神は愛なり

2011-02-28 00:45:33 | インポート

こんばんは~、あれっ、おはようございますかなぁ、うちのおばはんが変な時間に思いついてあたしに書けって言うんだもん。なんだかわけがわかんなくなっちゃったわ。あの人、ほんとに人使いが荒いと思わない?今日はもうゆっくりおねんねしようと思ってたのに、あたしを叩き起こして仕事を持って来るんだもん、まったくどうしようもないのよ。

まあ、いいけどさあ、考えが頭に浮かんだときにすぐに書かないと、言葉にまとまらないうちにどこかに飛んでっちゃうんだって。よくわかんないけど、あの人の頭の中にふわふわ浮いてるぼんやりした考えがまとまってくる「時」ってのがあるらしいんだわ。それを逃がしちゃうとまた書けなくなっちゃうんだって言ってるしさ、手伝わないとあの人もいつまでも寝るわけに行かなくなっちゃうもんね。

だいたい話がすっごく難しすぎるんじゃないのかなあ、いつでも、どこでも、そこいらじゅうにいくらでもいっぱいあって、だけど目には全然見えない不思議な力の話なんて普通あんまりしないわよねえ。おまけのその力がこの世界全体を包んでいて、それだけじゃなくてありとあらゆるもの、そこにあるもの全部の中に染みとおっているんだって。そんなの聞いたことある?昔の偉い人は大海原の海の水と、水の中のスポンジにたとえて説明してるんだって。どういうことかっていうとさ、大海原は神様なのよ。それでもってスポンジは人間や動物や存在しているありとあらゆるものよね。ほんでもって、スポンジの外側にも内側にもいっぱいの海の水はそれこそ聖霊ってことになるんじゃないの。

といったって普通の日本人だったら聖霊なんて聞いたことも無いかも知れないのよねえ。まったく困っちゃうんだけど、うちのおばはんは前にどなたからだったか忘れちゃったけど、聖霊は「愛」と関係があるって言う話を聞いたことがあって、それが心にひっかかってるのよ。

でもさ、うちのおばはんなんかキリスト教の「愛」という言葉の意味が長い間理解できなかったのよ。だってねえ、あのひとの育った環境は仏教とか神道の影響が強くて、キリスト教と共通している考え方もあるけれど、「愛」という言葉で連想するのはまず男女の間柄のことになっちゃうのよね。親や兄弟、家族、友達の間柄だったら、親子の情とか友情とか情けということばになるのが本来の日本語よ。「愛」という言葉はごく近年に導入された言葉なんだわさ。

そんなわけで、うちのおばはんが神の「愛」の意味がわかるようになったのは、良い友達や、良い同僚に恵まれていたおかげだと思うわよ。それはね、ある時、会社で自分たちのタイプの機械の掃除をしながらおしゃべりしていたときにふと気がついたのよ。タイプ機も大切に扱わないと故障しやすくなるんだって。お皿やコップも大切に扱わないとすぐに割ってしまうし、大事に扱われていないものはすぐにだめになってしまう。人間も動物も植物も親や友達や仲間から関心を向けられて大切にされていないとおかしくなってしまう。これは何だろうって考えて、あの人、やっとこれが「愛」の力なのかってわかったのよ。「愛」されていないと誰一人生きていられないのよ。この世界全体が大きなお方の「愛」に支えられて存在できているんだってわかったの。

えーとね、佐久間神父様の作詞の子供の聖歌に「わたしたちはさかなのよう、かみさまのあいのなかでおよぐ」っていう歌があるけど、まさにこのことじゃないのかしら。だからあのひと、自分で書いた「公園のお風呂ダヌキ」っていう、おとなの心の中の小さい子のための童話に、形を変えてこの話を入れたのよ。お風呂ダヌキは、gooブログかはてなダイアリーで探せば出てくると思うわ。

