行く年来る年

2010-12-31 14:08:01 | インポート
今年は当方、実に疾風怒濤の大変な一年でありました。

Waga友の介添えもあり、思い切って長年の誤解やいじめに正面きって立ち向かい、それなりの成果とこれからまだ払わねばならない多額の借金が残った、なんともとてつもない一年でありました。

というわけで、あまり皆様とのお付き合いもしていられませんでしたが、なにはともあれ、これからのために新しい話を書くべく構想中であります。

自分が読みたいような話、面白いと思える話を書きたいものです。書いていて面白くない話は読み手にもアピールしませんから。

これまで書いた話は多くが、さるおかたとその関係者絡みになり、書き手のこちらも個人としては遠慮するしかなかったのですが、果たしてこれから書こうとしているものはどうなることか。

まあ、とにかく書かなくては何も始まりません。

メリークリスマス!

2010-12-25 11:35:13 | インポート

なんだかんだと言いながら今年も無事にイブミサで歌う事ができたし、今日はクリスマスでしかも土曜日ですから、土曜日18時聖歌隊の本来の当番とクリスマスのミサが重なり、今夜も歌ってきます。

しかし、それにしても、 今年は地球全体を見ると変なことばかり起こった年でした。世界のあちこちで大規模な地面の陥没事故が起こったり、アイスランドの火山噴火はあるし、気候もおかしなことになっていて、サクランボの季節の筈のオーストリアで季節はずれの大雪が降ったり、あまり良い兆候とは思えないようなことばかり起こっています。

 そんな話をした知人は、とにかく毎日毎日の今を充実させて生きるしかないと言っていました。確かに、先々のことを心配するだけでは時間を無駄にするだけです。 今をそれなりに悔いの残らないように生きていくしかないようです。

こちらはまあ、死んだ母の年を遥かに越えて無事に還暦をすぎたので、後は知り合いのシスターの言葉を見習い、いつ死んでもよいような生き方に近づきたいものです。

 


急遽連載中止

2010-12-25 00:45:26 | インポート
2回まで載せたこれまでの話ですが、それを出してからというもの、いやにパソコンに不正アクセスがふえたり、クッキーの妙な動きが増えていて非常に危険と思われます。今、パソコンからのコピーが機械が壊れて出来ないのですが、いずれ安物でも機械を買ってコピーをとって、一部の方だけにご覧いただく形にしたほうがよさそうです。どうも情報を狙う人たちがいるようですから。

というわけで急遽、創作のほうを優先することにしてこちらは無期延期であります。

こんなこと、あんなこと (2)

2010-12-21 18:38:44 | インポート

『こんなこと、あんなこと、いろいろ』の2

思うに、最近の人は、ずいぶんいい年になった高齢者でも、明治になるまでは浄土真宗以外、仏教の僧侶は妻帯を禁止されていて子供や孫が寺を継ぐなどということはありえなかったことも知らないのには、まったくびっくりしてしまいます。父方の本家は法華経寺の門前で七百年続いてきた家だったと言うと、なかには、お寺さんの家で続いたのならたいしたものだけど、門前じゃあ、と返してきたおばあさんもいましたっけ。そりゃあ、歴史的に不可能じゃろうが。お坊さんは本来正式には子孫を残したり出来ない存在だったのに、まったく何を考えてるんだか。

というわけで、うちの父は実父に当たる人はお寺さんだったそうで、戸籍上は実の姉の末の弟、祖父母の末子として届けられています。父の生まれ育った家は今は人手に渡ってしまって、すぐ近くに親類が住んでいるだけですが、今も昔も法華経寺の参道沿いの、寺のすぐ傍にいます。

