いろいろ考えさせられる

2017-04-09 13:26:37 | Weblog
何というか、浮世の泥沼に足を取られた気分、うんざり。でも人間の現実から逃げるわけにいかないから、戦闘態勢に行くか、別の無難な方向に目を向けるかしかない。落語でも聞こうっと。


昨日は喜んだり怒ったり、なんとも落ち着かない日だったが、とにかく今年のシュロの枝はもらってきたし、四ツ谷の聖歌隊席に今一度上ったし、考えてみればありがたい1日だった。ピタウ神父樣、ネブレダ神父樣、今は亡きお世話になったお二人の恩人の神父樣は忘れない。以前、ほかに方法がなくてとうとう直接フランシスコ教皇樣にtwitterで直訴してみて話がちゃんと伝わったのはこのお二人のお陰、思えばピタウ神父樣との関わり自体、四ツ谷の教会で、教会という神様の場で、ある人が私についてあんな人は聖イグナチオのレベルじゃないわと言いふらしたのが始まりだった、ピタウ神父樣は教会でそういうことがあってはいけませんと、きちんと教会役員会にもご自分が出席しておっしゃってくださったのだ。時は流れ、人は代わり、四ツ谷の今の現実は相変わらず神様の場とはほど遠い部分もあるけれど、それでも、亡きピタウ神父樣、ネブレダ神父樣のためにも四ツ谷の教会の今後を祈らずにいられない。あ、吉祥寺もだ、なんといっても地元だ。まだ日が浅いからギクシャクしてもしかたがないが、なるべく早く溶け込んでいきたいものだ。教皇樣だってそうお考えになるだろう、いつまでも四ツ谷にこだわっていては先に進めない。


そうだ、思い出した。公園のお風呂ダヌキに始まっていくつものお話を書いてみることになった始めはネブラダ神父樣に自分で努力してみることの大切さを言われて、自分に出来ることを考えたのがお話つくり、物語を考えて書くことだったんだなあ、神父樣に出会っていなければ何も始まらなかった、ケータイの、今はスマホだけど、マリーさんも生まれてこなかった。駄作とはいえ、何作ものお話を書いて、さるお方のお目にまで上ることもなかった、ネブレダ神父樣とピタウ神父樣はまさに真の大恩人だったと思う。勿論その背後に働いておいでだったのは神様だが。結局詰まるところは神様の思し召しなしには何も始まらなかったわけだ。


しかし、上記は過去のことなのだ。この先は現在ただ今の時代に生きる現実を考えなくてはなるまい。NHKスペシャルに見る高齢者漂流時代の到来、これは他人事ではない。神様はこの時代に生きる人間たちをどのようにご覧になり、何を語り掛け、何をお望みなのだろうか。自分自身、足腰のきかない中婆さんになってきてはいるが、だからといって黙って流されていてよいわけはない。善き人も、悪しき人も、敵も味方も行きつくところは同じなのだ。敵のことなど考える必要はないという気持ちにもなるが相手はただお互いのめぐり合わせで相性が悪かったりしているだけで、一個人としてはその人もこの時代の波に流されている同じ仲間でもある。好き嫌いより、共通点で見なくてはどうにもならない。

千里の道も一歩からというぞ。何ができるか考えよう。たしか吉祥寺にはレジオマリエという組織があったけれど、ああいうところは何をどう動いているのだろう。向き不向きもありそうだし、吉祥寺でなくてもいい、なにかできることはないのか。ちいさいことでいいのだ、というか小さいことしかできないのだ。



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