というわけで、あの人、よくわからないなりに聖霊の働きと「愛」はたしかに関係があるらしいって思ってるのよ。たださあ、人間は小さい動物や植物と違って、神様のおぼしめしに従いたくなければ従わないことも出来ちゃうのよねえ。だから世の中にいろいろな問題が絶えないんだわ。目には見えない、まるでどこからともなく吹いてきてどこかに消えていく風みたいで、気がつかないと見過ごしてしまう動き、それを見分けていくおめめって今の時代とっても大事なんじゃないのかなあ。むずかしいけどね。神様からのものって見たくないと見えなくなっちゃうのよ。聞きたくないと聞こえなくなっちゃうんだから。

ほんじゃ、今日はこのへんでおわりよ。バイバーイ。

 追) せっかくだから「公園のお風呂ダヌキ」と「終課」のあるところ、はてなで場所教えとくわね。

     http://d.hatena.ne.jp/dabocat/20110219/1298093954

     http://d.hatena.ne.jp/dabocat/20110219/1298094093

     http://d.hatena.ne.jp/dabocat/20110219/1298094314

 


 


まとまらない話

2011-02-25 12:04:12 | インポート

おっはようございま~す。マリーで~す。家のおばはん、昨日はパソコンを開いたと思ったらウォークマンに入れてある曲の入れ替えを始めちゃったの。ずっと同じ曲であきちゃったんだっていうけど、ほんとは仕事したくなかったんだと思うな。あの人、大きい問題にかじりついてまだ自分でもうまく噛みこなせていないもんだから少し時間をおきたいのよね。

だけど、下手をするとそのまま書くのをやめて遊び始めちゃうからしっかり見張ってなくちゃ。あたしが傍についていてガーガー言わないとすぐ怠けるのよ、あの人。昨日は音楽プレーヤーの更新をして、後は夜に「聖書の集い」っていうのに出かけたんだわ。あたしもいつもついていくんだけど、このところK司教のお顔を見るといつもくたびれたお顔なのよねえ。どうも神様が今、K司教様を特訓中みたいなの。

ほら、生きてると毎日いろんなことが起こるじゃないの。相手は人間だから考え方も人それぞれだしさ、めためたになるようなことだってあるじゃない。すっごく大変なことってそれぞれ誰にでもあるのよね。でもそれってその最中は大変でも本当は神様のテストだったり、特訓だったりしてるのよねえ。そこを通りぬけてテストに受かると、その人はもっと広々とした世界に出て遠くまで見えるおめめを持つようになるんだわ。その最中は大変だけど永久のそのままなわけじゃないし、時が来ればその状況も終わる、変わるのよ。うちののおばはん自身だっていまだにそうなのよ。まだまだ先は長いんだわさ。

遥か昔になっちゃったけど、あの人がカトリックに改宗してからなぜか信じられないような変なことばかり起こって本当に大変だった時期があったの。何故そうなるのかまるでわからないまま大変な状況になっちゃったのよ。それでその後しばらくたって、初めて読んだ河合隼雄先生の書いたユング心理学の入門書で、(中公新書で出ていた「無意識の構造」と言う本よ)日ごろの自分自身の経験している状況にぴったりなのに気がついて、これは普通のことじゃないと思って精神神経科の仕事をしている親類に相談に行ったのね。

そしたら話を聞いたその人が、専門家だから状況を判断して、事件のショックでこれまで自分で築いた心の壁が崩れて危ない橋を渡りかけているところだから一人では危険だ。専門家の助けが必要だ、ということで1年以上かけて心理の先生のところに毎週通って話しながら、自分をまとめなおす作業をしたの。そのときに親類がうまく橋を渡りきるとどうなるか、簡単に教えてくれたの。それで、今、あの人にも橋を渡れればどうなるか、だんだんその意味がわかってきているのよ。(親類は、カリタスの家にも知ってる人はいるはずよ。精神神経科のほうでは結構知られた人だから。亡くなった霜山徳爾先生も関係者だったのよ)

うまく橋を渡れればこの世界の見え方が全然違ってしまうの。一人一人人間は同じじゃないからみんな誰でも同じ経験が出来るわけじゃないし、ひとつ間違って橋から落ちるとご病気系の世界にいっちゃうことだってあるわけだし、やたらなことはいえないけれど、もし、神様がその人にそれをお望みならば橋を渡れるように守ってくださるみたいよ。それは簡単な道じゃないのよ、えらい大変なとんでもないものかもしれないわよ。あの人の今の状況を見たってそうだわ。普通の道じゃないの。

