いもうとよ-9

2017-03-31 13:03:30 | Weblog
こんにちは~、マリーで~す。今日もまた長話になりそうよ。何しろ何十年もの年月が経っちゃったからその間に何があったかなんて一口には説明できないのよね。今まであの人、何とかして話を伝えようとしてもある人がずっと邪魔してたからどうにもならなかったの。だけどうちのおばはんだって、何でもかんでもしゃべればそれでいいなんて思ってないわよ。悪いことをしていた人ももうとっくに亡くなっちゃってるし、生きていても高齢の人をやたらに責めるのは趣味に合わないから嫌だっていうのよ。もうちょっとはっきりさせないと被害の程度も分かってもらえないって言っても、もうどうせこちらも70に近づいてきてるんだし責めたくないの一点張りよ。だからここでも簡単なことしか言わないつもりみたい。まあこっちはかまわないけどさあ。

しょうがないから、あの頃のことを思い出してみるけど、どこから行けばいいのか迷っちゃうわよ。うちのおばはん、証拠も証人もないようないい加減な話をやたらにする人じゃないし、ましてや重要なことは必要のない限りじっと黙ってるほうよ。昔どこに相談したらいいかわからなくて、杉並区の公的な相談室に行って弁護士さんに話したら、問題が大きすぎたらしくって弁護士さんも考え込んじゃって、挙句に、これはあなたは黙っているしかない。とにかく一切黙っているのが一番ですって言われて以来、あの人、教会の告解、それも、これという司祭にしか言わなかったとてつもないとんでもない事件だってあったし、やたらになんでもは話さなくなっちゃったのね。それでもあの人について妬みやいじめで悪い噂は絶えなかったけど、とにかくおとなしくしていたんだわさ。敵の方もそのころのあの人のブログを外から読めないようにしたりしてたわよ。でももうその敵もこの世にいなくなっちゃってるわ。

チェルノブイリ事故の起こる前、うちのおばはんは普通に会社に勤めて、あの頃はパソコンどころか、やっとワープロが出てきた時代だから、あの人は和文のタイピストをしていたの。そこで同僚の人と話したのがきっかけで、久しぶりに遠藤周作先生のご本を読んだのよ。死海のほとりっていうの。その本に感激して遠藤先生に手紙を書いて、以来向こうが読んでも読まなくてもずっとこちらからは定期的に手紙を出していたの。でも多分お読みになっていらっしゃったと思うわ。

だって、あのひと、普通に就職できなくなってからは、童話とか物語とかを書いてみたんだけどそれがみんなある伝手でさるお方にお読みいただく結果になってたの。足を引っ張る人たちが多すぎて知られざる話になっているけど先生方はご存じだったはずよ。多分それで直接の反応はなくても、週刊誌、月刊誌、新聞、ラジオの心の灯、いろいろな場面に先生の反応があったから、遠藤先生と霜山徳爾先生には先生方が生きておいでの間は気が付かないふりをして手紙もだしていたの。何のことはない、やめるにやめられなかったというだけなのよ

それより話を少し戻して、ある時、ニュースにもし第三次世界大戦が起これば核の冬現象で人類は絶滅するだろうっていう科学者たちの研究結果があちこちに出てたの。会社に出勤する前に四ッ谷の教会で早朝のミサに出ていたころだったわ。ある日、その日のミサはオボンク神父様司式だったけど、神父様がすごく変だったの。脈絡もなく人類の危機という言葉を何度もおっしゃっていていたの。それがあったからか、その前だったか覚えてないんだけど、ずっと胸の奥深くにしまい込んで忘れていた市川教会で見たファティマのマリア様のご像のことや何かをうちのおばはんもぱぁっと思い出したわけ。

このままいくとあのファティマのマリア様の予言は実現してしまうんだって感じて、先生たちにその話を手紙に書いたの。何故かロシアが気になってたから、ロシアで何かあるような気がするとかそんなこと。ところがそのときはいつものくだらないおしゃべりの手紙ではすまなかったのよ。どうしてそうなったのかなんてあのひとにだってわからない。とにかく手紙を出したら翌日の新聞に大きくロシアのチェルノブイリの原子炉事故のニュースが出ていて、それ以来あの人の人生はめちゃくちゃよ。巫女だの、シャーマンだのって書きたてるマスコミやら、誰かに頼まれたやくざ屋さんやら、なんとかあの人を利用しようという変なのばっかりつきまとってきてたの。知らん顔で気が付かないふりをしていたけどちゃんとストレスで舌痛症にはなるし、もう散々よ。

ただの若い女の子だったのよ、あのころのうちのおばはんは。ただの普通の会社員でなんてこともない毎日を送ってたのよ。それがあるときから、変な人たちに付きまとわれたり、おかしなことばっかり起こってきたの。そんな話、親に話せば心配するばかりだと思ったから一切言わなかったの。でも時々実家に帰った時にお父さんがぽろっと口を滑らせた言葉を総合して考えると、たぶん、お父さんは、家の親類も精神神経科関係では結構知られた人物だったし、その関係からも霜山先生とも直接お会いしてた気配があったのよね。親も子もその辺の話は一切しなかったけど、なんか普通じゃない状況は分かってたんだと思うわ。だっておとうさんにまで右翼の街宣車がつきまとってたのよ。ひどいはなしだわ。