我が家は下総中山から少し奥に入った若宮という地域で木下(きおろし)街道沿いの、昔は本家の畑だった土地の一部を戦争から帰ってきた父が譲り受けた場所にあり、小さい頃は畑の中の一軒家でした。周辺にあったのは、中山に出れば法華経寺。船橋の方向に行けば中山競馬場。家のすぐそばに若宮小学校、その裏手には山下清の出た八幡学園、あとは畑と田んぼで、そうそう、田んぼのある北方(ぼっけ)の方向に坂を下りていくと赤ちゃんの時から母親同士もお風呂屋さんでよく知っていたという幼馴染の山田さんという女の子の家があり、彼女の家の近くにカトリック市川教会の教会墓地がありました。そして小学校一年生の時に家の母方の祖父が脳溢血で突然に亡くなり、あれが生まれて初めて出会った本物の死というものでした

思えば、中山に行ってもお寺さんとお寺の墓地、お寺にいけばお坊さんの姿もあります。幼馴染の家で遊んで帰るときも目に入るのは教会の墓地で、どちらも子供の頃は遊び場にしていましたっけ。ちっともこわくはないけれど、子供心にも人間が、生き物が、みんな生きて死んでいくことの不思議は考えさせられていました。それで、子供心にも終わりのないものがほしい。永遠に続くものがほしいと思うようになったのです。父の実父がお坊さんだったのは知りませんでしたが、ああいう、終わりのないものにお仕えする一生はいいな、女だから尼さんのようなものになりたいものだとか、子供の頃からなんとなく思っていたのです。

周囲の環境がそんな風でいて、しかも家の父がまた世間一般の普通の人と少し違っていたのだと思います。子供が変わり者だとしたらそれはその子の親が変わり者だったということでしょう。父こそは私という人間の土台を作った人だと思います。すべては父からの影響なしには考えられません。長女で一番上の子で、顔も性格も父自身、お前はお父さんだよ、と言っていたくらいですから相当似ていたのだと思います。

私が小さい頃から父が何かというとよく口にしていた、『闇の夜に鳴かぬカラスの声聞けば、生まれぬさきの父母ぞ恋しき(そのままです)』とか、『三界の狂人は狂せるを知らず』といった言葉は、そっくりそのまま子供の私も覚えこみ、お前、これが分るかという度に、どういう意味なのだろうと考え込みながら育ったのです。お正月といえば、『門松や冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし』です。父は自分もよく本を読む人でした。私が一番初めに買ってもらった本というのは大人用の新潮文庫版、アンデルセン童話集全3巻を三冊とも一度に貰い、何度も何度も読みました。私にとってのキリスト教的なものの見方の基盤になっているのはどうもこの三冊のような気がしてなりません。

そしてまた、小学校高学年になるとこれもまた読むのに苦労した旧かなの岩波文庫版で宮沢賢治の『風の又三郎』でした。読みたい一心で旧かなにかじりついていた小学生でした。それで宮沢賢治の面白さを知り、お小遣いで買ったり、図書館で借りたりして読むようになったわけですが、宮沢賢治が法華経の信仰を持っていたのはかなり後になって知ったことで、その頃は賢治の信仰などは何も知らないまま、心を打たれて読んでいたのでした。そこにあったのは今おもえば他者のために自分を捨てる法華経の菩薩の精神だったようです。そしてそれはイエスさまの生き方にも通じるものだったと思います。勿論、当時はそこまで考えませんでしたが。

父は実の親には縁の薄い人でしたけれど、育ててくれた戸籍上の両親、兄姉(実は祖父母に、伯父、伯母、叔母)からは結構大事にされていたらしく、子供の私から見ても苦労した筈なのに、やたらに人をすぐに信用する人のいい人間でした。(そっくり、そのまま私も同じで、亡くなったライフ神父さまがあきれていたのを思い出します。ライフ神父さまは、あなたは年寄りっ子ではなかったかとおっしゃったのですが、私の父のほうが年寄りっ子だったのですよ、今おもえば。

父は私とおんなじで、人を信じすぎて世間的には失敗した人生ともいえるかもしれない人生でした。でも私には人生の大切な先達、師匠でした。なんといってもこの人の子供だったからこそ今の私があるのですから。