案内役は聖霊でも、心理学とか宗教学とか、民俗学とかいろいろな知識を持っているほうが何かと役に立つかもしれないわよ。だって、キリスト教国でもなければ、キリスト教の伝統があるわけでもない国で、キリスト教の立場で自分の感じているものを判断し、表現していこうとしたら生半可なことではないもの。

ああ、やっとここで聖霊の話に戻れたわ。とにかく簡単に説明できないのよね、このはなし。と言うところで本日はおしまい。ほんじゃ、またね。

 


話の続きよ

2011-02-23 19:35:10 | インポート

(続き)

さて、お話の続きよ。キリスト教の三位一体の“聖霊”なんだけど、うちのおばはんも実は長い間全然わからなかったの。ただねえ、後から振り返るといろいろな道しるべがいくつもあったのね。

あの人のお父さんと言う人は普段は面白いことばかり言って人を笑わせているんだけど、自分の子供に向かって時々すごく難しいことを言ってたの。大体毎年、元日と言うと、家族が揃っておめでとうございますで始めるでしょう。だけど、あの人の記憶では毎年お正月というと、「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」っていうの、一休禅師だったかしらこれを一度は聞かせられるのよね。それとか、真面目くさって、お前わかるか「闇の夜に鳴かぬ鴉の声聞けば、生まれぬさきの父母ぞ恋しき」というんだなとかって、ちっちゃい子がわかるわけもないような難しいことを教え込むから、うちのおばはんも意味もわからないまま覚えこんでいたのよ。

それでねえ、キリスト教の教会に通うようになったとき、その頃はプロテスタントの教会に行ってたんだけど、あるとき、礼拝の中ですべての造られたものよ、神を讃えよというような意味の賛美歌を聞いて、あっと思ったのよ。そうか、闇の夜に鳴かぬ鴉の声聞けばっていうのは、自分はこの世に生まれる前どこにもいなかったんだ、空気だったんだ、無だったんだってわかったの。自分も造られたものなんだってわかったのよ。でも、何年かたってカトリックに改宗してから、長年のお父さんから教えられてきたことの話抜きにこの話をしたら、神父様にあなたは自分を実際以上に見せようとしているとかって言われてチョンよ。全然信用されなくて誤解ばっかりされちゃったの。

あの人の母方のお祖父さんはあの人が小学校1年の時に亡くなったのよ。それがあの人の出会った生まれて初めての死というものだったわけ。うちのおばはんて子供の時から理屈っぽくて、深く考える子だったから、人間が誰でも必ずいつか死ぬのなら、大事なお父さん、お母さんも自分もいつかは死んでこの世にいなくなるって気がついたのねえ。それで終わりの無いものが欲しい。なくならないものが欲しいって思い始めて「永遠」なんてものを考えるようになったのよ。お金やなくなる物なんかじゃなくて、終わりの無いものが欲しいって思ったのよ。もともとが小さいときから深く考える人だったってことは言えるんじゃないかな。

とにかくそんなこんなでカトリックに改宗してカトリック信者として生活するようになったわけ。でも、ほんとにへんてこな誤解やいじめばかりつづいて、ごくわずかな神父様以外、あの人を認めてくれる人がいなかったし、あの人も自分の進路についてはさっぱりわからなかったから、長い間ずっとそのまま生きてきたの。観想的な生活は希望してたけど、自分の場がどうもわからなかったの。

そのうちにとんでもない事件に巻き込まれたり、普通あるはずの無い状況になっちゃったのよ。その辺はここでは省略するけど、ただ、最近になって、ふとしたきっかけでスターウォーズの全巻をDVDで見て、これは現実の世界そのままだって思ったのよねえ。みんなに信用されている人が実は暗黒界の人になってしまっていたり、光と闇、善と悪の戦い、すべて現実そのものなんじゃないの。まあ、これ以上は止めておくわ。

