『こんなこと、あんなこと、いろいろ』の2
思うに、最近の人は、ずいぶんいい年になった高齢者でも、明治になるまでは浄土真宗以外、仏教の僧侶は妻帯を禁止されていて子供や孫が寺を継ぐなどということはありえなかったことも知らないのには、まったくびっくりしてしまいます。父方の本家は法華経寺の門前で七百年続いてきた家だったと言うと、なかには、お寺さんの家で続いたのならたいしたものだけど、門前じゃあ、と返してきたおばあさんもいましたっけ。そりゃあ、歴史的に不可能じゃろうが。お坊さんは本来正式には子孫を残したり出来ない存在だったのに、まったく何を考えてるんだか。
というわけで、うちの父は実父に当たる人はお寺さんだったそうで、戸籍上は実の姉の末の弟、祖父母の末子として届けられています。父の生まれ育った家は今は人手に渡ってしまって、すぐ近くに親類が住んでいるだけですが、今も昔も法華経寺の参道沿いの、寺のすぐ傍にいます。
我が家は下総中山から少し奥に入った若宮という地域で木下(きおろし)街道沿いの、昔は本家の畑だった土地の一部を戦争から帰ってきた父が譲り受けた場所にあり、小さい頃は畑の中の一軒家でした。周辺にあったのは、中山に出れば法華経寺。船橋の方向に行けば中山競馬場。家のすぐそばに若宮小学校、その裏手には山下清の出た八幡学園、あとは畑と田んぼで、そうそう、田んぼのある北方(ぼっけ)の方向に坂を下りていくと赤ちゃんの時から母親同士もお風呂屋さんでよく知っていたという幼馴染の山田さんという女の子の家があり、彼女の家の近くにカトリック市川教会の教会墓地がありました。そして小学校一年生の時に家の母方の祖父が脳溢血で突然に亡くなり、あれが生まれて初めて出会った本物の死というものでした
思えば、中山に行ってもお寺さんとお寺の墓地、お寺にいけばお坊さんの姿もあります。幼馴染の家で遊んで帰るときも目に入るのは教会の墓地で、どちらも子供の頃は遊び場にしていましたっけ。ちっともこわくはないけれど、子供心にも人間が、生き物が、みんな生きて死んでいくことの不思議は考えさせられていました。それで、子供心にも終わりのないものがほしい。永遠に続くものがほしいと思うようになったのです。父の実父がお坊さんだったのは知りませんでしたが、ああいう、終わりのないものにお仕えする一生はいいな、女だから尼さんのようなものになりたいものだとか、子供の頃からなんとなく思っていたのです。
周囲の環境がそんな風でいて、しかも家の父がまた世間一般の普通の人と少し違っていたのだと思います。子供が変わり者だとしたらそれはその子の親が変わり者だったということでしょう。父こそは私という人間の土台を作った人だと思います。すべては父からの影響なしには考えられません。長女で一番上の子で、顔も性格も父自身、お前はお父さんだよ、と言っていたくらいですから相当似ていたのだと思います。
私が小さい頃から父が何かというとよく口にしていた、『闇の夜に鳴かぬカラスの声聞けば、生まれぬさきの父母ぞ恋しき(そのままです)』とか、『三界の狂人は狂せるを知らず』といった言葉は、そっくりそのまま子供の私も覚えこみ、お前、これが分るかという度に、どういう意味なのだろうと考え込みながら育ったのです。お正月といえば、『門松や冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし』です。父は自分もよく本を読む人でした。私が一番初めに買ってもらった本というのは大人用の新潮文庫版、アンデルセン童話集全3巻を三冊とも一度に貰い、何度も何度も読みました。私にとってのキリスト教的なものの見方の基盤になっているのはどうもこの三冊のような気がしてなりません。
そしてまた、小学校高学年になるとこれもまた読むのに苦労した旧かなの岩波文庫版で宮沢賢治の『風の又三郎』でした。読みたい一心で旧かなにかじりついていた小学生でした。それで宮沢賢治の面白さを知り、お小遣いで買ったり、図書館で借りたりして読むようになったわけですが、宮沢賢治が法華経の信仰を持っていたのはかなり後になって知ったことで、その頃は賢治の信仰などは何も知らないまま、心を打たれて読んでいたのでした。そこにあったのは今おもえば他者のために自分を捨てる法華経の菩薩の精神だったようです。そしてそれはイエスさまの生き方にも通じるものだったと思います。勿論、当時はそこまで考えませんでしたが。