で、父は若い頃一時天理教の熱心な信者だったのだそうです。それで長女の名前も天の理によって恵まれた子です。母と結婚してから、母の兄弟たちから、天理教を止めないなら妹は返してもらうということになって止めたのだそうです。母方は兄弟も多くて祖父母もしっかりしていましたから父としてもそれでよかったのだと思います。

しかし、信仰は止めても父は天理教の考え方を子供によく話していましたから、こちらは幼心にいやでも刻み込まれて育っています。これがまたカトリックの考え方とすごくよく似ているのです。だからこそ、同じキリスト教でもやはりプロテスタントには違和感を感じてしまい結局改宗することになったわけです。どんな小さなことでも誰かの役に立っているんだと聞いて育ったのに、プロテスタントの教会では人に聖書の教えを伝えることが大事で食事の支度や後片付けなど二の次、お皿洗いなど意味がないという考え方で、書くのは得意でも口が下手で人に聖書の話しをするなど大の苦手のこちらは居場所のない気持ちにさせられたものでした。父から教えられた傍(はた)が楽するから、はたらくというのだ、なんていうことは通用しない世界でしたねえ。

さて、キリスト教へはいくつかのきっかけがありました。

家の近くに市川教会の墓地があったことはとにかく、昔は今のようにどこの家庭にでもテレビが普及している時代ではありませんでしたから、我が家ではラジオが大活躍していました。それもあの時代ですから真空管のラジオか、鉱石ラジオです。それでNHKの子供向き放送劇の大ファンだった私は父の鉱石ラジオを奪い取って自分用にし、毎日のようにラジオと付き合っていました。すると、その頃は日曜日の朝はいくつものキリスト教の番組があり、平日も早朝にやはりキリスト教の番組が放送されていたのです。

いまでも続いている、『心のともしび』という番組を中学生の時からずっと聴いていました。というのは小学校は家のすぐ側でしたけれど、中学校はかなり遠いので早起きしなければならず、それで聴くようになったのです。その番組でいつも非常に心に残る話をなさる方がおいででした。シモヤマトクジさんというお名前を覚えました。出演者は定期的に変わりましたが毎年、年間の半分のシーズンに出演していらっしゃったと思います。この方の話しが父の話し同様、非常に心に響くものがあり、その前にもキリスト教には小学校の頃から関心を持っていたのでそのうち教会に行ってみたいと思うようになっていきました。

そしてまた、遠藤周作先生の本も読み始めたわけですが、実は教会に実際に行くようになったのは母の死がきっかけでした。そしてまたその頃、遠藤先生のほうは結核の大手術で入院し、そんな大変な状況の中で生まれたのがあの面白おかしい、狐狸庵先生シリーズだったのです。こちらは当時はそんなこととは露知らず、中学生の頃から北杜夫さんのファンだったので北さんのお友達の一人として知っていた遠藤周作氏の、純文学の気難しい顔とは全然違うへんてこりんな先生、狐狸庵氏に出会って、母の死にめそめそしていた心を引き上げていただいたのでした。


こんなこと、あんなこと (1)

2010-12-19 17:52:39 | インポート

今年、ひっそりと一部の方にだけお見せしてきたはなしです。まだ当事者がご存命ですから、こちらも武士の情けではないけれど、全部は出しません。しかし、どうしてこういうことになってしまったのか、自分自身のためにも、他の人の深く関わるところは抜かして、これまでを表にだしてみます。肝心のところが出せないのが口惜しかったりもしますが人を苛める趣味はないので、適当にいきます。

前書き省略

さて、今までのことを説明するにはどうしても自分の生い立ち、父についてを話さないわけにはいきません。父の存在こそは自分の今の土台だったと思っているからです。そしてまた、生まれ育った土地の影響も決して無視することの出来ない要素でしょう。

