神社おそうじ隊、見参!公式ブログ

カタチ以前にある「いのち」への感謝。 天の恵み 地の恵みへの感謝を、一緒にお届けしませんか?

神社おそうじ隊、見参!

人のカラダは宇宙そのもの。 そして人のカラダは神聖な魂が宿る神社そのもの。
新世紀の「神社」認識とは、その土地に存在する神社だけを指すのではなく、人そのものが神社、すなわち 「 動くパワースポット 」。 その大切な社(やしろ)である肉体、そして人の思考や行動が調和で満たされることにより、関わる全てが明らかなる変容を遂げます。 自らの心身を健やかに保ち自己実現することこそ、関わるすべての人・場所・物の保持する磁場が健やかに保たれることとなり、それすなわち地域が、日本が、そして地球が、太陽系が、そして宇宙にまで、その調和波動が遍く届いてゆくこととなります。
「共生・協調・調和」 をメインコンセプトに、 神職介添えのもと『 社(やしろ)』そのものである“ 人・場所・物 ”に神道的アプローチにより働きかけ、それに連なる地域→日本→世界→地球→宇宙の調和が図られる、というのが Planetary Work の種子。 一人一人小宇宙である実体を、神社などの縁ある土地に運ばせていただき、相互交流させていただくことにより、つつみ気枯れが祓われ、人も土地も物もすべてが本来の輝きを放つ、というのが神社おそうじ隊の種子。 すべての意と土地と人とを、神職が那珂執り持ちさせていただいています。
現在日本全国各所に鋭意見参中。 清祓ワーク、及び清祓ノ儀での御玉串料、およびワーク代は、プラネタリーワーク活動支援費として運用させていただいており、その一部は神社おそうじ隊が活動する中で、全国の地域・神社に納めさせていただいております。


 

☆3年経過の『神社おそうじ隊 見参!』 隊長記事

2013年11月09日 | エッセイ

『神社おそうじ隊 見参!』活動開始から、来年(2014)2月で丸3年を迎えます。
開始当初より「いつまで続くのか」と思われ、その名称から、理解不能な、ある種の奇異な印象をもたれること多々であったこの活動も、過ぎてみればあっという間の3年でもありました。

今回は、この3年をカンタンに振り返りつつ、ひとつの「節目」としての記事をブログに残しておくのもまた一興かと思い、つらつらと書いてみます。


まずは、2011年活動開始から今日まで、この『神社おそうじ隊 見参!』に参加し、一緒に各地を参拝していただいたすべての皆様に、心より感謝いたします
特に、向かう先々で「ご当地隊」としてプランニングから案内、場合によっては車出しまでお世話していただいた方々には、本当にありがたくってありがたくって…感謝してもしきれないです
皆様一人一人と御縁いただき、その協力あってこそ3年間継続できたのだと、思っております。
この「御縁」は、『神社おそうじ隊 見参!』活動当初からの大切なキーワード。
私も副長も、表層的なお付き合いはできない(しようと思わない)タチなもので、メリットデメリットでお付き合いは継続できません。
そういう意味でも、本当に御参加いただいた皆様との出会いは、貴重な「御縁」の賜物だと思っております。
もしよろしければ、今後とも何とぞ宜しくお願いいたします

…さて、
この3年、日本全国各地をけっこうなペースで「見参!」させていただいてきました。
伊勢、出雲(2度)、熊野、奈良、山形、滋賀、京都、福島、茨城、長野、愛知、広島、…
また、神奈川県内でも、横須賀、鶴見、寒川、大山、津久井、鎌倉…
そのほか、私個人では福岡や宮城などなど、副長に至っては…把握できない。。。

これらも、そこに出向くことで様々な「繋がり」を発見することもしばしば。
「繋がり」とは何か?…と問われれば、それはもちろん「日本」各地の、不可視的なフィールドでの多様多彩な「繋がり」に他なりません

…実をいうと、私は神職となるべく勉強を始める以前には、いわゆる「神社」へ鳥居をくぐって入ることすら心理的に憚られていました。
それまでは武術、あるいは仏教や密教の方面ばかりで、寺で「のうまくさんまんだ…」とか真言(マントラ)唱えたり、瞑想したりはするものの、「パンパン」と二礼二拍一拝することなど、正月くらいという…まあ、いまの一般的なレベルでしか「神社」との関わりはありませんでした。