どこの誰がとかはあの人も一応信者だからこれ以上はいわないけど、某巨額の費用の必要とか個人の名誉欲、権力欲、あれやこれやで、うちのおばはんもお父さんもとんだ大迷惑を被っていたの。お金の問題には必ず悪いものがわんさか寄ってくるのよ。今はもう過ぎたことだけど、おかげであの人、普通に就職できなくなって、いまだに生活保護のままじゃないの。なんかこれって正義とかその辺で変な気がするのも確かよ。お墓に入っちゃったお父さんに申し訳ないってあの人だってやっぱり思ってるのよ。妹のみいちゃんだって、お姉ちゃんがこんな状況ではなかったらもうちょっとなんとかしてあげられたかもしれないのにね。

本日はなんだか文句と愚痴のオンパレードになってきたからこのへんでやめとくわね。でもさあ、人間の世界の現実は聖なるものと、アダムとイブ以来の人祖の罪の結果が入り混じっている世界だから、なんでもありなのよね。その中でどう生きてくかがひとりひとり、だれにとっても問題なんだわさ。てことで今日はおしまい。ほんじゃまたね。


いもうとよ-8

2017-03-30 15:41:24 | Weblog
こんにちは~、またまたマリーで~す。

今日はねえ、うちのおばはんは台所の掃除に取り掛かっちゃったから、やっとこんな時間にパソコンを開いたのよ。みいちゃんや家族の話がまだまだ途中なんだけど、こういう晴れて暖かい日はお掃除もしないと、あの人寒いときは足腰が痛いもんだから手抜きばっかりで台所の汚れが気になってたのよね。

それともうひとつ、あの人本当にドジだから昨日のうちに夜遅くまで書いていた下書きがパソコンの操作を間違えて消えちゃったのよね。がっかりして今日は同じ話をもういちど書きなおす気がしないって、もう暢気に構えちゃってて、ゆっくりまた違う角度からやり直しだって言ってるわ。

あの人、なんだか昨日の話の後、昔親元に住んでいたころのことを思い出していたの。プロテスタントの教会に気持ちのずれを感じ始めて、カトリック教会に行ってみようと思った頃よ。もっと前だと市川教会って何度電話しても誰も出ない教会だったのよ。あとでわかったんだけど、当時の神父様がおからだの具合がわるかったらしいの。カトリック市川教会ってその頃は直接に行ってみたことはなかったんだけど、幼馴染の女の子のおうちが市川教会の教会墓地の近くだったからカトリック教会があるのは知ってたのよ。

墓地ったって、あの人のお父さんの方の本家は鎌倉時代からの中山法華経寺ゆかりの家だし、お寺さんといえば墓地なんていくらでも見慣れてるからへっちゃらで、墓地の周りで遊んでたくらいよ。それよりあの人、お母さんに死なれちゃってから教会に行ってみたいと思ったとき、やっぱりすぐ思ったのはカトリック教会だったのよ。英語を教えに来てくれていた大学生の先生もミッション系の大学の方だったしね。だけど、全然電話がつながらなかったからプロテスタントの教会に行ったんだわ。

だからだんだん何か違うって思い始めて、まず市川教会に行ったの。その頃は塚本金明神父様が主任司祭になられて間もなかったんじゃないかしら。まだ、ごたごたしていて教理の勉強なんかも始まってなかったの。だからあの人、会社の帰りに寄れる四ッ谷の駅前の教会に行くようになったのよ。

あれはもう40年以上前だけど、その頃の市川教会の聖堂の前の端の方に、ガラスケースに入った小さなマリアさまのご像があって、うちのおばはんにいろいろ教えてくださった信者の方がこれはファティマのマリア様だって説明してくださったのよね。プロテスタントではそんな話は全然聞いたこともなかったし、あの人、興味がわいてきて、四ッ谷に行く次いでだから、当時は上智大学の中にあった聖三木図書館に行くたびに調べたの。

本当には何があったのかよく分からないけど、確かに何かがあったのは事実らしいってあの人も思ったのよ。予言がどうのこうのなんてまだその頃はそんなに深く考えていなかったわよ。だからそれもすぐ忘れちゃってたの。ところが何年も経って、そのころ講座に通っていた神父様が旅行のお土産にみんなにポストカードをくださって、見たらそれがすっかりわすれていたファティマのマリア様のご像の写真だったのよ。なんか不思議な気がしてそれ以来、ファティマのマリア様のことが頭の片隅におかれていたんだわ。

それからしばらくは平凡な毎日があって毎週聖歌隊で歌って、教会の講座にも通って、普通に会社に勤めて時々実家に帰ってという生活だったのね。妹のみいちゃんはその頃は普通に社会に戻って仕事をしていたし、お父さんは会社を辞めてお店を開く計画を立ててたのよね。結局失敗だったけど、おとうさんとしては みいちゃんの将来のためも考えてのことだったらしいの。

結局失敗してお父さんたちは市川の家も土地も売って、千葉の房総の海に近い土地に引っ越したの。もうだいぶ昔のことだから時系列も滅茶苦茶でいつ何がとかってよく覚えてないけど、いろいろあったにしても、チェルノブイリの事故の前までは穏やかな普通の毎日だったのよ。

