メモ

2017-04-22 22:07:20 | Weblog
今頃になってかといわれそうだが、ちょっとした発見をした気がする、というかやっと自分のものになった気がしている。そうか、そういうものなのか。大事な家族、親兄弟、連れ合い、子供、それはみないつかは別れ別れになる時が来る存在だ。一番自分を大事にしてくれるのは多分誰にとっても親だろう。しかし、その親も家族も何時かは必ず別れる時が来る。父の二度目の妻、義理の母だが、この人がいつも言っている。人間、最後はみんな一人なんだよ。お墓もみんな無縁墓になるんだよ、と。ということは、絶対確実な道連れと一緒に歩いていかなくては、決して自分を一人だけ置いていったりしない、最後の最後まで一緒にいてくれる道連れがいなくては寂しすぎる。

あ、なるほどそうか、フランスの幼くして亡くなった女の子、マチルド・ロアの詩に出てくるあの子、それと弱いネズミの側にいつも一緒だったあの人、そうだよなあ、みいちゃん、お前さんに欠けていたのがなんだったかわかるよ。可哀想に、みい。人間は誰も自分一人では生きていけないんだ。Mちゃんだって、本当に頼りきれる、信じきれる人がいたらああはならなかったのかもしれない。自分の本当に確かな拠りどころはこの世の人間では駄目なんだ。死ぬる人間は支えにはならなかったから、MKさんも道に迷ってしまったのかも。

必要なのは何時でも一緒に側にいてくれて決して自分を一人にしない真の友達、時代も人の心も、価値観も変わっても決して変わらない友達。「見捨てじと、のたもう、み声ぞ、聞こゆる」おもわず古い讚美歌や聖歌のこの一節を胸の中で歌い続けるばかりだ。

これこそは遠藤周作先生の目には見えない形見だろう。そして、みいちゃんが教えてくれていることだ。

個人、個人の人間の願いや思いをはるかに超える、大きな、大きな神様の為さることは何時だって、今だけを見ていれば全然納得出来ない、何故と言いたくなる、本当に神様なんているのかと言いたくなる。でも、神様のお考えは人間の思いとはまるで違う。それだけは確かなのだ。この話はあとでちゃんと書きなおした方がいいな。

・・・・それはとにかく、ひどい風邪をひいてしまった。この感じでは今日、明日はミサはお休みするしかない、咳がひどくてだめだ。かかりつけのお医者さんが月曜日はお休みだし、どうしようかと思案中だ。

久しぶりにライオンと魔女(ナルニア国物語-1)を見た

2017-04-22 21:00:46 | Weblog
本では全巻を何度も読んでいるけれど、映画化されたものをWEB版で見るとこれはこれでまた趣が違って別の角度からも見ることが出来てよい。大分前から、第4部の『銀の椅子』の映画化が進んでいる話は聞いているが一体いつ日本での上映が実現するのだろう。今年の前半はパイレーツオブカリビアンの最新作だか、最終作だかの予告編が出てきているから、そのあとだろう、秋以降かな?

久しぶりに第1巻の『ライオンと魔女』を見ると、ますます第4巻の『銀の椅子』が待ち遠しくなってきた。キリスト教国ではない日本では文化の背景が違うから善と悪の戦いの意味も簡単には理解されないとしても、冒険物として、前の3作同様、一般の人でも楽しめる映画になっているはずだ。

いもうとよ-15

2017-04-21 13:15:02 | Weblog
こんにちは~、マリーで~す。今日はねえ、うちのおばはんがなんか調子が悪いとかって言ってるから早めに書いて早めに終わらせるつもりなのよねえ。あの人、かなり脂身が多いから暑がりの寒がりなのよ。季節の変わり目は風邪ひきやすくて全く困っちゃうわ。それでもちゃんと昼ドラの「やすらぎの郷」だけはみてるんだもん、ホントにしょうがないったらないわよ