そして、勉強を始め、神職としての資格をいただくこととなりました(本庁系列ではない「教導職」でいう「中教正」。
そうなってはじめて、いや、より正確には全国を巡拝するようになってはじめて、この「日本」という国の持つ本当のオモシロさと奥深さ、神秘性に気づくこととなりました。
もちろん、それ以前にもいわゆる「裏側」に関しては詳しくもあり、胎蔵界と金剛界とか、密教的な世界観を知った当時の私は「あ~、やっぱ空海っておもしれぇ」などと思ったものですが、「神社」をそういう眼で巡拝させていただけばいただくほどに、その「おもしれぇ」は広く深くなっていく…感じがします。

あ、ここではっきり申し上げておきたいのですが、『神社おそうじ隊 見参!』は、いわゆる「パワースポット」巡りのツアーでもなければ、ただ単に「ワタシ」を満足させるためのツアーでもなければ、「この地が穢れているから浄化せねば」的なおせっかい(勘違い?)なツアーでもなければ、いわゆる「スピリチュアル」を売りにしたツアーでもなければ、もちろんそもそも「ツアー(観光)」でもありません。
よく誤解されていたり、歪曲して理解されていたり、勝手に思い込まれていたりするようですが、そもそも、違うのです
私も副長も、これらの観点から巡拝したことは、ただの一度もありません。
なので、いわゆる「スピリチュアルツアー」として魅惑的なキャッチコピーを付記したりすることもなければ、何かを啓蒙したりしたこともないはずです。
たまに「スピリチュアルツアー」的な方々から同じことをしているくらいに思われたりするようですが、それは大きな勘違い。

当初からのコンセプト。
それは、「ご利益」を求めるものでも、「何かを変えて」と願うものでも、「パワーがあるから」低頭するものでも、「このカミサマを浄化してあげよう」というおせっかいな気持ちをいっているものではありません。
「いのり」とは、純然たる想いの発露…その「いのり」を内に宿せしヒトという存在は、誰もが神性を体現する「社(やしろ)」でもある。
瑣末なことに心を悩ます矮小な存在といくら自らを嘆いてみても、あるいはワタシほど価値のあるものなどないのだといくら尊大に構えてみても…そのことに変わりはありません。
そういう自らという「社」に「調和」がもたらされ、それがひいては自分自身、あるいは周囲環境との「協調」が円滑となり、最初から独りではない森羅万象一切との「共生」の元に存在していることに(心から)気づく。
『神社おそうじ隊」の「おそうじ」というのは、こういう一連の流れを指した言葉であり、それ即ちコンセプトでもあります。

そのためには、隊長や副長がカリスマ的になり、持ち上げられるような集まりであってはならず(まあ、なりようもないけれど)、
どこかからのメッセージや導きを目当てに参加者が集まるようであってはならず、
ましてや「願いが叶う」ことを喧伝して参加者を集めることなどあってはならず、
あくまでも自主的な想いからの集まりであること…
こういう意思と意志を一筋に貫いてきたことは、3年という月日が証明してくれているかな、と
これって、どこにもモデルを求めてもいなければ、「マネ」したものでもありません。
だいたい、そのテの「ツアー」マネてみたところで、自然消滅は目に見えてます。
有名でもなければ、何かの特異な能力や人脈で人を集めるのではないのだから…。

…と、まあ、『神社おそうじ隊 見参!』の立ち位置というかポジションというか、そのあたりは開始当初からいささかも変わりなく。
変わりないということは成長しないということではなく、最初から普遍的かつ本質的なトコロにいるのだと、好意的に解釈していただければありがたいですが、この点は私も副長も同じです。


この3年、こうしたコンセプトを根底に、実に多くの「神社」へ身と心を運ぶことができました。
その過程で、各地の神職の方々とも話す機会も増え、単に参拝だけに止まらない活動の広がりが生まれてきました。
そして、お話を伺い、「神社」というもの、ひいては「神道」への認識が広く深くなればなるほどに、その内奥を垣間みることの困難さにも、また気づきます。
それは、脈々と継承されし太古からの願いなのか、あるいは全く別の何かなのか…。

この3年で得た実感のひとつに、やはり日本の不可視的な世界、それを便宜的に「精神世界」としますが、その世界の奥深さは本当にどこまでもあるな、と。
現代ではさまざまなカタチで海外からのヒーリング・スピリチュアル的な思想、考え方、あるいは方法が輸入されてきています。
でも、「神社」を巡拝させていただけばいただくほどに、それらのエッセンスは、すでに日本に深く浸透していることを確認することになります。
とはいえ、ただ「観光」でそこを訪れたり、誰かの言葉をそのまま受けとめるだけの学び(?)では、到底「それ」には気づけない。
自分のアタマで考え、ハートで感じ、ハラで理解していく…その腹づもりが(本当に)できることを「準備ができた」と私は云っていますが、何かを理解するにも「教えてもらおう」では、わかることなどたかがしれています。
たとえば、「石の上にも3年」など、古来より「3」という数字は日本では尊重されてきました。
その意味も理由も説も多々あるようです。
こうした「数」の由縁は、「神社」にはあちこちに散見されますので、そういうモノを見つけていくところから始めていくのも、愉しいかも、しれません。。