今日はもうこんなところでおしまいにするわね。ほんじゃ、またね。


いもうとよ-8

2017-03-30 14:49:37 | Weblog
こんにちは~、マリーで~す。

実を言うとうちのおばはん、今、あわてふためいてるのよ。そちらからはあの人の今の状況見えないからいいけどさあ、あの人ったら昨日のうちに今日の分を書いて保存にしたはずなのに操作を間違えちゃったみたいなのよ。だから一日分ずつにした方がいいって言ってあげたのに聞かないんだもん。どうしようもないからこれからまた書き直しよ。でも気が動転しちゃってるからちゃんとした話が書けなかったらごめんなさいね。あたしが謝ってもしょうがないけど、とにかく、うちのおばはんて根がドジなのよね。真面目な顔をしてとんでもないおっちょこちょいだからさあ、許してやってね。

もし運が良ければそのうちに昨日書いた分をどこにやったのか思い出すかもしれないけど、どうも怪しいから今日はとりあえず別の角度から書きなおすみたいよ。

あの人、あたしに手伝えってせっつくけど、あたしとうちのおばはんが出会ったのはもっとずっと後になってからだから、本当に困っちゃうわ。えーとねえ、どっからいこうかしら。うちのおばはんがパソコンを使うようになったのはあたしがまだドコモの普通のケータイだったころなの。あの人、お部屋に据え置きの電話があるからケータイはいらないと思ってたのよね。ところがどうしても連絡用に必要になって仕方なくあたしの初代機を買ったのよ。

でもってケータイが使えるようになったら、もしかして自分でもパソコン使えるんじゃないかって思い始めてパソコン教室に通ったわけ。あの人、元々が軽印刷の和タイプとか写真植字の仕事をしていたから、文字をいじるのはお手の物だったのね。それでパソコンを分割払いで買っておうちで使うようになったの。読んだり書いたりは得意の分野だし、機械いじりも性にあってたみたい。でもねえ、あの人の場合、パソコンで会社に勤めるとかはできないのよ。あの人、生まれつき両手の小指が短いから正式なタイピングができないし、いまだに一本指打法でのんびり打ってるわよ。ブログやSNSくらいしか打たないからそれでも十分なのよ。


いもうとよ-7

2017-03-29 11:19:14 | Weblog
こんにちは~、マリーで~す。

うちのおばはんときたら、なんだかんだってミスばっかりしててさあ、今日も落とし物に忘れものよ。何しろ払わなくちゃならないお金が増えて、入ってくるほうは減るばっかりなのにさ、もっと気をつけて行動しないと、いつどんな災難に出会うかわからないわよ、まったく。でも今も一生懸命探しなおしてたらやっと見つかったみたい。やれやれだわ。

一安心はいいけど、ほっとしたら気が抜けてお話をどう進めるんだったか忘れちゃったらしいのよ。あっちもこっちも間が抜けててほんとに困っちゃうわ。

しょうがないからさ、ここはそのまんま、あったとおりに順番に書いてくのが一番早いんじゃないの。体裁を整えてなんて考えてると話が進まないわ。ほら、今の義理のお母さんがお父さんと結婚したころだから、うちのおばはんが二十歳になったかならないかの頃を思い出さなくちゃ。

今日の話はどうもとてつもないんだけど、世の中難しいから、人が知らないだけでなんでもありなんだわさ。なにがあったのかってだけのことよ。あんまり深刻にかんがえないでよ。当事者たちにはただの過ぎてしまった思い出でしかないんだけどね。

そのころはうちのおばはんのお父さんの仕事もうまくいってたし、住んでいたお家も結構大きくて庭も広かったし、見た目は何の不自由も問題もなさそうなお家だったから、義理のお母さんも安心してお父さんと結婚したんじゃないかしら。

ところが、ところが、実はとんでもない問題があったのよね。お父さんを信じてお嫁に来てみたら、長女も次女もなにやらへんてこりんで、特に次女は昼間は部屋に籠もって出てこないで、夜、みんなが寝てしまうとこっそり出てきて、ご飯を食べたり、テレビを見たり自分だけで好き勝手に生活してたの。

もっとずっとずっと先になって、うちのおばはんもユング心理学とか言うのをちょっぴり勉強して、やっと自分と自分の家族に起こったことがどういう意味のあるものだったのかわかるようになったんだけど、その頃は何にもわからないまま、家族一同みんなが悩んでいたんだわ。まさか時代の先取りをして最先端で苦労している一家だったなんて夢にも思わないじゃないの。

まだ世の中に不登校だとか、引きこもりなんて言葉も無ければ、そういう事象も知られていなかった時代だったの。でも実の肉親ではそれがどんなに異常なことなのかも気がつかないままだったところに、外部からきた義理のお母さんが、何かがおかしいって気がついて自分も悩んで円形脱毛症になったり、階段から落ちて怪我をしたりする異変が続いて、とうとう、精神科のソーシャルワーカーの仕事ををしていた親類に相談したのよね。

あの頃の時代では仕方がなかったんだけど、みいちゃんには本当に可哀想なことをしてしまったんだわ。当時の知識ではみいちゃんの状態は、どう見ても精神病にしか見えないものだったから、そのまま、親類と親にだまされた形で数年間精神科に入院させられちゃってたの。

でもお父さんだけは毎週、毎週、必ず埼玉の病院までみいちゃんに会いに行ってたのよ。実の親となると本当にとてつもなく苦労するのよね。当人以上に親の苦労は重いんだと思うわ。

で、うちのおばはんはその頃、どうしてたんだって? それがねえ、あの人はあの人で、とんでもない普通あるわけの無いようなすっごく変てこな大事件がいくつも起こってくるのに巻き込まれてアップアップしていたから、親に心配させないように実家から距離を置いてたし、みいちゃんの状況も後になってからやっと耳にしたの。時間がたって全体が見えてきてはじめてわかることっていうのがあるのよ。