でもさ、普段テレビはあんまり見ないあの人が見てるんだから面白いドラマなのかもね。普段はうちのおばはんが見るテレビ番組っていったら、「相棒」のある時期は「相棒」と、あとはNHKばっかり、それも今はニュースと特集番組くらいよ。たまにお気に入りの俳優さんの出ているドラマくらいは見るけど毎回毎回見るのは「相棒」くらいなのよ。

今は時代も変わったし、うちのおばはんもプロテスタントからカトリックに改宗してるけど、昔々半世紀くらい前はプロテスタントのすごく堅い教派にいたから、テレビどころか、映画や雑誌もみんなあんまり良くないものだって教わっちゃってたし、いまだにそんなにテレビに熱心にはなれないのよ。

本来なら、うちのおばはんは時間があればテレビより、お外を散歩したり電車の車窓から景色を見たりする方が好きだったのに、足腰が故障し始めてから、さすがにあんまり出歩けなくなっちゃってお家にいる時間が増えたもんでちょっとはテレビを見る時間も増えたはずなんだけど、それほど見たいものもないらしいのよ。テレビよりパソコンやスマホのあたしを使ってSNSのフェイスブックや、ツイッターを見たり、ブログを書いたりしてる時間の方が多いんだわさ。

でもって、あの人ったらさあ、死んでしまった妹も、もしパソコンが使えてもっと違う世界に目を向けていたらとか、今更もうどうにもならないことばかり考えちゃうのよね。人間は誰でも持って生まれた天分てものがあるから、みんながみんな同じじゃないんだし、おなじ兄弟姉妹でも、神様が与えてくださった性格や能力や好みとかも、とにかくみんなみんな違うからどうすることも出来ないんだけど、肉親の情っていうのかしら、もうどうにもならないのはわかっているのに、死んでしまった妹に、ああだったら、こうだったらっていまだに未練がましい思いを向けちゃってたりするのよね。

同じ身内の死者でも、祖父母や父母、親類たちとは全然違って、小さい時からいつもそばにいて一番身近で、決して仲が良かったとは言えないのに、すごくよくわかっている相手だったのよ。同じ子供部屋で過ごしてきて、顔かたちの輪郭の細部まで覚えている相手だったから、遺体の顔写真だけでもすぐにわかっちゃったってところがまた悲しいじゃないのよ。

みいちゃんの一生って何だったんだろう。みいちゃんが残したものは何なのだろう。みいちゃんは何を思っていたんだろう、何を言いたかったんだろう、うちのおばはんはみいちゃんのおねえちゃんだから、妹の一生の意味なんてわかるわけもないけどそれでもやっぱり考えちゃうのよね。

というわけで、この話、まだもうちょっと続くから我慢して読んでね。ほんじゃ、またね。








いもうとよ-14

2017-04-20 12:15:29 | Weblog
こんにちは~、うちのおばはんの相棒のケータイのマリー改め、スマホのマリーで~す。

え、何?そんなことはわかってるから早く話を先に進めろ、そう言われたってこっちにも話の段取りってものがあるんだからさあ、ちゃんと順番に話させてほしいわ。なんか、こっちだってどこから話すんだったか忘れちゃったじゃないのよ。イースター休みって感じでしばらくおやすみしてたから、あたしとしても話の繋がりがどうなっているのか分からなかったりしてるとこよ。あ、そうか、別のジャンルに入ってる昨日の話を少しばかり借りてきた方が話が早いかもね。

・・・・あのさあ、あの人、昨日、ずいぶん久しぶりに九段から神保町を歩いたわけよ。ほんでもって何十年も前、あの人が神保町に通勤していたころを思い出してたんだわ。昔、あの人のお父さんも、神保町の印刷会社に通勤していたし、あの人もお父さんの知り合いの会社に入ってたのよ。神保町もずいぶん変わっちゃったけど、うちのおばはんには相当懐かしかったみたいだったわ。昔々、あの人のお父さんの仕事のお得意先だったホンダさんが本田技研て言ってた頃かな、あの人がまだ子供の頃からよ。

神保町を歩くといろんな思い出が湧き上がってくるみたいよ。多分、死んじゃった妹のみいちゃんのことも頭に合ったからかもしれないけど、やっぱりお父さんの仕事先のちょっとした関係者だった方で、作家でサントリーさんの重役だった開高健さんのお嬢さんの道子さんのことも思いだしてたのよね。