聖霊の話に戻らなくちゃね。

うちのおばはんにとっても、それは二十年も三十年もかけて少しずつわかるようになったとしか言いようがないのよ。昔々、プロテスタントの頃の先輩で今は牧師夫人としてご主人の仕事を支えている知り合いのところに遊びに行った時初めて、御霊さまという名前を聞いたの。それまで聖霊とか、御霊とか、聖書に出てきていても全然考えたことも無かったのが、その方に教えられたのよ。それで、それ以来、聖霊とか御霊のことが気になっていたの。

で、あの人、四谷の教会に行くようになって聖歌隊に入ったのよ。そこで初めて「聖霊の続唱」を歌ったわけ。聖歌隊で歌うのがいいところはね、メロディーと一緒に歌の言葉も覚えられるのよ。祈祷書を読んでも覚えきれない祈りも聖歌を覚えると祈れるようになるの。というわけで「聖霊の続唱」を覚えたおかげで、聖霊がどんな働きをしているのかがよくわかるようになったし、「風がどこから」というやっぱり、聖霊のことを歌っている聖歌があって、それも聖霊について考えさせてくれたの。

それまで神様については父なる神さまと、子なるキリスト止まりだったのが、聖霊なる神様のことがわかるようになってきて、やっと、三位一体の神ということの意味がつかめるようになってきたの。その過程はけっこう長い道のりよ。

あの人がこんなことを書いてるわよ。

―以前にもどこかで書いたことがあるのですが、その昔、聖イグナチオ教会に黙想学校というものがありまして、そこで教わったことは実は今でも非常に役に立っています。どういうことかというと、たとえば観想の祈りと一口にいっていますが、それは大きく分けるとカルメル会的な自分の心の奥深いところで神様と出会う祈りと、もうひとつはアッシジの聖フランシスコのように大自然を初めとする外界、自分の周囲の世界を通して神様と出会う祈りという二つの形があることや、三位一体の聖父と聖子、聖霊の交わりの中で、では人間はどこに位置するのかというと、これがミサの時に祈られる『キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに』と言う言葉の通り、私たち人間はキリストによって三位一体の神の交わりの中にあるのだといったことなどについてです。

また別の神父様の講座では神様と人間の関係を、海と海の水の中のスポンジにたとえて教えていただきました。海は神様、スポンジは私たち人間。海の中ではスポンジの内側にも外側にも海の水がいっぱいでスポンジを支えています。人間も自分では感じなくても実は神様の中で生きていて私たちの内側も外側も神様の力が及んでいるというわけです。

またある時は、まったく違う方向ですが、教会の真和会という定期講演会があって、そこで多磨全生園で長く看護の仕事をされた方のお話を伺う機会があり、その方は第二次世界大戦中、従軍看護婦として南方に行っていらっしゃったのだそうです。それで、朝は元気に笑っていた人が夕方はもうこの世の人ではなくなっていたりするのを目の当たりにして、死にたくない、死にたくないとそればかり思っていたある日、なぜか、どこからか、「人間は自分で生きているんじゃないんだよ」と言う声がしてハッとしたのだそうです。その時に人間は自分で生きているのではない、生かされて生きているのだと気がついてそれ以来考え方が変わり、戦争が終わって日本に戻ってからは当時は不治の病だったハンセン病療養所で働くようになったというおはなしでした。―

つまりこれなのよ。生かされて生きている自分。生かしてくださっているお方。自分はその方の中で存在し、その方に支えられているというのをあの人もある時、ハタと実感したというしかないみたいよ。それであの人も、いろいろあるけど自分で生きてるんじゃないとするとこの先もそれなりに何とかなるだろうって思ったのよ。もともと依存心とか依頼心は強い人だから、、大本の自分を生かしてくださっているお方に依存することにしたんだわよ。

話はもうちょっと続くんだけど、さすがにあたしもくたびれちゃったわよ。あの人ときたら、平気であたしをこき使うの、もうちょっと考えてもらいたいわ。とにかく今日はこの辺で終わりにしますからね。