そして、来年(2014)年。
『神社おそうじ隊 見参!』は、これまでさせていただいてきた事々を基に、いろいろな意味で活動の幅を拡大していこうかと、思っております。
また、それに伴い奥行きも深まっていくので、たとえば「勉強会」のようなプランも、ないではありません。
それには、私はまだまだ、あまりにも勉強が足らないので、今後とも精進あるのみ…です。

まずは、1月は恒例となりました「皇居参拝」
そして2月は「出羽・王祇祭」
そのあとも続々と「見参」予定地が挙がってきています(詳しくは「神社おそうじ隊 見参!公式ブログ」を参照ください…ちなみに、最近「公式ブログ」もリスタートしました


とりとめもない「節目」記事となり、読みにくいことこのうえないかもですが
何はともあれ、今後とも宜しくお願い申し上げます。


★レレレのおじさんではありません♪

2013年04月02日 | エッセイ

構想から2年、震災の起きる直前の2011年2月22日からスタートし、3年目へと突入した神社おそうじ隊が止まりません
丸二年経つまでは、と慎重だった隊長が、2012年の12月に打ち立てた2013年度の見参予定は
すでにその年の半ば以上がすでに決定済みという面白さ
その場にいた隊員みんなの目が丸くなりながらも、すでにその2013年は着々と見参を重ねほぼ毎月ペース(もちろんこのハイペースは今年ならでは
それでもその場所に行けばいくほど行かせて頂けば頂くほどに
ランダムかに見えるその順番さえもが、全てが深く連鎖していることを実感いたします
そしてやっぱりネーミングのお蔭か、神社おそうじ隊のなんたるかをお伝えさせていただく機会も多々
神社おそうじ隊は、お出かけしますがレレレのおじさんではありません
(あ、赤塚不二夫作品を出せばわかると思っていること自体、昭和臭がプンプンですね
神社おそうじ隊は、
箒や布巾を持参して神社をお掃除する集まりではありません
神社、すなわちわたし達の肉体をご縁ある土地に運ばせていただき、交流させていただくことにより、自らの“社:やしろ”をお掃除させていただきつつ、相互相乗効果により更なる佳き流れに、という運び
どなたにもご参加いただけますので、ぜひご一緒に
詳細は、神社おそうじ隊、見参!公式ブログをご参照くださいませ

あ、今月はいよいよ奈良、山の辺の道見参です
そういえば、報告も追いつかないほどで、次回見参お知らせも後手後手です
ご興味のある方は、HPや公式ブログをご参照くださいませ


☆はじめての『神社おそうじ隊 見参!』隊長記事

2012年07月28日 | エッセイ

『神社おそうじ隊 見参!』は、昨年二月、神奈川県の津久井を皮切りに活動を開始いたしました。

この時から、いわゆる「レギュラー編」を二ヶ月に一回敢行。
神奈川県内の各地に身を運び、参拝させていただいてきました。

そして年二回の「番外編」
初回の「伊勢」、そして二年がかりで二度の「出雲」と、日本のいわばコアともいえるふたつの地域を参拝できました。
この「番外編」は、十月には「熊野」へと身を運ぶことが決まっています。

今年に入り、「ご当地隊」という新たなカテゴリーにて、よりその「場」と密接なつながりをもった「おそうじ」を、させていただいています。
今年五月末、神奈川の「横須賀」から始まりました。
八月の「近江」は、全国のご当地巡拝の、大切な端緒となるように思います。



「神社おそうじ隊 見参!」

当初、その「おそうじ」という響きから、「神社をキレイにするの?」「拭いたり???」というニュアンスの質問を頂いたり、また実際に共に巡拝した折に「ホントに境内掃いたりするんじゃないんですね!」と、軽い驚きを伝えていただいたりということも、ありました。
まあ…こうした反応も当然予想できていたのですけれど。。。


ちなみに、名付け親は、実はボクではなく副長なのです。
特に、「見参!」は絶対に入れる!と、力(りき)入れておられたことを思い出します(笑)。


さて、このネーミングから連想されることといえば、やはり具体的な「お掃除」の場面で、その行為を通じて心身を清らかにしていくようなイメージ、というものがどうやら多いようです。
確かに、名称が決まった時を思い起こせば、ボクのアタマにもそうしたイメージが浮かんできたりしたことも…あります(笑)。