道子さんも気の毒な方だったのよ、豊かな才能もあったのにお父さんの開高健さんを亡くされてから何か道に迷っちゃったのね。うちのおばはんが代母をした人も道に迷ってしまって自分から死んでしまってるのよ。うちのおばはんのとこのみいちゃんもそうだけど、なんかさあ、この方たちを思い出して見ると、3人ともどうもなんというか、自分という存在を内面から支えて、引き留めてくれる確固としたものが。今一弱かったような気がするのよねえ。責めたりなんかしてないわよ。ただ、もうちょっと何とかならなかったのかって思っちゃうのよ。それ以上はどうしたらいいのか、これからのためにどうしたらいいのかって意味だけど、あの人にもよくわからないみたいだわ・・・・

2014年のお正月明けすぐ、千葉にいる義理のおかあさんから、うちのおばはんのところに電話が来てみいちゃんはそっちに行ってるかって聞いてきたのよ。あの人、その朝方にすごく嫌な寂しい夢を見て目が覚めていたから、直観的にこれは危ないって感じたのよ。だから教会のミサの帰りに四ッ谷駅の近くの交番に寄って、こういう時はどうしたらいいか聞いたの。それで行方不明者の捜査願いを自宅に近い荻窪警察署に行って出したら、ほどなく、あっけなく遺体発見よ。

みいちゃん、気が早すぎるわよ。後から言ってもどうにもならないけど、うちのおばはんだって大ショックだったんじゃないの。

ただねえ、あの時にうちのおばはんが感じていたのはねえ、義理のお母さんはちゃんと説明してくれなくて、みいちゃんの行方不明が分かった時点でやっと話してくれたのだけど、みいちゃんは若いころからずっと所属していた家政婦会を止めさせられてから実は一度睡眠薬自殺を図って失敗していたのよね。ということは、とにかく当人がいくら死にたがっても、神様のお許しが無ければ死ねないのだし、もし今回死んでいたらそれは今回のことは神様のお許しが、思し召しがあってのことというしかないってことなんじゃないのかってことだったのよ。

うちのおばはんはねえ、ドジで頓馬だけどそれでも、人間よりはるかに大きなお方の存在はわかるのよ。心から信じているのよ。ただねえ、そのお方のお考えは人間の考えや期待とはかなり違うのもわかるの。物事をご覧になるときのスケールが人間の判断とは大幅に違うのよ。よくさあ、神の沈黙とかっていうじゃないの、あれだって、神様の判断基準、判断のスケールって人間の基準とはまるで違ってるからそう見えるんじゃないのかなあ。

今日のところはこのへんでやめとくわね。うちのおばはんがあんまり座りっぱなしでも腰が痛くなるって文句を言い始めたから、ちょっとお散歩ついでに夕飯のおかずの材料でも買いに行くみたいだし、お供して出かけてくるわ。

ほんじゃまたね。

春物?夏物?

2017-04-19 19:48:21 | Weblog
こんばんは~、マリーで~す。

今日はうちのおばはん、昨日のお出かけでどうも汗をかきすぎて風邪ひいちゃてるみたいなの。朝起きたときから具合悪いみたいで、解熱剤飲んでお部屋でおとなしくテレビ見たり、パソコンいじったりして一日終わりだわさ。昨日がまるで初夏みたいだったから、体のほうも何が何だか戸惑っちゃってるんじゃないのかしら。まだ5月にもなってないのよ。

うちのおばはんて、普段から低体温症で、普通より体温が低いから暑さ寒さの変化に体のほうの調節がうまくいかないのよ。全くしょうがないのよね、あの人。でもまあ、連休も終わって、気がかりな用事もとりあえず片付いたみたいだし、お話を書く仕事に気持ちが戻ってきてるみたいよ。