本題に入ります。

私が生まれ育ったのは、千葉県市川市の若宮というところでした。今も本籍は同じ場所です。先祖代々の地ですから。日蓮宗の歴史などに詳しい方はその昔、日蓮上人が松葉が谷の法難にあった時、若宮の領主、富木常忍の助けで若宮の地に逃れたという話しをご存知でしょう。富木氏は父方の先祖の仕えていた殿様なのです。そして下総中山にある日蓮宗の中山法華経寺の開基でもあります。

その関係で父方は鎌倉時代以来中山、若宮の住人で、富木氏の家臣として法華経寺の参道域に家屋敷を、若宮に田畑を持って暮らしてきた家でした。時代とともに本家もすっかり凋落したとはいえ、今も親類は中山に住んでいます。私の父は戸籍上は本家の末の子となっているのですが、実際は孫なのです。つまり、実際は両親となっているのは実の祖父母。兄姉となっているのは伯父や実の母ということになります。父の実の父親はお寺さんだったのだそうです。といっても父が生前はなんとなく、死後になってはっきりと聞かされたのでした。

それを聞いても子供のこちらは実はちっとも驚きませんでした。なぜなら長女で一番上でお父さんっ子だった私にとっての父は他所のお父さんに比べると非常に不思議な存在だったからです。他所のうちのお父さんたちとはどうもかなり違う。そんじょそこいらにいくらでもいる人たちとは全然違う。父のような人は滅多にいないことは大人になってからも実感していました。ただ、どうしてそうなのかが分からなかったのがそれではっきりしたわけです。

父は学歴もないし、大きな会社に勤めていたわけでもありません。けれども非常な読書家で、物知りで、冗談や人を面白がらせることが大好きで、普通の人が目も止めないようなものを面白がり、本当に働き者で家族を大事にしていた人でした。父が生まれてまもなく実母、私には実の祖母は、赤ちゃんだった父を残して他所の人と結婚し、父は祖母(私には祖々母にあたる)と若かったころの伯母の手で育てられたために、寂しがりやで、いたずらや悪さばかりする男の子だったようです。

遠藤周作先生は子供の時、教会でさんざん悪さをしたそうですが、うちの父も同じようなことをしていたのです。小学校では屋根の上に上って下に向かっておしっこをし、全校生徒の前で、先生から『この者は・・・」と叱られたこともあったと聞いています。父の同級生が元市川市長の高橋さんだし、もしかしたらまだ当時の同級生の方もおいでになるかもしれません。とにかく悪ガキだったそうなのです。

そんなこんなで自分の子たちには自分のような寂しい思いはさせたくないと、家族、家庭はとても大切にする人だったと思います。どちらかといえば逆に甘やかしすぎで失敗したかもしれません。でもそのことはおいて話を進めます。

父がどんなものを子供に与えてきたかという話です。。私が物心ついた時には毎年お正月というと、我が家では一家揃ったところで父が一休禅師の『門松や冥土の旅の一里塚』という歌を持ち出してからでないと始まりませんでした。こちらは小さい時から、お正月といえども、めでたくもあり、めでたくもなしなのだという感覚を植え付けられて育ってきたのです。

・・・・以下、先が長いので、のんびり手直ししながらだしていくことにします。

 


今泣いたカラスがもう笑う

2010-12-18 15:42:27 | インポート

一昨日はピーピー騒いでいたカラスは、昨日は別口の年末の納会ミサとパーティーに行って、機嫌を直して戻ってきました。付き合いの年月も違うので、ここでわびしい思いをするとダメージもさらに大きいのですが、さすがにそうはならず、いつもグループがお世話になっている番町のセブン本社社員食堂、ファミールさんのご好意、ご協力もあって昨夜も良い納会になりました。

というわけで、本日は夕方のミサの聖歌隊に行き、練習も今日はサボれないので、真面目に歌ってきます。本番は24日が8時半のミサ。金曜会の指導司祭の司式なので知り合いもみんなこの時間を狙っているようです。7時には並んでいないと座れません。

