今日の分はもう書き終わったからおしまいと思いながら、このあいだ家のインターネットに外部から侵入された事件で、ずいぶんめちゃくちゃにされた昔のgooブログの被害状況をきちんと確認しておくために、古いブログでまだなんとか生き残っている分を見ていたところ、こんなものを見つけてアッと思いました。
もしかして明日は風の家のミサのある日ではなかったかしら。どっちにしても体調の都合で明日は行けないけれど、昔、自分の書いたものを、今あらためて読んでみて、はたと気がついたのは、井上洋治神父様はカルメル会を退会されたけれど、実は一生の間、カルメル会的な祈り、小さい聖テレジアの影響を背負い続けて、その中で生きていらっしゃたのではないかということでした。
私は上野毛のカルメル在世会からは規則で年齢が過ぎていると入会を断られ、仕方がないので、年齢に関係のないカルメルのスカプラリオ会にいれていただき、一般信者として今もスカプラリオのメダルだけは肌身離さず身に着けています。その始まりというのが実は、たしか高校3年の時に学校の図書館でか、卒業して家にいたころかに、よく覚えていないのですが、どうも「留学」とかじゃなかったかと思うのですが、今出ているものとおなじではないようです。遠藤先生のその本を読んだのです。その中に、小さいテレジア様に惹かれて、フランスの修道院に入るために同じ船に乗った田島という青年の話が出ていたのです。私もテレジア様が大好きでしたからその青年の話はずっと忘れられませんでした。
そしてのちに井上神父様が日本とキリスト教を出され、その時にやっと田島青年のモデルは井上神父様だったことを知ったのでした。遠藤先生とのかかわりの始まりは実はこれがあったことからでした。
・・・でもとにかくあの人、上野毛教会なら行こうとおもってるのよ。あの人、霊名はアシジのフランシスコからの、フランシスカ・マリアだけど本当は一番最初に出会った聖人て、カルメル会の幼きイエスの聖テレジアだったのよね。あの人のお父さんが若い時に天理教の影響も受けていた人だったんだけど、幼きイエスの聖テレジアの言ってることとすごく似てたらしいのよ。だからあの人、プロテスタントじゃなくてやっぱりカトリックに改宗したのよね。
カルメル会っていろいろな意見があって、異性愛を連想させる神秘主義を嫌がる方も多いんだけど、そんなに複雑な見方をしなくたっていいんじゃないのかな。
神秘主義といったって別に道は一つじゃないみたいよ。前にイエズス会の神父さまが、大雑把にいうと自分の心の深みに入っていって神と、あるいはキリストと出会う道でこれがカルメル会風神秘主義への道、もう一つは自分の周囲の様々なもの、出会う人、出来事、大自然、生き物、芸術、美、なんてものを通して神に、キリストに出会っていく道、こちらはフランシスコ会風祈りの道というわけでこの二つに大別できるって教わったんですってよ。
でも、もっと言えば生きとし生けるものが全て神様の息吹の中で生かされていて、水の中の海綿のように聖霊の力が全てのものを内からも外からも包み込んでいるのだったら、心の奥深くにも、目の前に見ている現実の中にも神様に、キリストに出会う道があるんじゃないの。幼きイエスの聖テレジアと言う方はうちのおばはんにそんなことを教えてくれたみたいなのよ。・・・
…から…迄の部分、これはまさに風の家につながっていないでしょうか?
もしかして明日は風の家のミサのある日ではなかったかしら。どっちにしても体調の都合で明日は行けないけれど、昔、自分の書いたものを、今あらためて読んでみて、はたと気がついたのは、井上洋治神父様はカルメル会を退会されたけれど、実は一生の間、カルメル会的な祈り、小さい聖テレジアの影響を背負い続けて、その中で生きていらっしゃたのではないかということでした。
私は上野毛のカルメル在世会からは規則で年齢が過ぎていると入会を断られ、仕方がないので、年齢に関係のないカルメルのスカプラリオ会にいれていただき、一般信者として今もスカプラリオのメダルだけは肌身離さず身に着けています。その始まりというのが実は、たしか高校3年の時に学校の図書館でか、卒業して家にいたころかに、よく覚えていないのですが、どうも「留学」とかじゃなかったかと思うのですが、今出ているものとおなじではないようです。遠藤先生のその本を読んだのです。その中に、小さいテレジア様に惹かれて、フランスの修道院に入るために同じ船に乗った田島という青年の話が出ていたのです。私もテレジア様が大好きでしたからその青年の話はずっと忘れられませんでした。
そしてのちに井上神父様が日本とキリスト教を出され、その時にやっと田島青年のモデルは井上神父様だったことを知ったのでした。遠藤先生とのかかわりの始まりは実はこれがあったことからでした。
・・・でもとにかくあの人、上野毛教会なら行こうとおもってるのよ。あの人、霊名はアシジのフランシスコからの、フランシスカ・マリアだけど本当は一番最初に出会った聖人て、カルメル会の幼きイエスの聖テレジアだったのよね。あの人のお父さんが若い時に天理教の影響も受けていた人だったんだけど、幼きイエスの聖テレジアの言ってることとすごく似てたらしいのよ。だからあの人、プロテスタントじゃなくてやっぱりカトリックに改宗したのよね。
カルメル会っていろいろな意見があって、異性愛を連想させる神秘主義を嫌がる方も多いんだけど、そんなに複雑な見方をしなくたっていいんじゃないのかな。
神秘主義といったって別に道は一つじゃないみたいよ。前にイエズス会の神父さまが、大雑把にいうと自分の心の深みに入っていって神と、あるいはキリストと出会う道でこれがカルメル会風神秘主義への道、もう一つは自分の周囲の様々なもの、出会う人、出来事、大自然、生き物、芸術、美、なんてものを通して神に、キリストに出会っていく道、こちらはフランシスコ会風祈りの道というわけでこの二つに大別できるって教わったんですってよ。
でも、もっと言えば生きとし生けるものが全て神様の息吹の中で生かされていて、水の中の海綿のように聖霊の力が全てのものを内からも外からも包み込んでいるのだったら、心の奥深くにも、目の前に見ている現実の中にも神様に、キリストに出会う道があるんじゃないの。幼きイエスの聖テレジアと言う方はうちのおばはんにそんなことを教えてくれたみたいなのよ。・・・
…から…迄の部分、これはまさに風の家につながっていないでしょうか?