たださ、やっぱり体調がよくないからいつもみたいにはまだ書けないのよねえ。しょうがないから、あたしにも手伝えって言うんだけど、そう言われたって困っちゃうわよ。あたしはただのおしゃべり専門よ。お話を考えたり、構成したり文章にまとめたりはあたしじゃできないもん。だから今日は、ただのおしゃべりだけよ

あのさあ、あの人、昨日、ずいぶん久しぶりに九段から神保町を歩いたじゃない。昔、あの人のお父さんも、神保町の会社に通勤していたし、あの人もお父さんの知り合いの会社に入ってたから神保町に通勤してたのよ。神保町もずいぶん変わっちゃったけど、うちのおばはんには相当懐かしかったみたいだったわ。昔々、お得意先だったホンダさんが本田技研て言ってた頃かな、あの人がまだ子供の頃からよ。

神保町を歩くといろんな思い出が湧き上がってくるみたいよ。多分、死んじゃった妹のみいちゃんのことも頭に合ったからかもしれないけど、やっぱりお父さんの仕事先の関係者だった方で、作家でサントリーさんの重役だった開高健さんのお嬢さんの道子さんのことも思いだしてたのよね。

道子さんも気の毒な方だったのよ、豊かな才能もあったのにお父さんの開高健さんを亡くされてから何か道に迷っちゃったのね。うちのおばはんが代母をした人も道に迷ってしまって自分から死んでしまってるのよ。うちのおばはんのとこのみいちゃんもそうだけど、なんかさあ、この方たちを思い出して見ると、3人ともどうもなんだか、自分という存在を支え、引き留める確固としたものが。今一弱かったような気がするのよねえ。責めてなんかいないわよ。ただ、もうちょっと何とかならなかったのかって思っちゃうのよ。それ以上はよくわからないんだけどねえ・・・・

ま、そんなところで今日のあたしの話はおしまいよ。ほんじゃまたね

今日はやっぱり寒い

2017-04-11 16:20:43 | Weblog
こんにちは~、マリーで~す。

うちのおばはんは神経痛持ちだから冷えると調子が良くなくて今日はあんまり機嫌がよくないのよ。することもあんまりないからって今日は朝からずっと昨日図書館で借りてきた本を読んだり、時々パソコンを覗いてみたりしてるわ。ほら、この間から始まったテレビ朝日の昼の連続ドラマ、「やすらぎの郷」を3回分か4回分ずつぐらいインターネットのTVerでまとめ見してるのよ。毎日だとどうせ見逃しちゃったりするからこの方が合理的だっていうのよね。

主人公を演じている石坂浩二さんだって、うちのおばはんにとってはNHKの大河ドラマの太閤記以来のお馴染みの俳優さんだから、自分がおばはん世代になってるのも忘れて石坂浩二、年取ったなあなんて言ってるから笑っちゃうわ。今では「相棒」でも時々姿を見るけど、今回はもろリタイア世代を演じていて、共演している俳優さんたちがまた渋いというかなんというか、ほとんどの人がうちのおばはんが十代のころから知っていたような顔ぶれなのよね。有名な人たちがずらっと出演してるからびっくりだわ。なんたってもう、あの八千草薫さんが出てるのよ。

おかしいのはねえ、今じゃあ自分だってすっかり年をとってきたうちのおばはんだけど、このドラマを見ていると、この人たちが若くてきれいでかっこよかった時代、自分もまだ十代、二十代だったころを思い出すらしいのよ。

今の自分と昔の自分を比べてみて、いまだに昔と変わっていないものを考えると、小学生の時、母方のお祖父さんの急死に出会って以来の気持ち、お金や物よりなにより、絶対終わらないものが欲しい、無くならないもの、尽きないものがほしいという思いこれだけはいまだに変わっていないぞって、あたしには威張って見せてるのよ。ほかの人に理解されようとされまいと、これが本音なんだから、これだけは断じて譲れないんですってさ。だから今の状況になっちゃったのにさあ。あの人ってホントのおバカなんじゃないのかしら。