今から振り返るとちゃんとそのときそこに必要な人間関係の配置ができていて、必要な方向に物事が動いていたような感じよ。偶然がいくつも重なったら、それは必然だって聞いたことがあるけど、まさにそんな感じなのよ。親類や霜山徳爾先生、土居健郎先生、遠藤周作先生、河合隼雄先生、そのほか大勢の方々の直接、間接、さまざまなかかわりに助けられて、うちのおばはんのほうは今日まできたのよ。敵も味方もいたわ。だけど不思議といつも誰かが助けてくれてたの。だけどみいちゃんの人生はおねえちゃんとはまるで違うものだったのね。

時がたってあの子の状態が正しく判断されるようになったのは、世の中に不登校や引きこもりなんていくらでもいる時代になってきたからなのよ。それで親類も保証人だったしあの子がやっと世間に戻って普通に生活できるようになったとき、当人が自分で選んだ仕事というのが病院で散々手伝っていた介護の仕事中心の家政婦さんだったわけなの。

ま、長くなっちゃったから今日はここまででおしまいにするわよ。ほんじゃ、またね。

いもうとよ-6

2017-03-28 16:55:31 | Weblog
こんにちは~、マリーで~す。

今日はまずちょっとはなしがずれるけど、ねえ、ポルボロンていうお菓子知ってるかしら。スペインのお菓子なんだけどポルボロンていうのは粉になるっていう意味なんですって。口に入れると簡単に崩れて粉々になっちゃうの。昔はメルセス会っていう修道会のシスターのつくるポルボロンが有名だったけど、今はそれを作っていたシスターがスペインに帰っちゃったからメルセス会では作っていないのよね。でもって、四ッ谷の駅前の大きい教会なら大抵日曜日には手作りお菓子を売るコーナーでメルセス会のとは違う製品のポルボロンも作って販売してるわ。でも今度、四ッ谷の駅の近くに聖パウロ修道会の書籍や聖具を扱う部門とは別に、修道院製の食品とかいろいろを扱う部門が新しいお店を出したわけ。そこに新しくトラピスチン修道院のシスターのつくるポルボロンが出るってきいて、うちのおばはん、わざわざそれを買いに出かけたのよ。

教会のほうのポルボロンならお菓子作りのグループにいたから、あの人でも材料や作り方も知ってるんだけど、トラピスチンのポルボロンは食べたことがないから試しに味見しなくちゃとかって、買いにいったわけ。材料は教会の奉仕部のポルボロンよりいいんだけど、味は好みがあるから何とも言えないっていうのがうちのおばはんの意見。それはそうよねえ、自分でいいと思ったものを選ぶしかないわよ。

ついでに聖三木図書館にも寄ったら、図書館の年会費が今年から3000円が2000円に下がってたってあの人喜んでたわ。足腰の調子が悪くなってあんまり四ッ谷にも行けないんだけど、キリスト教関係のものだったらやっぱり聖三木図書館は書籍が揃ってるんですって。昔と違って本の管理も区立図書館と同じように勝手に持ち出そうとすればすぐにブザーが鳴るし、必要な本はパソコンで検索できるし、昔、まだおんぼろ図書館だったころから見てると大変な変わりようだって、びっくりしてたの。

それはいいけど、そろそろ話を続けなくちゃね。うちのおばはんが高校三年の三学期の二月に、もともと丈夫じゃなかったお母さんが慢性腎炎の末期で亡くなっちゃったの。あの頃だからまだ透析も無かったし、救急車で病院に運ばれて、親類がみんな集まってきて、翌日の朝にはもうだめだからって、病院に呼ばれたの。ところがその日は高校の最後の期末テストで、思い出せばあの人、めそめそしながら学校に出かけてテストの答えもまともに書けないし、電車の中でも涙が止まらないままだったのよね。

お家に帰るとすぐにもう冷たくなっちゃったお母さんが病院から運ばれてきて奥の間の布団に寝かされてたのね。それであの人、お母さんの唇に最後の口紅をつけてきれいな寝顔にしたのよ。

翌日火葬場に行ったんだけどさ、その日は二月半ばでは珍しいような大雪が降っていたのよ。火葬場であの人、全然泣かなくて、平気な顔をしてたから親類のおじさんやおばさんに、なんて子なのとか言われちゃってたけど、ほんとはそうじゃなかったのよ。お母さんの死を受け入れられなかったから、あの人の心の中ではその後、長い間、何年も何十年もお母さんは死んでいなかったのよ。人は外見だけ見てああでもない、こうでもないって、適当なことを言うけれど、本当はそんな簡単なものじゃないんじゃないのかしら。

この話はまた後で出てくるから今はこれだけにしとくわね。でも、ひとつだけ付け加えると、お母さんのために並んだ喪の花輪の中に、その頃はお父さんも仕事で現役だった頃で、その関係でサントリーさんからの花輪も並んでたんですって。開高健さんがサントリーの重役だった時代で、仕事の関わりがあったらしいわ。だからあの人、今でもお父さんとお母さんのためにお父さんの仕事のお得意さんだったホンダさんとサントリーさんには感謝しちゃってるのよ。

妹のみいちゃんのほうは、中学の途中からずっと不登校になってたの。それでもお情けで卒業して親たちが洋裁の専門学校に入れたのに、これもすぐに不登校になって、自分の部屋に籠もってしまったの。なまじっか、生活には困らない家だったから、親も心配はしても仕方なく放任していたのよ。でも母親がいなくなってしまうと、父親も子供たち三人も、それまでのような生活は続けられなくなったの。

