そういう時もある

2017-04-09 19:49:01 | Weblog
こんばんは~、マリーさんで~す。

自分にさんをつけるなって? だってさあ、ちょっと語呂がいいじゃないの、まったくもう、うちのおばはんとおんなじことを言うのね。なあに、何の用なの? 今、おまえさんのところのおばはんはどうしてるって? 今日はちょっとなんかしらないけどブラックになっちゃってるみたいなのよ。そりゃ、ブルーじゃないかって、ブルーだってブラックだってそんなに違わないじゃないのよ。とにかく、うちのおばはんはちょっとひっくり返って、あ、違うわ、毛躓いてじゃない、えーと、なんだっけ、あ、そうそう、落ち込んでるの。ああ、まったくあの人の傍にいるとおんなじようになってきちゃうわ。あの人も還暦もとっくにすぎてるから、言いたいことがすぐに出てこないのよ。

昨日いやなことがあって、まだそれをひきずってるのよ、あの人ったら。昨日ねえ、うちのおばはんは足腰が痛くても頑張って四ッ谷に出かけたのよね。駅前の雙葉の修道院、二コラ・バレであの人が興味を持ってる風の家のミサがあったのよ。それに出かけたの。そのミサとミサが終わってからの集まりはすごくよかったのよ。あの人は知らなかったけど、帰ってからメールをみたら何年も前からツイッターの方でお友達になってる方が実はお隣に座ってたんですって。二コラ・バレの集まりが終わってからあの人、何の気なしにとなりの元30年以上通っていた教会に寄ったのよね。そしたらたまたま前は聖歌隊で一緒に歌っていた人に出会っちゃったの。でもって、強く誘われてつい聖歌隊に顔を出したのが失敗よ。

何があったかなんてもう言わせないでね。あの人昨夜は荒れ狂って怒ってたの。だって、あの人だって関係者を守るために未だにほとんど話さないようなことだっていくつかあるのよ。でも今の主任司祭も助任司祭も何にも知らないくせに思い込みであの人を見てるの。失礼しちゃうわよ。そんなことだから聖歌隊にも見当違いなうわさが流れたりしていてるみたいだし、あの人の存在が煙たい人にはうれしくないのね。うちのおばはんだって、言われなくたって聖歌隊席で立ってるのがつらくなってくるのが現実だから別にグループに戻る気なんかないんだけど。失礼しちゃうわって、怒っちゃってたの。

ほんでもって今日も内心はまだグリーン、じゃない、エーとピンク、まさかね、えーと、エーと、あのう、あ、ブルーだった、ブルーだったわけよ。それがさっきさあ、なんか急に気持ちが変わったみたいなのよ。いきなり急によ。あの人、ふっと自分は今67だから、運良くだか悪くだか、こんな時代だから何とも言えないけど、あと30年生きたとして97か、母が44、父が76じゃあどうも自分も長寿には縁がなさそうだなあ、どっちにしてもあと30年経った頃には悪口や陰口を言ってた人もこちらと同年代だし、この世にいるかどうか怪しいぞ。あと30年経って彼女が聖歌隊で歌ってるとも思えないな。怒ってもバカらしいじゃないかっていう気がしてきたのよね。

やっぱりさあ、60代も後半になってくるとさすがにうちのおばはんでも大人になってきたってことかもね。やれやれだわ。あたしとしてもこれで安心してあの人と一緒に聖木曜日からの3日間、あちこち連れまわされても心配ないわ。木曜日はほんとは河北病院の整形外科の予約があったんだけど17日の月曜日に変えてもらったから、多分聖香油のミサにも行くつもりみたいよ。三日間は典礼がながーーーいのよねえ。あの人にもそのつもりで準備させなくちゃ。痛み止めのくすりと、貼るカイロは絶対忘れないようにしなくちゃ。

というわけで本日の話はおしまい。ほんじゃまたね。

いろいろ考えさせられる

2017-04-09 13:26:37 | Weblog
何というか、浮世の泥沼に足を取られた気分、うんざり。でも人間の現実から逃げるわけにいかないから、戦闘態勢に行くか、別の無難な方向に目を向けるかしかない。落語でも聞こうっと。


昨日は喜んだり怒ったり、なんとも落ち着かない日だったが、とにかく今年のシュロの枝はもらってきたし、四ツ谷の聖歌隊席に今一度上ったし、考えてみればありがたい1日だった。ピタウ神父樣、ネブレダ神父樣、今は亡きお世話になったお二人の恩人の神父樣は忘れない。以前、ほかに方法がなくてとうとう直接フランシスコ教皇樣にtwitterで直訴してみて話がちゃんと伝わったのはこのお二人のお陰、思えばピタウ神父樣との関わり自体、四ツ谷の教会で、教会という神様の場で、ある人が私についてあんな人は聖イグナチオのレベルじゃないわと言いふらしたのが始まりだった、ピタウ神父樣は教会でそういうことがあってはいけませんと、きちんと教会役員会にもご自分が出席しておっしゃってくださったのだ。時は流れ、人は代わり、四ツ谷の今の現実は相変わらず神様の場とはほど遠い部分もあるけれど、それでも、亡きピタウ神父樣、ネブレダ神父樣のためにも四ツ谷の教会の今後を祈らずにいられない。あ、吉祥寺もだ、なんといっても地元だ。まだ日が浅いからギクシャクしてもしかたがないが、なるべく早く溶け込んでいきたいものだ。教皇樣だってそうお考えになるだろう、いつまでも四ツ谷にこだわっていては先に進めない。


そうだ、思い出した。公園のお風呂ダヌキに始まっていくつものお話を書いてみることになった始めはネブラダ神父樣に自分で努力してみることの大切さを言われて、自分に出来ることを考えたのがお話つくり、物語を考えて書くことだったんだなあ、神父樣に出会っていなければ何も始まらなかった、ケータイの、今はスマホだけど、マリーさんも生まれてこなかった。駄作とはいえ、何作ものお話を書いて、さるお方のお目にまで上ることもなかった、ネブレダ神父樣とピタウ神父樣はまさに真の大恩人だったと思う。勿論その背後に働いておいでだったのは神様だが。結局詰まるところは神様の思し召しなしには何も始まらなかったわけだ。


しかし、上記は過去のことなのだ。この先は現在ただ今の時代に生きる現実を考えなくてはなるまい。NHKスペシャルに見る高齢者漂流時代の到来、これは他人事ではない。神様はこの時代に生きる人間たちをどのようにご覧になり、何を語り掛け、何をお望みなのだろうか。自分自身、足腰のきかない中婆さんになってきてはいるが、だからといって黙って流されていてよいわけはない。善き人も、悪しき人も、敵も味方も行きつくところは同じなのだ。敵のことなど考える必要はないという気持ちにもなるが相手はただお互いのめぐり合わせで相性が悪かったりしているだけで、一個人としてはその人もこの時代の波に流されている同じ仲間でもある。好き嫌いより、共通点で見なくてはどうにもならない。

千里の道も一歩からというぞ。何ができるか考えよう。たしか吉祥寺にはレジオマリエという組織があったけれど、ああいうところは何をどう動いているのだろう。向き不向きもありそうだし、吉祥寺でなくてもいい、なにかできることはないのか。ちいさいことでいいのだ、というか小さいことしかできないのだ。