でもまあそんなことはどうでもいいのよね。とにかくさ、今週は木曜日の午前中に関口のカテドラルで大司教様司式の聖香油のミサがあって、そのあと夜はどこのカトリック教会でも主の晩餐で洗足式もあるのよ。知ってるかしら、イエス様がお弟子さんたちの足を洗ったのにならう儀式よ。木・金・土曜日とこの3日間てカトリック教会の一番大きい行事のある日なんだわさ。金曜日は大斎小斎でお肉駄目、ちゃんとした食事は1回だけっていう日よ。でもねえ、こんなことを言っちゃうとなんだけど、ロシア正教の断食の決まりよりははるかに軽いからなんてこともない感じよ。でもって、土曜日の夜が復活徹夜祭よ。いつもよりずっと長いミサがあるから、うちのおばはんなんかは貼るカイロは必須よ。

テレビドラマの「やすらぎの郷」は人生の晩年を迎えた人たちが主人公だけど、この世に生きている人達が実はみんな、全員がドラマ、「自分の人生」の主人公なのかもね。一人一人の人がみんなそれぞれのドラマの主人公だからさあ、物語はその人、その人それぞれ違うのよねえ。誰もほかの人の人生は生きられないんだわ。親子、兄弟、夫婦でも自分の人生を生きるのは自分だけなんだわ。そのドラマの全体の流れを見ておいでなのは神様とか仏様ってことなんじゃないのかしら。

うちのおばはんはカトリック信者だから神様を信じているわけだけど、うちのおばはんみたいに何というか、すっとこどっこいな人でもお母さんのおなかに宿った時から始まってこの先死ぬまでずっと全部、全部、大きな大きなお方に見守られているのじゃないのかしら。どんな人も同じように見守られているんじゃないのかしら。もちろん、この世界には善と一緒に悪も入り込んでいるから、良いことばかりじゃないし、本当にひどいことだって起こるけど、でもその全部を見ているお方がいるんだわ。そのお方はただ見ているだけじゃなくてご自分も人間の姿でこの世界に介入してくださったってキリスト教の方ではいうわよ。この聖週間とか、聖なる3日間というのは人間たちがそのことを思い出すための大事な日ってことみたいよ。

ありゃりゃ、いつのまにか、なんか難しい話になっちゃった感じ。このへんでやめておかないと呆れられちゃいそう。うちのおばはんもさあ、やっぱり一応信者だからこの時期は少しは真面目にイエス様のことを考えるもんだから、つい話がそっちに向いちゃうんだわ。興味のない方にはごめんなさいね。ついでにお知らせよ。明日から日曜日までこのブログはおやすみになりま~す。ほんじゃよろしくね。(よかったらカトリック教会に覗きに行ってみてね。)


聖週間の月曜日でもぜんぜん関係のないお話

2017-04-10 19:30:15 | Weblog
こんばんは~、マリーで~す。

聖週間て言っても日本ではほとんど通用しないし、うちのおばはんも一応信者だけどいつもとおんなじよ。朝から晴れたから洗濯物をどっさり洗って吊るしてお昼過ぎまで忙しがってたわよ。明日はまた天気が悪くなるらしいんですって。あの人、気温が下がってくるとまた足腰の具合が悪くなるってこぼしてるけど、そんなの天気の勝手だもん、愚痴られたってどうしようもないんだわさ。

それでも今日はまだ一日晴れてたからあの人、久しぶりに近くの図書館にでかけたのよ。お家の近くには西荻図書館と反対方向に行くと今川図書館ていう二つの図書館があって、杉並区は昔から図書館に関してはかなり充実しているほうなのよね。どっかの図書館みたいな胡散臭い図書館もどきとは訳が違ってるわよ。でも今日はあの人、資料にするものを探しに行ったんじゃなくて、軽い読み物が読みたくなって出かけたみたいよ。

仕事場が西荻にある有名な漫画家さんで、エッセーも面白い東海林さだおさんていう方の、丸かじりシリーズが読みたかったらしいのよね。このあいだ西荻図書館で探したらみんな貸し出し中で一冊もなかったの。ほんでもって今日はちょっと遠い方の今川図書館に行ったわけよ。運よくこっちにはたくさんあったからまとめて7冊借りてきたの。2週間の期限で読み切れるんかって、中身はたいしてないから面白がって読んでればすぐ読み終わっちゃうわ。これが専門書だったりするとそうはいかないけどね。