お母さんがいなくなって、たがが外れちゃうと、姉娘のうちのおばはんたら自分で大学進学も止めちゃって、とりあえず習いものをしてたけど、でもどうせだから手に職をつけようってんで当時だから和文のタイプを習ったの。読んだり書いたりはその頃から得意だったから向いてたんだかなんだか、その方向で就職しちゃって、結局和文タイプだとか写真植字なんて仕事をしてたのよ。

うちのおばはんはそんなことだったけど、その間に、あの人のお父さんが、さすがにこのままでは家の中もどうにもならないってことで再婚したわけよ。それが今の義理のお母さんなのね。

そこからがまたいろいろなんだけど今日はここでおしまいよ。ほんじゃ、またね。

いもうとよ-5

2017-03-27 16:05:38 | Weblog
おっはようございま~す、マリーで~す。


昨日も今日も東京西部は雨だったのよ、でもさっき、お外を見たらやっと雨が止んでたって、神経痛持ちのうちのおばはんもホッとしてたわ。もうすぐ4月といってもまだまだ肌寒いし、風邪ひくと治りにくいし、あんまりうれしくない時期なんだわさ。

あの人、こんな日は何かおいしいものが食べたいなあって言うんだけど、まあ、まだ今は年度末でおまけに月末だから、ありあわせの材料でできるものを作れって忠告したら、それもそうだって冷蔵庫の中身を見直してたわ。生の肉は全部使っちゃったから、たんぱく質はこの時期の例年通り、保存のきくベーコンやソーセージにサバ缶に卵で工夫しなくちゃ。野菜をあれこれ取り合わせれば十分じゃないの。最近発見したのがゴマダレのサラダドレッシングの効用みたい、これを使うと、一番安いモヤシやピーマンを茹でたり焼いたりして美味しい温野菜サラダに変えられるんですって。モヤシやピーマンは本当にえらいのよ。お金のないときの有力なお友達よ。ニンジン、ジャガイモに玉ねぎの3点セットと一緒に切らしてはいけない食材ってわけよ。キャベツ?あれはうちのおばはん、好きじゃないのよね、においがいやみたいよ。


あの人最近じゃ自炊が多くなって、外食はたまにしかしないけれど、どうせ食べるんだったら好きなもの、おいしいものがいいって思ってるの。うちのおばはん、今facebookに参加しているけど、そのもともとの始まりは昔、日経新聞の電子版で日経が作っていたSNSでワガマガというのに参加していたところからなのよね。

ワガマガのお友達の人たちが同じく日経の人気コラムだった新日本食奇行に参加していたりして、家のおばはんも日本の食文化に無関心なほうじゃなかったからいっしょになってお付き合いするようになったの。そのうちに日経のSNSだったワガマガがなくなっちゃって、会員がみんなで大挙してfacebookに引っ越したわけよ。


そんなわけで食文化への興味からあの人も早くからfacebookにいたのよ。そんなくらいだもん、お金があっても無くてもおいしいものには食指が向くのも当たり前だわさ。


うちのおばはんはお金は無くてもどっちかって言うと趣味人みたいなところがあって、おいしいものもそうだし、音楽やバレエや舞台や落語も大好きなの。ところがさあ、妹のみいちゃんはまるで違ってたの。あちらはねえ、うちのおばはんにはどうにもよくわからないジャズ音楽だとか、ドアーズなんてグループが好きだったの。もっとも最近のグループでは嵐とか言うのも大ファンだったみたいよ。お姉ちゃんのほうは見ただけで理解できないって辟易としてたっけ。好きな作家や本もお姉ちゃんのうちのおばはんとは好みがかなり違うの。二人とも共通してたのは、ドラマの相棒のファンだったことと、ネコ好きだったことじゃないかなあ。そういえば、昔からお姉ちゃんの持っているものはなんでも自分も欲しがって、黙って自分の部屋に持っていったりして怒られてたわ。それがどこでどうなってこんなに大きくすれ違ってしまったのかしらねえ。


でも、みいちゃんが死んでしまった時、うちのおばはんは、あの子ももっともっとおいしいものやきれいなもの、面白いものに目を向けてたらもうちょっと視野が広がって考え方も違ってたんじゃないかって思ったのよ。そんなもんじゃないって言われたとしても、あの子は自分の狭い心の中にだけ閉じこもって他の世界を見失ってしまったんだってね。


みいちゃんにすればそうなってしまったのも理由があるんでしょうけどね。確かに大変なことがあったのも本当だもの。でも今日はここでおしまいよ。ほんじゃ、またね。

いもうとよ-4

2017-03-26 15:06:38 | Weblog
一応念のため。

日本の文学形式には私小説というものがあるのです。まったくの創作でもない、ドキュメンタリーでもない。とにかく言いたいことがあるから、そのテーマを入れる入れ物として長々と書いています。全体を読めばわかるものを途中だけ見て勝手に判断されてはこまるのです。どうか余計な手出しはしないでくださいね。



こんにちは~、マリーで~す。

エーと、どこから話したらいいのかしらね。ちょっと迷っちゃうわ。家のおばはんの妹のみいちゃんのことだけどさ、簡単にいくと子供のころはまあ普通だったと思うのよね。おねえちゃんのうちのおばはんと較べると,なんと言うか小さい時はおきゃんで、おませで、活発で、急性腎炎で顔がまん丸に膨れ上がって親たちがお医者さんに連れて行って、これは入院させなくてはいけないってなったときも、逃げて裏の畑の中に隠れて、走って逃げ回っていたくらいだったの。