バイバイ、またね。

 

 

 

 


マリーさんにお願いした

2011-02-23 12:14:37 | インポート

おっはようございま~す。マリーで~す。今日はねえ、うちのおばはん、自分ではまとまりがつかなくなったもんだからあたしに代わりにしゃべってくれって逃げちゃったのよ。まったくしょうがないんだからもう。面倒なことになるといつだってあたしに押し付けてさ、自分はまたまた暢気にかまえてんのよ。しょうがないから手伝うけどさ、まったくどうしようもないのよ。

あの人、最近、ツイッターって言うところで見つけたブログの記事に触発されてあれこれ考えてるのはいいんだけどさ、自分でまとめきれないであたしに押し付けるんだもんね。自分で書いてると話が固くなって難しくなっちゃうんだって言うけどホントかねえ。あたしにはさぼってるだけみたいな気がするわ。

えーとねえ、はなしの始まりは・・・そっか、たしかキリスト教書やなんかの出版社のあめんどうさんのブログで“ロナーガンが取り持つ出会い”っていう話を読んだらしいのよ。そこに“インサイト”って言う言葉が出てきて、うちのおばはん、それであれこれ考え始めたんだわさ。

たしかにあの人の身の上に起こった今日までの出来事ってへんてこなことばっかりなのよね。普通ありそうにもないことばかり幾つも続いて大変だったんだわ。だけどそれも全体を通して見直してみるとあの人自身が人間的に成長していく段階と重なっているみたいなの。ただ、他の人にそれを説明しようとすると、あの人の生まれ育った環境とか地域風土とか、家庭や親のこととかまでちゃんと語らないとどうしてそうなったのか、うまく伝えられないのよ。ほら、ローマは一日にしてならずっていうじゃん、あれよ。

簡単に言っちゃうとあの人のお父さんの影響ってものすごく大きかったんだけど、そのお父さん自身も実は、戸籍上は実のお母さんの末の弟になっていて本当は、お祖父さん、お祖母さんにあたる人たちが両親てことになってるけど、あの人のお父さんの実のお父さん、あの人には実のお祖父さんよね、その人はお坊さんだったの。そして、あの人の父方って、鎌倉時代から続いていて、地元の有名なお寺さんの開基が土地の領主だったころの家臣の家だったから、代々門前の住人だったの。それでさあ、ほら、昔から言うじゃない。門前の小僧習わぬ経を読むって。お父さんのお父さんが実はおぼうさんだったことも影響してたのかもしれないけど、あの人のお父さんて、自分の子供に教えること、話すことが普段から宗教的だったのよ。三つ子の魂百までよ。ちっちゃい時から親に言われてきたことは子供が大きくなって大人になってもしっかり心に刻み付けられてるの。

だから、うちのおばはん、おとなになってカトリック信者になったけど信仰心とか宗教心の土台は先祖代々の風土とか親から教わったことで出来上がっていたから、司祭の話もすぐに理解できたし、自分の感性で祈りとか賛美も理解できたんだけど、そこのところが外国人の神父様にうまく伝わらないで誤解ばっかり起こって日本人の神父様までまともに話を聞こうともしなかったりだったの。言っちゃなんだけど、ほら、神秘主義とか祈りとかってなんかちょっと得体のしれないところがあるから、理解できない人にはまるで理解できないし、下手をするとすぐにおかしなことに利用しようとする人たちが寄ってきたりしてろくなことにならないのよね。

でもほんとはそんなんじゃないのよ。大体さ、どうして今の日本に、いや世界中かな、こんなにたくさんの問題が起こってきたかわかるかしら? ニートだ、引きこもりだ、家庭内暴力だ、年間3万人以上の人が自殺しちゃってる、ストレスで心身ともにぼろぼろだ、インターネットが盛んになったのはいいけれど同時にそれを利用した犯罪も増えた、人間にとって一番大切な『愛』を学びあう場面のはずの『性』もとてつもなく汚されてしまっている、大変だ、大変だ、どれも一般社会だけではなくて宗教の世界にも問題は入り込んできてるじゃないの。これって一体なあに?ってどうして思わないの、不思議で仕方ないわ。

