◎ Is the protection of "public welfare" an inherent and justified
restriction on the right to freedom of expression?
restriction on the right to freedom of expression?
◎ まとめ
藤田事件に関しては以下のことが強調されなければならない。
-被告は式を妨害する意図が全くなかった
-被告の目的は、既に政治家や教職員の間やメディアに熱い論争を引き起こし、学校関連のコミュニティ(school community)にとって関心の的となっていた問題に関して保護者に情報を提供することであった
-実際上、被告の行為は式の遂行を妨げなかった
-被告の行為による最終的に2分間という式の遅れは被告に対する刑事起訴および有罪成立を正当化できる十分で適切な理由とはならない
-被告の刑事上の有罪判決は、たとえ罰金の支払いに限定されたとしても、彼の表現の自由の権利に対する不必要で不均衡な干渉であり、起訴と刑事犯罪化は被告およびこの問題に関する公の議論に参加する人々に対して「委縮効果」をもたらす可能性がある。
実際、2006年5月30日の東京地裁判決は以下の点を認めている。
「本件は卒業式の妨害を直接の動機目的としたものではなく」、卒業式も「実際に妨害を受けたのは短時間であり、開式の遅延時間も問題視するほどのものではなかった」。
被告の表現の自由の権利を考慮すると、これらの判断は、刑法234条を適用した被告の告訴、起訴、そして有罪成立までの一連の過程に適法かつ十分な理由がなかったことを証明している。
日本の当局が援用する論拠、すなわち、本件被告への刑事上の有罪判決は、「公共の福祉」を保護するために表現の自由の権利に対する「内在的」制約として適用されたという主張は、自由権規約第19条の観点からみると、刑事上有罪成立の必要性を正当化するための適正かつ十分な動機と見なすことはできない。
◎ 結論
自由権規約第6回定期報告の中で日本政府が藤田事件最高裁判決に言及している内容は、表現の自由の制約に関連し、かつその権利を制約する事案において、「公共の福祉」概念の使用を正当化する妥当な論拠と見なすことはできない。
2011年7月7日の最高裁判決を含めて日本の司法がこの事件に関して下した判断こそが、「公共の福祉」概念が実務上、自由権規約第19条が保障する表現の自由の権利に則さない態様で運用されていることを証明するものである。
日本の司法当局は、表現の自由に関する事案において自由権規約に基づく履行を適法化するどころか、「公共の福祉」概念を援用・適用しており、2011年7月7日最高裁判決への言及は、いかに自由権規約第19条による表現の自由の権利の基本的保障に対する敬意を欠くものであるかを如実に物語っている。
(翻訳 賀谷恵美子)
(完)
※英文全文
http://wind.ap.teacup.com/people/html/20130328voorhoof.japan.fujita.pdf
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