丸かじりシリーズって、テーマは全部食べ物の話なんだけどよくこれだけ何冊もシリーズになるほど食べ物で話題が尽きないものだって感心しちゃうわよ。なんかさあ、食べ物ってよくよく考えるとやっぱり人間の命にもかかわる重要なことなのよねえ。うちのおばはんはどっちかっていうとかなり太めなんだけど、それも当たり前で、お料理するのも食べるのも好きなのよね。フェイスブックのお友達や知り合いだって教会関係以外はほとんど日経新聞の昔のWEBサイトにあった新日本食奇行のメンバーだった方たちよ。食べることや食にかんしての興味があるのはあったりまえよ。

大地震とか大津波とか火山の大噴火とか非日常的な事件が起こるとたちまち「食べること」と「出すこと」は最大の問題になるのも、それが命にかかわることだからなのよ。美味しいものの話も、非常用の備蓄食のことも水資源の問題も根は一つみたいな感じだわ。食べ物と、きれいな水がないと生きていることができないなんて普段は忘れてるけど、忘れちゃダメな問題なのよね。

で、うちのおばはんもただの食いしん坊のくせに時々は真面目に考えなくちゃって思うと、真面目な本じゃ読む気がしなくなっちゃうから、東海林さんのエッセーあたりを読みながら面倒な話に考えを広げていくってことみたい。日本の食糧事情って本当はすごく大変なのよね。ここでは言わないけど、問題だらけよ。昔の飢饉の時のことも何一つ伝承されていないけど、この先、世界的な規模で何かあったら日本人はどうなるんだろうってあの人、あれでも考えちゃうらしいのよ。考えてどうなるってもんでもないけどさ、考えないよりはいいかもね。

つまんない話でごめんなさい。今日のはなしはこれでおしまい。ほんじゃまたね。


そういう時もある

2017-04-09 19:49:01 | Weblog
こんばんは~、マリーさんで~す。

自分にさんをつけるなって? だってさあ、ちょっと語呂がいいじゃないの、まったくもう、うちのおばはんとおんなじことを言うのね。なあに、何の用なの? 今、おまえさんのところのおばはんはどうしてるって? 今日はちょっとなんかしらないけどブラックになっちゃってるみたいなのよ。そりゃ、ブルーじゃないかって、ブルーだってブラックだってそんなに違わないじゃないのよ。とにかく、うちのおばはんはちょっとひっくり返って、あ、違うわ、毛躓いてじゃない、えーと、なんだっけ、あ、そうそう、落ち込んでるの。ああ、まったくあの人の傍にいるとおんなじようになってきちゃうわ。あの人も還暦もとっくにすぎてるから、言いたいことがすぐに出てこないのよ。

昨日いやなことがあって、まだそれをひきずってるのよ、あの人ったら。昨日ねえ、うちのおばはんは足腰が痛くても頑張って四ッ谷に出かけたのよね。駅前の雙葉の修道院、二コラ・バレであの人が興味を持ってる風の家のミサがあったのよ。それに出かけたの。そのミサとミサが終わってからの集まりはすごくよかったのよ。あの人は知らなかったけど、帰ってからメールをみたら何年も前からツイッターの方でお友達になってる方が実はお隣に座ってたんですって。二コラ・バレの集まりが終わってからあの人、何の気なしにとなりの元30年以上通っていた教会に寄ったのよね。そしたらたまたま前は聖歌隊で一緒に歌っていた人に出会っちゃったの。でもって、強く誘われてつい聖歌隊に顔を出したのが失敗よ。

何があったかなんてもう言わせないでね。あの人昨夜は荒れ狂って怒ってたの。だって、あの人だって関係者を守るために未だにほとんど話さないようなことだっていくつかあるのよ。でも今の主任司祭も助任司祭も何にも知らないくせに思い込みであの人を見てるの。失礼しちゃうわよ。そんなことだから聖歌隊にも見当違いなうわさが流れたりしていてるみたいだし、あの人の存在が煙たい人にはうれしくないのね。うちのおばはんだって、言われなくたって聖歌隊席で立ってるのがつらくなってくるのが現実だから別にグループに戻る気なんかないんだけど。失礼しちゃうわって、怒っちゃってたの。