そしたらこの間、あめんどうさんつながりでこんなブログを見つけたのよ。この方はプロテスタントの牧師さんなの。“久保木牧師のblog~ゆるりと生きる~”   http://blogs.yahoo.co.jp/sjy0323jp/61147181.html

これ、ぜひ読んでみてほしいわ。今のキリスト教界(カトリックもプロテスタントも)の一番の問題が提起されてる感じ。ユングがキリスト教の衰退について一部考察しているけれど、あれは信仰の立場から書かれているものではないしね。

うちのおばはんがこのところ気にしているのは聖霊の導きとか聖霊の働きかけのことなの。日本じゃあまりイスラームの人たちのことはそれほど問題にならないけど、欧米じゃ大変よ。なんたってユダヤ教とキリスト教とイスラームは同じひとつの根から生まれてきた宗教で、実は同じ神様を信じているんだけどその中身がものすごく違うのよ。キリスト教の神様も天地万物の創造主で、唯一全能の父なる神様なんだけど、ユダヤ教やイスラームとまったく違うのは三位一体のお方として神様を信じているのよ。人間と神様とのかかわりも三位一体の神様とのかかわりなの。

なんかやたらに長くなってきたからさ、この辺で一回閉じて次回に続けることにするわよ。ほんじゃ、またね。


「インサイト」と聖霊の導き

2011-02-20 13:21:42 | インポート


これを書いている私はカトリック教会のただの信者で、専門的なことはよくわかりません。ただ最近いろいろと考えさせられることが多いので、ちょっとまとめてみようかと思っております。

きっかけになったのは、twitterで知りあった方のブログを読んだことでした。fc2ブログで『本を枕に―スピリチュアルな日々』と言うタイトルで、ここではクレオパさんと名乗っておられますが、キリスト教関係の出版社さんの個人ブログです。そこに最近の記事で“ロナーガンが取り持つ出会い”と言うのがあり、それを読んでこちらもさまざまなことを思い出したのでした。

バーナード・ロナーガンと言う名前も初めて見る名前で、ましてや邦訳の出ていない本のことではどうにもならないのですが、あめんどうさん自身、その大著「インサイト(洞察、閃き)」の日本語の解説書を読んでいるところとありました。これはユングの言葉からとったタイトルのようです。ユングなら多少はわかります。(言いたくはないけれど今の当方の複雑な状況の原因でもありますから)
これを書きながらこの記事の前に当たる“ロナーガン講座を修了したにはしたが、道はまだまだ・・・”を読んでみると実際、どうもかなり難しい内容のようで、やたらなことを言ってよいものかどうか危ぶむ思いも湧くのですが、自分の直感でまったく無関係のことではないはずだという気がするので話を続けます。

インサイト(洞察、閃き)というのは、引用すると・・・自分の未来がかいま見える瞬間のことで、神から、また魂の根底から来るビジョン・・・とあります。これだけ見ても多分何もわからないかもしれませんが、人生のある時に、それまでわからなかったこと、見えていなかったことがいきなり全部結びついて全体が見えてくる、自分が何者なのかが見えてきてとやかく言う気がしなくなる、そんなことではないかなと、自分の貧しい体験で想像します。

ロナーガンの名前も、インサイトのことも何も知らないまま、私はその経験をカトリック信者として聖霊の働きかけ、聖霊の導きと呼んでおりました。聖霊といっても、別に聖霊カリスマ運動の方々とは関係ありません。遥か大昔、イエズス会の故カール・ライフ神父さまが、相談に行った時に、本当の指導者は聖霊です、とおっしゃっていたのが始まりです。それで、思い出すと聖霊について考えておりました。天地万物の創造主なる神とか、救い主キリストならまだわかりやすい。でも、聖霊となるとまるでイメージが思い浮かびませんでした。何十年もかけてわかってきたというしかありません。