活発な分、事故や怪我も多くて、家の前の幅の広い深いどぶに落ちて溺れかけたり、うろ覚えだけど昔の家だから汲み取り式のトイレにも落ちちゃったんじゃなかったかしら。夕方、母が庭で天ぷらを揚げていれば、周りではしゃぎまわって転んで天ぷら鍋をひっくり返して油をあびて大やけどをしたり、遊んでいて腕を折ってみたり、きょうだいの中で一番怪我が多かったみたいよ。


うちのおばはんなんて大人しいもんよ。弱虫の泣き虫だったから危ないことには頭から近寄らないほうだったのに、妹ときたら何でも試してみないと気がすまないみたいな子供だったのね。お母さんのお母さん、つまりおばあちゃんだけど、妹に手を焼いて、この子はなんて悪い子なんだろうってあきれてたくらいだわ。


きょうだい三人のうちで妹と弟は仲が良かったの。小さいときは二人そろって遠くまで遊びに出かけて迷子になって親たちが青くなって探し回ったこともあったけど、お姉ちゃんのほうは、下の子二人がいなくなっちゃってるのに、探しにも行かないって怒られてたわ。お姉ちゃんのうちのおばはんて、こどものころから外に出かけるのがあんまり好きじゃなくてお家が大好きで遊びに行くよりお家で本でも読んでるほうが好きな子だったのがそのまま大人になっちゃって、いまだにおんなじなんだわさ。


そんな妹のみいちゃんが変わってきたのは中学生になってからだったかなあ、家のおばはんもその辺は詳しく覚えてないのよね。ただ、お母さんが慢性腎炎で病院に長く入院して、おばあちゃんが来てくれて家事を引き受けていた時期があったのよね。あの辺が境だったのかしらね。


うちのおばはんが覚えているのは中学二年になって同級生たちが大人びてきたとき、あの人、みんなの変化についていけなくなっちゃって学校にはちゃんと行くんだけど一日中みんなと一切口をきかない緘黙状態になっちゃってたの。今でも覚えてるわよ、家のおばはんて中二から高三までずっと学校ではクラスの子達と、ほんの数人の友達以外とは一切口をきかなかったのよね。あれってさあ、要するに殻に籠もって外部の影響から自分を守ってたんじゃないかしら。コンセプトは「誰も自分をわかってくれないから」ってわけ。


その頃、二歳違いの妹のほうも多分内面の激動期を迎えていたんじゃないかって気がするのよ。お姉ちゃんのほうは外面的にはしっかりと学校を休んだりしないで通学して、塾にもいって、自宅に英語を教えに来てくれていた大学生の先生にもちゃんと勉強を見てもらっていて、ただ、学校に行くと毎日ほとんどクラスの子達とは口をきかない、これも変な子だったわけだけど、妹のほうはなんと勝手に学校に行くのを止めちゃったのよ。


良いか悪いかわからないけれど、うちのおばはんの家って、お父さんが働き者だったからお金には全然困っていなかったのよ。子供たちにもやりたいことをやらせてくれる経済的な余裕は十分にある家だったの。それが問題だったのかもね。お父さんは仕事が忙しくて毎晩夜中まで帰ってこないし、お母さんは病気がちで子供たちのことに手が回らない状況だったわけよ。


それで気がつけば長女は学校には行くけど毎日緘黙状態、次女は学校に行くふりをして家のまわりに隠れてうろついて、それがばれてしまってからは自分の部屋にこもってしまったの。要するに時代の先駆けで不登校、ひきこもりをやらかしてたわけね。


困ったことに経済的には余裕があったから、子供が好き勝手なことをしていても親はその意味にも気がつかなかったの。この辺の意味がわかってきたのは、うちのおばはんが大人になって、カトリック教会でいろいろなことに出会って、身内にもソーシャルワーカーがいたり、心理学や精神科の先生方にもご縁があったおかげで全体を見直すことができたからなのよ。


神様のなさることは何一つ意味の無いことってないみたいなのよ。でも話が長くなりすぎちゃうから今日はここまでね。

ほんじゃ、またね。


いもうとよ―3

2017-03-25 16:56:02 | Weblog
一応説明しとくけど、まだ今は昔の回想の部分だからそのつもりで読んでね。この話は2004年の出来事を2005年にふりかえってみたときのことなの。ややこしくてごめんなさいね。


こんばんは~、マリーで~す。

時間はもう夜の7時近いんだけど、お外はまだ明るくて、いかにも夏の夕方って感じで、うちのおばはんも今日あたりは部屋の窓と台所のドアを開けて部屋の中を風が流れるようにしてるのよ。昨日みたいな猛暑じゃドアを開けるとお外から燃えてるような空気が入ってくるばかりでどうにもならなかったのが、今日はこの時間、だいぶ涼しくなってるんだわさ。

今日はねえ、あたしとタブレットのアローちゃんも一緒にうちのおばはんのお供で四谷の教会に行ってきたのよ。あの人、このところ天候や体調が問題で最低限しか教会に行ってないから内心気が咎めてるんじゃないの、猛暑でも暑い季節のほうが本当は足腰の調子もいいのよね。