ほんでもって今日も内心はまだグリーン、じゃない、エーとピンク、まさかね、えーと、エーと、あのう、あ、ブルーだった、ブルーだったわけよ。それがさっきさあ、なんか急に気持ちが変わったみたいなのよ。いきなり急によ。あの人、ふっと自分は今67だから、運良くだか悪くだか、こんな時代だから何とも言えないけど、あと30年生きたとして97か、母が44、父が76じゃあどうも自分も長寿には縁がなさそうだなあ、どっちにしてもあと30年経った頃には悪口や陰口を言ってた人もこちらと同年代だし、この世にいるかどうか怪しいぞ。あと30年経って彼女が聖歌隊で歌ってるとも思えないな。怒ってもバカらしいじゃないかっていう気がしてきたのよね。

やっぱりさあ、60代も後半になってくるとさすがにうちのおばはんでも大人になってきたってことかもね。やれやれだわ。あたしとしてもこれで安心してあの人と一緒に聖木曜日からの3日間、あちこち連れまわされても心配ないわ。木曜日はほんとは河北病院の整形外科の予約があったんだけど17日の月曜日に変えてもらったから、多分聖香油のミサにも行くつもりみたいよ。三日間は典礼がながーーーいのよねえ。あの人にもそのつもりで準備させなくちゃ。痛み止めのくすりと、貼るカイロは絶対忘れないようにしなくちゃ。

というわけで本日の話はおしまい。ほんじゃまたね。

いろいろ考えさせられる

2017-04-09 13:26:37 | Weblog
何というか、浮世の泥沼に足を取られた気分、うんざり。でも人間の現実から逃げるわけにいかないから、戦闘態勢に行くか、別の無難な方向に目を向けるかしかない。落語でも聞こうっと。


昨日は喜んだり怒ったり、なんとも落ち着かない日だったが、とにかく今年のシュロの枝はもらってきたし、四ツ谷の聖歌隊席に今一度上ったし、考えてみればありがたい1日だった。ピタウ神父樣、ネブレダ神父樣、今は亡きお世話になったお二人の恩人の神父樣は忘れない。以前、ほかに方法がなくてとうとう直接フランシスコ教皇樣にtwitterで直訴してみて話がちゃんと伝わったのはこのお二人のお陰、思えばピタウ神父樣との関わり自体、四ツ谷の教会で、教会という神様の場で、ある人が私についてあんな人は聖イグナチオのレベルじゃないわと言いふらしたのが始まりだった、ピタウ神父樣は教会でそういうことがあってはいけませんと、きちんと教会役員会にもご自分が出席しておっしゃってくださったのだ。時は流れ、人は代わり、四ツ谷の今の現実は相変わらず神様の場とはほど遠い部分もあるけれど、それでも、亡きピタウ神父樣、ネブレダ神父樣のためにも四ツ谷の教会の今後を祈らずにいられない。あ、吉祥寺もだ、なんといっても地元だ。まだ日が浅いからギクシャクしてもしかたがないが、なるべく早く溶け込んでいきたいものだ。教皇樣だってそうお考えになるだろう、いつまでも四ツ谷にこだわっていては先に進めない。


そうだ、思い出した。公園のお風呂ダヌキに始まっていくつものお話を書いてみることになった始めはネブラダ神父樣に自分で努力してみることの大切さを言われて、自分に出来ることを考えたのがお話つくり、物語を考えて書くことだったんだなあ、神父樣に出会っていなければ何も始まらなかった、ケータイの、今はスマホだけど、マリーさんも生まれてこなかった。駄作とはいえ、何作ものお話を書いて、さるお方のお目にまで上ることもなかった、ネブレダ神父樣とピタウ神父樣はまさに真の大恩人だったと思う。勿論その背後に働いておいでだったのは神様だが。結局詰まるところは神様の思し召しなしには何も始まらなかったわけだ。