25日は土曜聖歌隊はいつもの夕方18時。この日は新垣先生が指揮をしてくださいます。

いずれにしても来週、再来週はさすがに忙しくなり、書き物に手をつけるのは年明け以降になると思います。あ、そうそう、祈りの互換性ということから、カルメルではなく、フランシスコ会の方に勉強にいくようになって、どうも自分の心にピンと来るのはフランシスコの方だと思うようになりました。

昔、イエズス会のリバス師が当時の黙想学校という会で、観想は大きく分けると心の中に入っていって神と出会おうとするカルメル会的な観想と、自分の周囲の世界の中で神に、あるいは神の働きに出会うフランシスコ会的な観想があるとうかがいました。この二つは、本当は別々のものではなくて一つのものなのですが、入り口の違いがあるというわけです。

これも昔、カンガス師に講座できいたはなしですが、人間と神の関係はスポンジと海のようなもので、海の水の中にあるスポンジは海がわからないけれど、自分の内側も外側も海の水でいっぱいにみたされているように、人間も、他の全ての存在も実感できなくても神様の中で生きていて、内側からも外側からも神様で満たされているのだと言います。であれば、カルメル的観想もフランシスコ的観想も行き着くところは同じということになります。

そして、そうだからこそ、高い壁の中の修道院にこもらなくても、世間の中でも祈りの生活は可能ではないかと思っているのです。神との一致といっても、さまざまなレベルがあるのです。日本人の霊性にぴったりくる祈りの生活というのがあってもいいはずです。ヨーロッパ、アメリカの真似をしたところで、本物にはなれません。日本で生まれ育った日本人のセンスを持った日本人の祈りの生活を求めます。

というわけで、フランシスコ会の在世会に行き始め勉強してみると、どうもこちらの方が自分にはぴんと来るなあと思ったのでした。

ただ、今の自分の状況というのが、望んだわけでもなくいやでも流されてここにきたという気持ちがあるので、その辺が少々不本意であります。まだ断じて納得できません。まあ、こちらは書き物を続けながらいきますが、そのへんももっと上の責任者の方々には考えていただきたい。


お酒の呑めない人

2010-12-17 09:19:28 | インポート

おっはようさんで~す。マリーで~す。今朝はうちのおばはんがすねてるから代わりに出てきたのよ。


 ゆうべはあの人、年内最後の聖書の集いに行ったの。昨日は終わってから最後の〆のお食事会だったのね。おばはんも予算によっては行こうかなと思っていたらしいのね。でも幹事の方から予定外の額を提示されてやめちゃったの。だってさ、あの人お酒は呑めない人だから、その額じゃさ、ぜんぜん割に合わないのよね。

 暮れだから多少の出費は仕方ないと思うけど、今のおばはんの生活水準としてはまあ、せいぜい気張って5千円だよねえ。納得できなくても役所が毎月4千円とりたてている状況よ。おばはんのしていることは、あの人自身より杉並区のためにこそ役にたってるはずなんだけどお役所は紋切り型の仕事しかしてくれないんだもんね。

1ヶ月の食費が一万円ちょっとの生活をしている現実では、あんまり今の身の丈に合わないことはしていられないのよ。その上に自分はお酒全然呑めない人よ。わるいけど今回はそこまではお付き合いしていられないじゃない。

 皇室が登場しようと、有名企業が登場しようとあの人自身の今の生活は、相変わらず生活保護のまま、おまけにお父さんが亡くなったときのごたごたで返すに返せないままの借金はかかえているし、それも法テラスでさえ、あなたの問題は只のお金の返済ではなくて、控訴とか裁判とかの一般相談の話だからこちらではあつかえないと言われてそのままなのよね。話がものすごく複雑で一般的なことでなさすぎて弁護士も逃げちゃうという一件ではちっぽけな個人はどうにもならないのに、役所はそれでもないお金をとりたててるし、あの人、食事会のことからまたまた自分のかかえている問題を思い出してかっかっとしちゃってるのよ。

