように、掛け布団一枚かぶって、畳の上に直接寝てました」と言ったらみんな呆れて笑っていた。
左にいた、弁護士・内田雅敏氏も、「何だー、こいつ」というような顔で笑っていた。
その寝方はさすが1冬しか続かなかったが、私の部屋はその後も冬、暖房なしで過ごした。
今年の冬は寒かったのか、霜やけが手ににょこにょこ出来て弱った。
かくして、警察の登場なしでその間、その元気なおっさんの説得に成功、格技棟を後にする。
説得の成功のカギは、式に参加して、今後私が一言でもしゃべったら、「ぶん殴っていいですよ」との私の発言にあった。
「ぶっ殺す」に対しての、「ぶん殴っていいよ」の対置である。
暴力には、暴力をである。
この間、いきさつを知らない教頭は、警察が来るのを迎えるべく、棟の入口の方に行ったり来たりしていた。
一件は落着した。
なんと、その方、最後には校長に、「入れてやれよ!」とまで言い残して、踵を返して会場入り口に足早に立ち去った。
かっと来るけど、いい人なのかもしれない。
もとより、式参加はもうすっかり熱なく、そのお方と背中向き合いこっちも格技棟出口に歩み出した。
歩を5,6歩進めた時、卒業生3年1組担任、体育科教員・Nが飛び込んできた。
「何やってんだー」と奥に向かって叫んだ。 そして、すれ違う私を冷たい目で睨み、奥の方へ突き進んで行った。
一瞬、校長らの反応を見てみたいと思ったが、もう馬鹿馬鹿しいという思いが身内に満ちて、一切振り返らずに格技棟を後にした。
のちNは、検察官に、「私が「F」を引っ張り出した!」供述した。
よほど、校長・都教委などに協力して、すぐあとの退職後の再任用を勝ち取りたかったのであろうか。
再任用とは、定年退職後、再び任用されることを言う。
合格の門は狭い。校長推薦と都教委面接がある。
給与にして、嘱託になるのとでは、年、200万円の差がある。
これは大きい。文字通り、食卓の装いが違ってくる。
法廷で、Nが不可解だったことの一つに、「検察庁に行きましたね」の弁護士の質問に対する答えである。
Nは、一瞬とまどってまわりを見るかのような動作をしたあと、「覚えていません」と答えた。
尋問の当初、「私は嘘を吐かない人間です」と胸を張ったNにして、よう言うよである。
検察庁における検察官に対してのNの供述証拠が出ていて、さらに証人として出廷するまえに、検察庁で「証人テスト」・打ち合わせをしてきたNが覚えていないも何もあったもんじゃない。
(略)
2002年2月頃だったか、私も再任用の都教委面接を受けた。
東京都のどの部署か定かでないが、管理職が面接官であった。
50歳前後の男と女の二名であった。
面接官、「現下の教育現場の最大の問題点は、何か」
私、 「最近の管理職の質が、非常に低下していることである」
その後、15分ほどか、女の面接官は私を睨んでいるだけで、一語の質問も発しなかった。
男の方は、どう繕っていいかわからず、おろおろしてた。
勿論、落とされた。
「国旗を掲揚し、国歌を斉唱することを、学校の最優先課題として取り組むことです!」とでも言っておけば、合格したかもしれない。
ここで、校長推薦についてふれたい。
教頭、今や副校長というのか、町の名が消え行くように、名作「坊っちゃん」の教頭名も都教委は破砕してしてしまった。
その教頭になるのも、主幹となるのも、主任教諭になるのも、退職後の職を得るのもすべて校長推薦が強く関わるようになった。
かくして、校長独裁の誕生である。
その校長でさえ、東京新聞で揶揄されたように、本店都教委の指令を受けるコンビニ店長である。
従業員の生殺与奪の権を握って、猛威を振るう。
かって、40弱しかなかった給料の等級表が、今数百に細分化されているとか。
何が生じているか、推して知るべしである。
Nは、この校長推薦のA評価を狙ったのであろう。
それにしても、かっての同僚、十数年のつきあいがある同僚の刑事事件の検察側証人になるとは、わが人品の至らなさを痛感するのみである。
※ 顛末記の過去ログは、
顛末記(8) http://wind.ap.teacup.com/people/4095.html
顛末記(7) http://wind.ap.teacup.com/people/4071.html
顛末記(6) http://wind.ap.teacup.com/people/4049.html
顛末記(5) http://wind.ap.teacup.com/people/4030.html
顛末記(4) http://wind.ap.teacup.com/people/4011.html
顛末記(3) http://wind.ap.teacup.com/people/3892.html
顛末記(2) http://wind.ap.teacup.com/people/3872.html
顛末記(1) http://wind.ap.teacup.com/people/3853.html
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