しかし、上記は過去のことなのだ。この先は現在ただ今の時代に生きる現実を考えなくてはなるまい。NHKスペシャルに見る高齢者漂流時代の到来、これは他人事ではない。神様はこの時代に生きる人間たちをどのようにご覧になり、何を語り掛け、何をお望みなのだろうか。自分自身、足腰のきかない中婆さんになってきてはいるが、だからといって黙って流されていてよいわけはない。善き人も、悪しき人も、敵も味方も行きつくところは同じなのだ。敵のことなど考える必要はないという気持ちにもなるが相手はただお互いのめぐり合わせで相性が悪かったりしているだけで、一個人としてはその人もこの時代の波に流されている同じ仲間でもある。好き嫌いより、共通点で見なくてはどうにもならない。

千里の道も一歩からというぞ。何ができるか考えよう。たしか吉祥寺にはレジオマリエという組織があったけれど、ああいうところは何をどう動いているのだろう。向き不向きもありそうだし、吉祥寺でなくてもいい、なにかできることはないのか。ちいさいことでいいのだ、というか小さいことしかできないのだ。



今日の一日

2017-04-08 22:33:16 | Weblog
今日は午後からずっと四ッ谷にいた。二コラ・バレの聖堂で風の家のミサがあったのだ。この前やっぱり同じこの二コラ・バレで井上洋治神父様の追悼ミサ(でいいのかしら)に参加して見て、山根先生をはじめ、風の家にかかわっておいでの皆様方とほとんど初めてお目にかかって、井上洋治神父様の残されたものの大きさに驚き、今頃になって、遅ればせながら何かの形で後をついて行ってみようと思い始め、一番基本的なところで行くことにして、伊藤神父様の風の家のミサに行ってみることにしたのだ。実のところ足腰の調子は良くないし、もっと暖かい季節になってからにしようかとか思ったのだが、内なる好奇心がもぞもぞと動き、誘い掛けてくるもので、やっぱり出かけてみたわけだ。実際出かけてみて正解だったと思った。玉谷先生がフェイスブックで若松先生のことを紹介してくださったことで始まって、だんだん関係の輪が広がっていく感じだ。

風の家のミサの後、どうせなので土手の桜も見事に咲いているし気分が明るくなるついでにとなりの聖イグナチオ教会にも寄ってみると、知り合いの女の子が聖歌隊で歌わないかと誘ってきたので、でももうほかの教会に転籍したし、というと久しぶりだからいいじゃないとなおも誘うので聖歌隊の練習室に一緒に行ってみた。

正直に言うが女の集まりはおっかないのだよ。土曜聖歌隊の中心の主だった人たちには「公園のお風呂ダヌキ」のコピーも差し上げている。言っては何だがあれを手に入れた人たちは教会でも評価があがったりしているはずだ。しかし彼女たちはそれを書いたこちらについては悪口、陰口三昧。だから皆様方、私の生活保護受給の裏事情も知らないくせにあんな人とかかわるなくらいの陰口を流してくださっているようだ。まったくああいう女どもにはうんざり。ただの普通の生活保護受給者というだけならどうして、マスコミや政財界がちょっかいを出したりするか。お金こそないけれどそれなりの事情があるからさ。世の中は広いのだ。

こちらは足腰のこともあるから四ッ谷の土曜聖歌隊には行かないし、構わないが、情けない。あ、いや、これは四谷だけではなかった。吉祥寺でもフランシスコ在世会の皆さまには「公園のお風呂ダヌキ」のコピーをさしあげたおぼえがある。あれは一応竹の園生においでのお方のお目に上ったものなんだけどなあ。こちらも入会をことわられちゃったっけ。

あれ以来、価値の分からない方たちには断じて差し上げないことにした。でも誰でも読めるところにはおいてある。読みたければさがしてみてくださいな。同様のものはほかにもいくつもあるが、こちらとしては自分の売り込みのためより、キリスト教をもっと知ってもらいたい気持ちで書いたものなのだ。それ以上でも以下でもない。