 血圧が上がるだけだから気持ちを静めろってあたしが言っても、今夜もまた別口のお付き合いがあって、それがまたいらいらと腹立ちの原因になってるらしいの。今のあの人に必要なのはどうでもいいようなお付き合いなんかより、もっと別のものなんだと思うわ。物語を書くための心的エネルギーが枯れちゃうようなところに行ってもなんにも役にたたないのにさ、たまだからって今日も行くつもりらしいわ。それでもって、またがっかりして書くためのエネルギーが消えちゃったりしないといいんだけど、これじゃどうなることだか、まったくしようがない人だわ。

お酒が呑めても呑めなくても、人間は自分一人では良くも悪くも成長も変化もないというのも確かに本当よ。自分を知るためには他の人達との関係性は大事よ。だけどうちのおばはんみたいに、自分の持ち出し分ばかり多すぎて失敗してる人は、これもまた問題よ。まあ、あの人の来年の課題だわね。歳は重ねてもあんまりおとなじゃないおばはんの相棒を務めてるとあたしもほんとに苦労しちゃうわ。

 あの人の指導をする方々はあんまり自分の考えをあの人に押しつけないでほしいわ。うちのおばはんがこんな状況でも我慢してるのは別に貧しさ自体をもとめてるわけじゃないわよ。貧しさ自体ではなくて、探しているのは神さまへの道なのよ。そのへんでどうも食い違いがあると困るんだわ。

でも、このはなしはまたあとであの人が自分で書くかもしれないからやめておくわよ。うちのおばはん、そのために今の状況でもなんとか耐えているんだもん、安易にああだ、こうだなんて言えないわ。 長話しになっちゃったからこのへんでおわりにしま~す。

そんじゃまたね。


とうふ屋らるご

2010-12-11 13:57:45 | インポート
※ これを書いてから、SNSのウフルに移動してびっくり。昨日、散々てこづらせられて、削除したはずの記事がちゃんと向こうは写真つきで出ていました。やっぱり古びたりとはいえ、富士通パソコンえらい。あちらはウォークマンとユーチューブ以外ではとんでもないやくざなパソコンであります。



こんにちは~、マリーでーす。仕事をしたがらないうちのおばはんを一生懸命机の前に引っ張ってきてやっと書かせたわよ。まったくこの人ときたら、どうしようもないんだからもう。

このあいだ、うちのおばはんが青梅街道を歩いているうちに、変わったお店を見つけたの。『とうふ屋らるご』っていうお店なんだけど普通のお豆腐屋さんじゃなくて、地域の障害者福祉共同作業所なんですって。心の病を持った人たちの社会復帰のための作業所だったわけ。

うちのおばはんの親類の人も『やどかりの里』っていう施設をつくってがんばっていたソーシャルワーカーだったから、おばはんもピンときてこれは応援しなくちゃいけないって思ったらしいのよ。だってねえ、こういうことにかかわっている人たちの苦労、実際に見聞きしてたんだもの。まあ、うちのおばはんもお金は全然ない人だから、せいぜい、時々買いに行ったり、このお店を紹介したりするくらいしかできないけれど、なんにもしないよりはいいじゃん。

『とうふ屋らるご』は青梅街道沿いの、場所としては桃井4丁目に近いのよね。えっと、どんなおとうふかっていうと、蔵王の美味しい水と国産大豆ミヤギシロメ100%を原料に,凝固剤には塩田にがりを使用し、かくはん作業などたいせつな工程を全て手作業で行っています。大豆本来の旨みのある、風味豊かなお豆富をぜひご賞味ください、ですって。

製品はねえ、よせとうふにミニよせとうふ、ざるとうふ、絹ごしとうふ、黒ごま絹之助、きぬっこ、それから味噌漬け油揚げ、厚揚げとがんも。あと、お豆腐のデザートで、とうふドーナツに豆乳プリン、普通のとゴマのとね。それにオカラカリントもあるわよ。