とは言っても昼間のお外は強烈すぎちゃってびっくりしたわ。まるでもう空気が燃えてるみたいな暑さよ。だからあの人のパソコンは夏になると暑さで熱暴走を起こすのかって初めて実感しちゃったわよ。

それでもあの人、久しぶりの四谷の風景は懐かしかったみたい。帰りに四谷のドコモショップがすぐ近くだから、料金の支払いに寄ったのよね。ほんでもって駅に戻る方向に歩いてくと、去年、相談に寄った交番もすぐ近くよ。あの時もミサが終わって帰りに思い余って駅前の交番で、いなくなった妹のことでどうしたらよいか相談したの。

ああいうのって、本当は当事者の住所の近くの警察に捜索願いを出すんですってね。でも当事者の妹や義理のお母さんの住所は千葉の房総だし、義理のおかあさんはそのうち帰ってくるから捜索願なんて冗談じゃないよとかって調子だし、仕方なしにうちのおばはんも、なんだかしれないけど何かあったような感じがするという思いだけを原動力にして動き始めたのよ。だから実の姉だし、親族ってことで交番で教わったように荻窪警察署に行ったの。こういうの勘ていうのかなあ。

一昨年の秋にスカイツリーに一緒に行ったときの話題の流れが何かひっかかってたらしいのよ。なんだかねえ、自分はいつだって身の始末はつけられる心積もりで生きてきたんだから、とか何とか話題が変だったの。

それから独り言みたいな感じでポツリと「60歳過ぎたら死んでもいいわよね」なんてことも言ったらしいのよ。

うちのおばはんだって気にはなったけどまさかって思うじゃないの。まさかって思いながらなんとなくひっかかっていたからこそ警察に行ったのよ。

それは実の妹のことだもの、何とか無事でいてほしいって思わないわけがないじゃないの。だけどあの人変な人だからただ心配だからっていうのとも違うのよね。心の奥深いところでは、最後のところはなるようにしかならないのはわかっていたの。あの人のなるようにしかならないって言うのはただの諦めともまた違うのよ、なんていったらいいのかしらねえ。

誰だってみんな一生懸命神様、仏様に祈るわよね。人間の力ではどうにもならないことでも、人間以上の大きな力のある方に何とかしてほしいって願うわよね。だけど、うちのおばはんときたらさ、お願いはするけど、人間の考えることと、神様のお考えが同じとは限らないんだし、神様のお考えは人間の側の希望、願いよりもっと広い視野から判断なさってのことだと思うから、その意味でなるようにしかならないって思ってるらしいのよ。

あのさあ、あの人、本当に神様を信じてるのよ。だけど、あの人が信じている神様はちっぽけな神様じゃなくてもんのすごく大きな神様なのよね。広大な大宇宙を創造して、その存在を支えているお方なんだわさ。そのとてつもない大きな大きなお方のなさることは時にはちっぽけなこちらの希望とはまるでかけ離れているかもしれないのよねえ。でもそれもこれもすべて、すべて最終的なところでは一番よいことになっていくんだって、それを信じるのが信仰だって思ってるらしいの。そういう目で見れば今起こっていることはなるようにしかならないってことになるらしいわ。

何か理屈っぽくてわかりにくい? そんなのあの人の名前をみればわかるじゃない、理屈の理に恵まれた子よ。小学二年のときにはもう担任の先生から子供のくせに理屈っぽいっていわれたくらいだもん、生まれつきよ。

あれれ、何か変な話になっちゃったから今日はこのへんでおしまいにしとこっと。ほんじゃ、またね。


おまけ

2017-03-24 23:06:51 | Weblog
おまけ

こちらは書く予定ではなかったのだが、フェイスブックの新しいお友達とメッセンジャーで長話をしたおかげで書いておくことにした。

実は、そのむかし、妙なことに巻き込まれて、マスコミやら右翼の街宣車やら、やくざ屋さんやら変な連中に付きまとわれていたことがあったのを思い出す。今だからいうけれど、うちの父まで巻き込んでしまったために父は心臓神経症の頻脈の発作を起こすようになり、あれも父の寿命を縮める原因の一つになっていたのだと思う。それは私について巫女だ、シャーマンだなどと言い立てる連中や、私を利用してお金儲けの道具にしようという連中がいたことから始まって、私の書いてみた童話をさるお方がお読みくださったことに対する妬みややっかみで右翼さんにわざわざ連絡するような人までいたためだ。まったくひどい話で、おかげでこちらはまともに職に就けなくなってしまったのだった。今の状況はその延長にある。

そのことから、今は落ち着いているが、マイクロソフトとグーグルは、私のパソコンの中でこちらの情報の争奪戦をしてくれて、パソコンを壊してくれたり、ずいぶんいろいろな事件が起こった。おかげでインターネットの便利さも危険性も厭でも教えられたのだが、まさかお金に縁のない当方のパソコンに侵入されるとは考えもしなかったから今回の大被害も受けた。新しいお友達はITの専門家なのだ。今度わけのわからないことが起きたら相談にのっていただけそうだ。