父は実の親には縁の薄い人でしたけれど、育ててくれた戸籍上の両親、兄姉(実は祖父母に、伯父、伯母、叔母)からは結構大事にされていたらしく、子供の私から見ても苦労した筈なのに、やたらに人をすぐに信用する人のいい人間でした。(そっくり、そのまま私も同じで、亡くなったライフ神父さまがあきれていたのを思い出します。ライフ神父さまは、あなたは年寄りっ子ではなかったかとおっしゃったのですが、私の父のほうが年寄りっ子だったのですよ、今おもえば。
父は私とおんなじで、人を信じすぎて世間的には失敗した人生ともいえるかもしれない人生でした。でも私には人生の大切な先達、師匠でした。なんといってもこの人の子供だったからこそ今の私があるのですから。
で、父は若い頃一時天理教の熱心な信者だったのだそうです。それで長女の名前も天の理によって恵まれた子です。母と結婚してから、母の兄弟たちから、天理教を止めないなら妹は返してもらうということになって止めたのだそうです。母方は兄弟も多くて祖父母もしっかりしていましたから父としてもそれでよかったのだと思います。
しかし、信仰は止めても父は天理教の考え方を子供によく話していましたから、こちらは幼心にいやでも刻み込まれて育っています。これがまたカトリックの考え方とすごくよく似ているのです。だからこそ、同じキリスト教でもやはりプロテスタントには違和感を感じてしまい結局改宗することになったわけです。どんな小さなことでも誰かの役に立っているんだと聞いて育ったのに、プロテスタントの教会では人に聖書の教えを伝えることが大事で食事の支度や後片付けなど二の次、お皿洗いなど意味がないという考え方で、書くのは得意でも口が下手で人に聖書の話しをするなど大の苦手のこちらは居場所のない気持ちにさせられたものでした。父から教えられた傍(はた)が楽するから、はたらくというのだ、なんていうことは通用しない世界でしたねえ。
さて、キリスト教へはいくつかのきっかけがありました。
家の近くに市川教会の墓地があったことはとにかく、昔は今のようにどこの家庭にでもテレビが普及している時代ではありませんでしたから、我が家ではラジオが大活躍していました。それもあの時代ですから真空管のラジオか、鉱石ラジオです。それでNHKの子供向き放送劇の大ファンだった私は父の鉱石ラジオを奪い取って自分用にし、毎日のようにラジオと付き合っていました。すると、その頃は日曜日の朝はいくつものキリスト教の番組があり、平日も早朝にやはりキリスト教の番組が放送されていたのです。
いまでも続いている、『心のともしび』という番組を中学生の時からずっと聴いていました。というのは小学校は家のすぐ側でしたけれど、中学校はかなり遠いので早起きしなければならず、それで聴くようになったのです。その番組でいつも非常に心に残る話をなさる方がおいででした。シモヤマトクジさんというお名前を覚えました。出演者は定期的に変わりましたが毎年、年間の半分のシーズンに出演していらっしゃったと思います。この方の話しが父の話し同様、非常に心に響くものがあり、その前にもキリスト教には小学校の頃から関心を持っていたのでそのうち教会に行ってみたいと思うようになっていきました。
そしてまた、遠藤周作先生の本も読み始めたわけですが、実は教会に実際に行くようになったのは母の死がきっかけでした。そしてまたその頃、遠藤先生のほうは結核の大手術で入院し、そんな大変な状況の中で生まれたのがあの面白おかしい、狐狸庵先生シリーズだったのです。こちらは当時はそんなこととは露知らず、中学生の頃から北杜夫さんのファンだったので北さんのお友達の一人として知っていた遠藤周作氏の、純文学の気難しい顔とは全然違うへんてこりんな先生、狐狸庵氏に出会って、母の死にめそめそしていた心を引き上げていただいたのでした。