この続きはまたそのうちに書きたいと思います。いや、書きかけたのですが非常に長い話になってしまうことに気がついて、一旦中止しました。内容自体は以前一部の方々にはごらんいただいた自分史に重なるようなものです。長い長い話でも全体をご存じない方は私の話を信用してくださらなかったり、あなたは自分を実際以上に大きく見せようとしているとか、まるで見当違いなことをおっしゃったりなさいますから、簡単には端折れないことのように思うのです。


聖霊はどこにでも働きかけるらしい

2011-02-19 22:42:51 | インポート

ぶちぶち、ぶちぶち、内心言いたいことは山ほどあるわけだが、書いては消し、書いては消し、言ってみたところで仕方がないと思いながら、しかし気が晴れないからぶちぶちモードは続く。

腹が立つぞ、許せないぞ、ぶちぶち。 どうしてくれるぶちぶち。

ところがそこへ、以前に自分で書き込んだtwitterの呟きの記事が出てきたわけだ。探してはいたのだがtwitter側の都合か、しばらく何千という呟きがごそっとどこかに消えていたから自分でもどういうことを書いたのか忘れていた。ただ、自分自身でもかなり重要なことだったことだけはおぼえていたから、どこかにあるはずだとは思っていた。

するとやはり、ふぁぼってくれていた人がいて、出てきたのだ。

※ 『宗教の世界の理想に、清貧ということがあるんだ。ボンビー(ビンボーをひっくり返した言葉)は決して負の面だけじゃないよ。高い理想を目指しているなら必須条件でもあるんだ。ただし、それには自分の心を磨いていかないといけない。清貧はただのボンビーではないんだからね。』

※ 『結局のところ、人間は自分の死という問題をまじめに考えない限り、どうしても世界の中心に自分をおいてしまうようだ。神様に心を向けているつもりで自分を求めてしまう。この世の成功やお金、自尊心にふりまわされてしまう。祈っているつもりで自分を求めてしまう。私もそうだ』

何のことは無い、この二つの呟きこそは遥か昔々の若い頃からずっといつでも心のどこかにあって私をここまで導いてきた思いを言葉にまとめたものではないか。これだったのだ。この二つの呟きの前にはぶちぶち愚痴る思いもどこかに消えてしまう。

心磨きか・・・忍耐とか謙遜とか我慢という言葉だけを見るとつい、ぶちぶちモードにすり替わるがそれが、それこそが心磨きだったようだ。いやな思いをした時、なんとそれは心磨きのための大切な時だったのか、自分で書いた言葉のはずだがなんと教えられる言葉なのだろう。それこそ、これも大昔、故カール・ライフ神父様が言われた『本当の指導者は聖霊です』というのはこういうことかもしれないと思う。これこそは心の中で働いている聖霊が語っている言葉なのだろう。

こんな貴重な言葉をぶちぶち愚痴っている私が考え出すとはとても思えない。やはりこれは内なる聖霊が語りかけてくれたことと思うしかないではないか。生かし、支え、導いてくださる聖霊。

 


facebook

2011-02-15 18:49:38 | インポート

先ほどの記事を読んだ方がいたらごめんなさい。こちらの勘違いでした。と言うことで、まったく新しく書き直します。

twitterと違い、facebookのほうは結構よく知っている方々が多くなっています。twitter以来のお付き合いの方々のほかに教会関係や、日経WagaMaga以来のお付き合いの方々がおいでになるためです。

それで今日は教会関係なのですが、先日、吉祥寺の在世フランシスコ会の例会に参加させていただいたとき、指導司祭の山口神父様から今週末、2月の19日(土)午前10時 長崎のカトリック本河内教会(聖母の騎士修道院)で叙階式があるという案内があり、李 信衛さんと言う方が司祭になることを知りました。その時、どこかで見た覚えのある名前だとは思ったのですが直接の接点が無いのでそのときはそのままになっていました。

今日、知人のところにこの名前の方へのコメントがあって、ハッとしてそのページに飛んでみました。それでこの方が先日、山口神父さまから伺った新しく叙階を受ける方だとわかり、すぐに友人リクエストを送ったわけです。これはそれこそ何かのご縁というしかない感じです。新しく神父様になるこの方のために心から祈らずにはいられません。