巫女だのシャーマンだのって、冗談じゃない、どこの国の話だ。自分でわかっているのは昔、カトリック市川教会の聖堂に安置されていた小さなケースに入ったファティマのマリア様のご像のことなら覚えている。あれを見て、ファティマのマリア様の話を知り、詳しいことを調べまわったのだから。それはおそらく真実あった話だと感じたし、あの当時の世界情勢ではそれは下手をすると予言は実現してしまいかねないとも思っていた。それを今は亡き作家の先生や心理学の先生に伝えたことはあったが、ただそれだけのことだ。なぜロシアの名を出したのか自分だって覚えていない。ただ覚えているのは今は亡きポーランド人のsj司祭が早朝のミサで世界の破滅のようなことをおっしゃっていてそれがすごく怖かった。当時、ニュースなどでも、もし、第三次世界大戦が起これば核の冬現象で人類は絶滅するという話が流れていたからだ。で、なぜか、このままではファティマのマリア様の予言は本当になってしまうと思えて、ロシアが気になってその話を先生方に手紙で書いて出したのだった。その手紙を出した翌日、ロシアのチェルノブイリ事故が起こった。そうだ、あれ以来だった。巫女だシャーマンだという話が出てきたのは、お金儲けなどには全く関係なしの人類の危機の話からだったのだ。でももう皆さまそんな話は覚えてはいないだろう。覚えていらっしゃった方々はほぼお墓の中だ。ただ、日本ではなくヴァチカンにはこの話残っているような気がする。オボンク神父様、ネブレダ神父様、ピタウ司教様、といった繋がりだ。でも、一端っこにいる信者の当方にはそれ以上は分からない。これ以上話すと文句が出てくるから終わりにしておく。

いやもっと思い出してしまった。この件があったからこその父ブッシュの夜中の国際電話がうちにまで来たのだった。いやはや、おそろしい。

いもうとよ―2

2017-03-24 20:26:40 | Weblog
こんばんは~、マリーで~す。

うちのおばはん、今日はなんか、機械音痴の本領を発揮してたらさあ、これまでフェイスブックで友人申請が来るとあんまりよく知らない人は知らん顔でほったらかしているんだけど、ほら、たまたま何かの拍子に友人になっちゃった知らない人っていうのもいるじゃないの。そんなよく知らないけどなんとなく、いいねを押したりしていた義理の友人の一人の方からこうしてみたら、とかって忠告があって、それでその方が急に気になってしまったみたいなのよ。本気であなたはどこの誰ですか、どういうことをしている人ですかとかって、メッセンジャーで長話を始めたの。その方は元本職のITの専門家だったのよ。でもおしゃべりしてたのはもっといろいろ、話が一段落したら、あの人、世の中広い、本当にいろいろな人がいるって本気でため息なんかついてたわよ。

うちのおばはんのフェイスブックの友人知人て、日経の昔のSNSの頃からのつながりとか、教会関係とかが多いんだけど、そうではなくてフェイスブックで初めて出会ったお友達にも結構面白い方たちがいるみたい。まあ、そんな話はいいんだけど、きょうはそっちじゃなくてこっちに戻らなくちゃね。

話を昨日の続きに戻すけど、あの人、本当は原稿用紙にに手書きで書いていきたかったのね。だけど、昔の職業病の指の故障が出てきて、仕方なくやっぱりブログに書いといて後でどうするか考えることにしたのよ。

で、なんでまたあっちこっちたくさんブログをつくったんだったって、あたしに聞かれてもわからないわよ。当人がたまたま気が向いたんじゃないかしら。それだけならいいけど、そのあと面倒ばかり起こしてまったく、うちのおばはんていくつになっても全くどうしようもないんだわ。

あの人の妹のほうはもっと大人だったわよ。もっとも、だからこそ現実を見て生きてくのもあきらめちゃったのかもね。うちのおばはんみたいに、何がどうなってもしつこく、なんとかなるさって、がむしゃらにあきらめずにいけば、なんとかなったかもしれないのにさあ、あっさり生きてくことまであきらめちゃったんだわ。

小さい子供のころは、うちのおばはんのほうは体が弱くて病気ばかりしてたから、親たちの関心もひきやすかったし、一番上で初めての子だったから、何でもお姉ちゃんのあの人には良いものが行ったのに、妹のほうにはどうも残り物がまわっていってたみたいな感じよ。下の二人、妹のみいちゃんと弟はそれほど病気もしなかったのも影響してたのかもね。

三人姉妹弟で、小さいときはまだ、家の周囲も畑と田んぼばかりで、バスも通っていないような田舎だったからそれなりに幸せな子供時代だったと思うのよね、三人とも。近所に家は少ないし、同じくらいの年の子も数えるほどしかいなかったのよ。

お家は小さかったけど、お庭は広かったから、庭の中に畑やぶどう棚や柿、桃、夏みかん、梅、松、もういろいろな大きな樹木もあって、外に出なくてもお庭の中だけで楽しく遊べたわけよ。子供時代のあの人と妹弟の毎日ははまるで天国みたいだったと思うわよ。

ところがねえ、みいちゃんときたら変な子だったのよ。変たって小さい子どもだから考えなしに何かしでかしたりするのは普通かもしれないけど、やっぱりなんかよくわからない子だったのよ。

お姉ちゃんのうちのおばはんは臆病で弱虫の甘ったれだったみたいだし、弟は弟で末っ子で一人息子だからこちらも大事にされていて、真ん中のみいちゃんだけがなんだか味噌っかすだったのよね。でもおしゃまで元気いっぱいでおとうさんには可愛がられていたのよ。お父さんは子煩悩の見本みたいな人だったの。三人ともどの子も区別なく可愛がってたんだけど、それでも真ん中って何かと後回しになっちゃってたと思うのよ。

この話の続きは時間になっちゃったから、また今度ね。ほんじゃ、またね。