こうしたイメージが浮かぶことも、もしかしたらお寺などで僧侶の方々が為す「作務」のイメージがあるのかもしれませんし、早朝神職の方々が神社の境内を竹箒で掃く、という深層イメージの反映なのかも、しれません。

そして、ここで大切なことは、これらのイメージは誰に教えられるでなくごく自然に浮かび上がってくる、ということ。
ここに、ヒトの人たる由縁があるように思いますし、『神社おそうじ隊 見参!』では、こうしたココロの作用を大切に考えているのです。


『神社おそうじ隊 見参!』でいう「おそうじ」ということの意味とは、実際に参加していただき、共に参拝をしていくことで、ごく自然に体感していくもの。
事実、いくらコトバで理解しようと努めてもピンとこなかった方々も、一度参加していただいた後には、ほとんどの場合で自然と感得されています。
実際に神社に身を運び、社殿を前にして背筋を伸ばし頭を下げる…
…そうすると、ごく自然に何かを敬うかのような、どこか清らかな気持ちが誰に示されることもなく芽生えるもの。
『神社おそうじ隊 見参!』を開始して一年半、それまで神社などに参拝する習慣のなかった参加者の方であればあるほど、実感されることです。



また、『神社おそうじ隊 見参!』では、基本的な(カミサマへの)マナーは大切にしつつも、それ以外の面では堅苦しさや形式はなくし、シンプルなスタイルで参拝することにしています。
連綿と継承されゆく神社という神域はまた、ヒトの意識の顕れでもあります。
どのような姿勢で神前に立つのか、それは見た目ではなく、自ずと顕れるココロの姿を映し出しています。



そして、「いのり」

「いのり」とは、純然たる想いの発露と、『神社おそうじ隊 見参!』では捉えます。
そこにおいて「カタチ」は必要もなく、誰もが自然にそれを為すに至るもの

『神社おそうじ隊 見参!』でいう「いのり」は、「○○をお授けください」「○○がうまくいきますように」という、ご利益を期待した「お願い」を叶えてもらおうという発想とは、一線を画しています。
ここのところは大切なところでもあり、尚かつ『神社おそうじ隊 見参!』活動開始の、いわば「原点」とも相通じるところでもある関係上、この機会に少し解説をさせていただこうと、思います。



…先ほどお伝えしましたように、「いのり」とは純然たる想いの発露。
それは「お願い」をする、ということではなく、「い=意=こころ」を「のる=宣る」、つまり自らのココロを宣言すること、と言い換えてもよいでしょう。

神社というのは、「いのり」の場であり、自らのスピリットと自然、宇宙との交流を織り成す空間。
そこに鎮座されているカミサマは、自然、宇宙とダイレクトにつながった、いわば具現化されたシンボル。
たとえば、同じカミサマでも、ある神社と別の神社では、そこに示される「ご利益」はちがっていたり、します。
また、同じカミサマを祀っていても、ある神社と別の神社では醸し出されているエネルギー、雰囲気はちがっていたり、します。
このような観点からすれば、そこに示される「ご利益」という限定条件は、いったいどれほどの意味をもつのでしょう。

自然、宇宙は、いついかなる時も生成と消滅、破壊と再生というプロセスを刹那ごとにくり返しています。
そのプロセスのなかで、アナタもワタシも、いついかなる時も生成と消滅、破壊と再生というプロセスを刹那ごとにくり返しています。
ヒトもまた大いなる自然、宇宙の反映であり、それゆえに例外なくヒトは宇宙そのものなのです。

そもそもの神道では、自然もヒトもカミも、分け隔てなくひと続き。
根源においてつながり合い、そのつながりのなかでアナタもワタシもいまここにいるのです。

そうすると、ヒトもまた例外なくカミでもあり、その身(カラダ)はその意識を乗せる社(ヤシロ)ともいえます。
一人一人、誰もが神社(カミなるヤシロ)、なのです。



昨今、現在ではやや下火になった観もありますが、「パワースポット」という言葉がメディアを賑わしています。
確かに、「場」というものにも性質があり、波動、気という観点からすれば「高い」「低い」や、「気持ちいい」「ヘンな感じ」という感覚を生起させるものでもあるでしょう。
また、「そこに行けば何かが変わる」というニュアンスがその響きには含まれていますので、「パワーもらいにいく」という軽い感じの方々から実際に自分が変わっていくという大きな期待を胸にそこを訪れる方も多くいるようです(「ご利益」を求める心性と、似たところがありますね)。