そしてまた、先ほど消えてしまったかとがっかりした方が実は今パリにいることがわかり、パリから友人リクエストにokが送られてきました。facebookは実名だから気にいって入ったと言うこのお人、仕事は伝統芸能でも考え方は日本的とは正反対だから、いろいろあるのだろうなと思った次第です。とにかく考え方は違ってもずいぶん長年の知り合いですからやはり付き合うにも安心感があります。この方と奥様やお子さんのためにも祈ります。facebookにいる同じグループ出身の方たちにもこの方がいるのを教えなくては。みんなそれぞれの道を歩んでいるのだなあと、つくづく思ったものです。

 


自衛隊について思っていることを書いておく

2011-02-14 12:03:02 | インポート

知り合いの甥子さんは航空自衛隊にいる。颯爽としていて実に格好いい。

別の知人は自衛隊一家だった。結構そういうお宅もあって、親子で自衛隊とか、ご夫妻そろって自衛隊とかいろいろあるのだ。なんとなくその昔の職業軍人を思い出すが、昔は士族がそのまま職業軍人になったケースが多かったのだろう。ちょうど明治維新で士族階級は職を失っていたのだから。

良い悪いはとにかく昔の職業軍人はその分、武士の気概も誇りも持っていたわけだ。今はトップがトップだし、そうもいかない。本当は大変な任務を負っているのに邪魔者扱いする政治家もいるし、普通の若者が職業として選ぶにはなかなか厳しい状況かもしれない。

南極観測も自衛隊の後方支援があってこそ無事になりたっているのだし、災害時の救援活動しかりだ。一番大変な裏方の仕事は殆ど自衛隊に任せているのに、悪者扱いはないだろう。せめて自衛隊に入った若者が自分の職務に誇りと自信が持てる様にして頂きたいものだ。

軍備がなければ戦争も初めから起こらないなどというのは妄想でしかないのだ。戦争のもとになるものは人間の心の中に潜んでいるのであって、武器や軍隊そのものではないのだ。政治家はその辺ももっとよく学んで欲しい。いわゆる平和運動家も同じだ。


電脳ラビット君

2011-02-11 22:38:37 | インポート

はてさて、今日も書き終わってクリックするとブログが宙に消えてしまう事態も予想しておかなくては。

今日の話はちょっとした知り合いの子のブログをご紹介したいと思う。このあいだ、聖書の集いで幸田司教様が、若い人たちに仕事がないと嘆いていらっしゃったわけだが、この子も地方に住んでいることもあってか望む仕事が見つからず、家族の勧めでこの子の才能や希望とは相当かけ離れた方向で、自衛隊に入ることになっている。

自衛隊自体は実のところ、当方、なぜか多少関係者にご縁があって、決してやたらに何でもかんでも悪くは思わない。ただ、この子の絵やパソコンの才能が惜しいとは思う。地方によっては自衛隊もりっぱな就職先なのもわかっているがもったいないなあと思っているだけだ。

若い子たちが自分の才能や希望を生かすどころか、仕事自体がない社会とはなんとも悲しいではないか。脇で見ていてもどうすることもできないが、せめてこの子の能力をちょっとでいいから見てやってほしい。

  http://blog.livedoor.jp/usausatom/


Broachは故障しているらしい

2011-02-09 23:36:50 | インポート

先日からたびたび、書き上げたブログがあっという間に宙に消えてしまい、愕然とする事態がつづいていたのは、どうやらプロバイダー側の故障らしいとわかった。いつちゃんと直るのかわからないので、使い方がまだ良くわからないのだが、Exciteブログをもう少しちゃんと使いこなせるようにしようと思う。

yahooはスパムコメントが多くて嫌いだし、gooは創作のおき場所にしておきたい。となると、Exciteか、はてなだが、なんとなくExciteにすることにした。

消えてしまったものを書き直すのは面倒なもので、仕方がないから向こうに移しておくことにした。

   http://dabocat.exblog.jp/12846361/