本日は寄り道

2017-04-05 17:33:34 | Weblog
こんばんは~、マリーで~す。今年もとうとう4月よ。なんと来週はもう聖週間じゃないの。日本はキリスト教国じゃないから枝の主日だとか、聖香油のミサだとか、聖なる三日間とかって言っても信者ではない普通の人たちにはさっぱりわからなかったりするけれど、キリスト教の国ではクリスマスより大切な季節なのよね。

なんていうかさあ、浮世に生まれてきて生きていく人間の一人一人の人生ってさあ、なんだかんだっていってもやっぱり、いろいろと大変なのよね。偉い人も偉くない人も、お金持ちもボンビー、いや、ちゃんと貧乏っていった方がいいかしら、世の中、いろいろな生活レベルの人たちがいるし、幸せ、不幸せもいろいろなのよね。もちろん、それほど深く考えなければそれなりに満足していけるし、幸不幸、満足不満足、というのも人それぞれなのよね。悩みとか病気とか、会社や学校、家族や親せきの問題、近所づきあいはもちろん、数え上げたら切りがないほどの問題だらけの、そんな世界でみんな生きてるんだわ。

どうしてこうなっちゃうんだろうとか、ほんとに何とか助けてほしいとかって心の中で悲鳴を上げている人だっていっぱいいるんだわ。だけど、たいていの人が、自分のこと、自分の家族、関係のある人のことだけでもう手いっぱいで、周りのほかの人にまでは手が回らないし、それどころじゃない状況なのよね。これって今に始まったことじゃなくて、もう大昔から人間の歴史の始まりの頃からこんなもんだったみたいよ。

それでも、人間はそれだけじゃないから、大空の太陽や星や月、大自然の美やその動きを見ては、なにか人間をはるかに超えたもっと大きな大きな目にはみえない存在、神様がおいでになることに気がついたんだけど、それでもやっぱりなんか自分の心の動きの傾向がどうも神様よりも、ほかの人たちのことよりも、自分と自分の家族や自分のグループに都合よくいくようにって考えちゃうこともわかってきたのよね。それって、神様のお望みの方向とはだいぶ違うこともわかるのに、つい自分のことばかり考えてしまう自分の心の動きに人間たちが気がついたとき、人間たちの世界に神様はイエスさまを送ってくださったってことらしいのよね。

キリスト教用語でいうと罪の闇路に迷うわれらってとこかしら、仏教にだって煩悩具足の自分たちを助け出してくれって言ってる言葉があるくらいで、本当に深く考えるならば宗教を問わず人間は救いを求めている存在なんだわさ。で、キリスト教のほうではイエス・キリストがこの世の人間たちを救うために地上に降りて来てくださって、本来は人間たちが受けなくちゃいけなかった罰をご自分が引き受けて十字架につけられた、そのことを思い出す3日間が聖週間後半の聖なる三日間てことみたいよ。くわしいことはあたしなんかにはよくわからないんだけど、うちのおばはんも意味が分かってるのか、わかってないのか知らないけど、この時期はいつになく真面目にちゃんと教会に行ってるわよ。

あれ、なんか今日はやたら堅苦しい話になっちゃった。長くなりすぎちゃうからこの辺でやめとくわね。ほんじゃまたね。