「神社」はやはり、その中心的な位置にあるようです。

また、「浄化」という概念から、神域とされる「場」や「土地」に積もり積もった負のエネルギーを浄める、というようなポジションの方々もいて、そういうことは古来行われてきたにせよ、なにやら最近は総体的に増えているようです。
その基本的なコンセプト自体は「お祓い」と一見変わらないようですが、「お祓い」は、「カミサマとの仲立ちとして神職が執り行う」ものですが、ここでいう「浄化」は、「ここのカミサマが弱っているから…」というようなポジションから、つまりヒトの立場からカミ、あるいはその神域を「浄化」する、ということのようなので、やはり「お祓い」とは異なりますね。

こうした「浄化」には、何か根本的に大きな矛盾があるようにも思えますが、さてさて…。。。



「いのり」とは、純然たる想いの発露、とお伝えしました。
それは、「ご利益」を求めるものでも、「何かを変えて」と願うものでも、「パワーがあるから」するものでも、「このカミサマを浄化してあげよう」という気持ちを必要とするものでも、ありません。

参拝させていただく、ということは、その「場」があり、そこに「神社」があるということ。
ということは、古来祀り続けてきた意識の連鎖、祀られ続けてきた意識の集積があり、そこにいまあなたのスピリットが顕現しているからこそ、参拝させていただくことができるということ。
そうした背景を、ココロで想い描いてみる…そうすると(たとえばボクの場合であれば)、「感謝」の気持ちがごく自然に湧き出てきます。

基本的なカミサマへのマナーというのは、形式だけの儀礼ではありません。
形式以前にある、もっとも根本的なココロにある、といえるでしょうか。




ヒトもまたカミなるヤシロ。
もしそうであるのなら、ヒトは神社という神域に身を運び、ただただ頭(こうべ)を垂れるという行為は、何を意味するのか?
そうしたこともホンの少しアタマの片隅に置きつつ、「いのり」を奉じてみてもよいかも、しれません。

そして、ひとりひとりはすでに内なる神性を宿した存在。
もしそうであるならば、誰もがそもそもパワースポット的な存在、ともいえるでしょう。
「パワーをもらう」という、どこかに自らを置き忘れた戯れ言に耳を貸すでなく、そうした神域や場、土地に自らの足でしかと立ち、そうすることですでにスピリットでの相互交流をしていることに、まずは想いを巡らせてみましょう。

神社という神域や、いわゆるパワーに溢れた場や土地というのは、そういうことを「想い出す」空間でもあるように、思います。



『神社おそうじ隊 見参!』は、副長、そして御参加頂く皆様とのコラボ的創造活動でも、あります。
その当初よりの「原点」にはこのような想いがあり、それらは「調和・協調・共生」という『プラネタリー・ワーク』全体を貫くメインコンセプトで表現されています。



何かを感じる、感じない。
そんなことはどうでもよいこと。

まずは、「いのり」を奉じてみる。
そこから、すべては始まります。


参加概要

初年度は神奈川県を中心に隔月ペースで各所に見参、4年目を迎えた今年も磐座・巨石参拝をメインに見参中。周る神社やルートなどの行程詳細はお問い合わせください。見参地は決まり次第、ブログやホームページで随時発信してゆきますので、どうぞご確認下さい。

※ 基本事前振込
■ 参加費 日帰り参加:5,000円 2日間:15,000円 3日間:25,000円
■ 中途参加・離脱の場合 : 2日間:10,000円 3日間:20,000円
※ 車出しをお願いした場合など金額に変動があります。詳細はお問合せ下さい。
▼ 前日キャンセルの場合参加費の10%を頂きます。
▼ 就学児以上の年齢による参加費の変動はありません
▼ 現地までの交通費+宿泊費+食事代諸費用は個人負担となります
▼ レンタカーを借りた場合は中途参加・離脱に関わらず人数割(ガソリン代含む)

■ 宿泊手配など詳細はお申込み後ご連絡させて頂きます
◎ 歩きやすい靴、服装、荷物軽量でご参加ください
◎ 御朱印帳をお持ちの方はご持参ください

Planetary Work

神聖なものとは、神社など特定の場所だけに宿っているわけではなく、すべてのものにそれは純然と在りて在るもの。人もまた然り。人が集う場所、物も然り。 それらが生かされるうちに自然に重なる“つみ=包み” “けがれ=気枯れ”を清祓いさせていただくことにより、すべて=宇宙からの慈愛のエネルギーが降り注がれ循環∞し、必要な人・場所・物との縁を結び、縁あるすべてが活性化することの援けをさせて頂きます。

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どなたでも参加できます♪詳細はコチラ お問合せ・お申込みはコチラ