うちのおばはん、甘いもの大好きのくいしんぼさんだから、さっそくとうふドーナツと豆乳プリンを買って食べてみて、予想以上においしいってびっくりしてるのよ。お豆腐を入れたドーナツって実際に食べてみればわかるけど普通のドーナツにない楽しい食感なんだっていってたわ。

(問い合わせは  工房ラルゴ  杉並区上荻4-26-11 ケイショーA. r. k3   Tel&Fax 03-3399-1338)

ちょっとだけ顔見世ね

2010-12-10 15:48:47 | インポート

こんにちは~、マリーですー。あのねえ、うちのおばはんは今頭の中がしっちゃかめっちゃかなのよ。自分はお酒呑めないくせにお酒の文化とか、効用とかいろいろな本を読みかけてるのよ。当人どっちかっていうと甘いお菓子のほうがすきなのにさあ。

それで年内は忙しすぎて全然書けないから、資料を集めて読んでおわりになっちゃいそうだってこぼしてるわ。まだまだなかなか進みそうもないんだわさ。何しろ今週も来週も毎日のように打ち上げだ、納会だ、って言ってるもん。家のおばはんだけじゃないと思うわよ、この季節だもん。たださあ、あの人、、風邪ひくとすぐ咳が止まらなくなって予定が全部中止になっちゃったりするし、無事にお正月を迎えてくれるように願ってるとこよ。

本当は、もう一つ是非とも書きたい記事があるんだけど、このパソコンときたら、音楽と動画はいいのにテキストはさぼりたがっていて、おばはんのいうこときかないらしいのよ。だから、今日帰ってきたら音の出ない方のパソコンでSNSとここにその話を書くつもりみたい。あら、簡単よ。一箇所に書いて後は同じ記事のコピペだもん。このパソコン、コピペが嫌いなのかな。当人の書いた記事なのにね。

とにかく今夜か明日にはそれも出る筈よ。そんじゃ、またあとでね。


テスト版 『冬の花』 (1)

2010-12-02 21:21:27 | インポート

※ うちのおばはん、これを書いて一晩寝たら今朝はかなり調子がいいみたい。それでこれからこの話をどういう風に進めるか少し考えて、とりあえずインターネット版ではテスト版でストーリーをどんどん進めていって、あとからあたしと手書きの原稿用紙で全体をまとめなおして、最終的にまたパソコンで清書することにしたみたい。なぜかっていうと、今言いたいことと、きちんと一つの話にまとめる作業と、一度に出来ないらしいの。部分、部分を書きながら進めていくつもりらしいわ。だから、当分がまんしてやってちょうだいね。

 

ちゃっぷい、ちゃっぷい、うううう寒いよ~ん。あたし、これでもネコだから寒さには弱いのよ。ポーランドのコチャルニチカさんとこのネコちゃんみたいに外に出たがったりなんかしないもんね。あんっと、マリーで~す。

うちのおばはんも風邪ひいちゃってるから、昨日も今日もお休みよ。お家で本読んだり、パソコンで書いたりしてるだけ。やっぱりあの人もきっとネコ年なんだわ。今、南以外はヨーロッパもものすごく寒いみたいね。家のおばはんのいる3階の部屋がまた寒いのよ。あの人もうとっくにガスファンヒーター使っちゃってるんだけど、内心これから春までのガス代は心配みたい。なるようにしかならないんだって言ってあげてるんだけど、トホホなんだって。

うちのおばはんのガス代のことなんて放っといてさ、誰か昨日、あたしがこっそり書いたハテナブログ見た人いる? ほんじゃURL載せとくわね。

 http://d.hatena.ne.jp/dabocat/20101201/1291181726

あたし、あの人がひょうはく、ひょうはくって言うからてっきり、シミ抜きのことだと思ってたのよ。そしたら全然違ったみたい。こんなはなしだったの。
        
  http://dabocat.exblog.jp/

あの人、あとでまたまとめ直すつもりみたいで、ネットでは面倒だから省略するって言ってたの。いいのかしらねえ、そんなんで?