『地水火風空』

【TAMURATIC.】のブログ

2016.11.19〜22『神社おそうじ隊 出雲見参!2016』その9

2017-01-10 | 出雲 2016



あまりにも明らかだからこそ、わからないこと。
いつもそこにあるからこそ、気づけないこと。
そういうモノやコトは、実は日常にもたくさんあります。


たとえば、正月などには神社や仏閣に参拝…このような習慣になっている現代の日本人は、一般的に神社参拝時には「二礼二拍一拝(礼)」します。
賽銭箱の前などに作法が書いてあることも多くあるし、みんながそうしている。
なんとなく、そういうものだと思って、していますよね?

誰もが一度は「なぜ、それが決まりなのか?」と思うことはあるでしょう。
でも、そう思うと同時に「その決まりには何かの意味がある」などの思考が出てきてます。
そして、それ以前の一瞬の疑問を打ち消し、ないことになってしまう。

この「なんとなく」の疑問はずっと頭の片隅に残りつつも、特に自分にとって意味があるワケでもなく、特に自分にとって利益不利益をもたらすワケでもないように思える性質の疑問であるので、多くは放りっぱなしにしてしまいます。

たとえば、出雲大社(いづもおおやしろ)では「二礼四拍一拝(礼)」が作法です。
出雲大社だけでなく、同じく「四拍」を作法とする有名な神社としては、宇佐神宮、熊野神社、弥彦神社などがあります。

この違いの意味を、たとえば出雲大社では

「・・・4拍手をする理由ですが、当社で最も大きな祭典は5月14日の例祭(勅祭)で、この時には8拍手をいたします。数字の「8」は古くより無限の数を意味する数字で、8拍手は神様に対し限りない拍手をもってお讃えする作法です。ただし、8拍手は年に1度の例祭(勅祭)の時のみの作法としています。平素、日常的には半分の4拍手で神様をお讃えする4拍手の作法としていますが、お祈りお讃えするお心に差はありません。」(出雲大社ホームページ/よくある質問より)

と、説明していますが・・さて。

もちろん、ネット上では無数の「推測」はなされていますが、「数字」だけに、奥は深い。
「礼」と「拝(礼)」との間に「拍」を置く…そういえば、この理由も、はっきりと明確にはされていませんね。
…というよりは、そもそも日本においては、「神社に参拝する」、ということの真の意味すら明らかでないのだから、仕方ないのかもしれません。

ちなみに、二拍に制定されたのは、戦後です。




出雲には「美保神社」という神社があります。
今回は参拝しておりませんが、出雲を知るうえで重要な神社の一つです。

御祭神は、三穂津姫命(ミホツヒメノミコト) 事代主神(コトシロヌシノカミ)。
ミホツヒメノミコトは、高天原の高皇産霊命の御姫神で、大国主神の御后神。
コトシロヌシノカミは、大国主神の第一の御子神にして「エビスさま」として、現代でも親しまれています。
このコトシロヌシノカミは、御皇室における宮中八神のうちの一神として、国津神としては唯一祀られています。

コトシロヌシノカミの御神紋は、三つ巴です。

出雲大社と同じ四拍、宇佐神宮・二之御殿、比売大神の御神紋も、三つ巴。
ちなみに、二之御殿とはいいつつ、社殿は一之御殿と三之御殿の中央に位置します。
神社において、この中央に位置するということの意味は、けっこう深かったりします。
比売(ヒメ)というと一般に女性を指す、という認識がありますが…この認識自体、一体いつからなんでしょう?

また、琉球王朝の神紋も「三つ巴」。
ちなみに、「契丹古伝」に記された、ユーラシアに降臨した東大神族(しうから)の天祖、琉球の始祖の名は「スサノオ」
「おそうじリトリート」「沖縄見参」、久高島でも、いろいろお話伺いました。




今回も参拝させていただいた、「佐太神社」の御神紋。

「扇地紙」「輪違」「亀甲」。
どこをどう見て龍蛇神の尻尾の斑紋なのかはわかりませんが、神社の公式ガイドでは「扇」はそうなっています。
そして、「輪違」「亀甲」は鱗と・・・。
少し前までは、正中殿の扇は、佐太神社神宝の「御檜扇」を 象ったもの、という見解だったそうです。
では、なぜそれが「神宝」なのか?というと、なかなかわかりにくい。

けれど、

「扇」は、女性器そのもののシンボル。
「輪違」は、Vesica piscis(ヴェシカ・パイシス)=偉大なる母。
「亀甲」は、亀=玄武(尻尾は大蛇)=六芒星。
(ちなみに、出雲大社の御神紋も「亀甲」、出雲の主な神社には「亀甲」が使われています)

としてみると、如何でしょう?
佐太神社のイメージも、だいぶ違ったものになるでしょうか?

佐太神社の神迎神事は、秘音。
この神事こそ、古より変わることなく伝承されている神事です。
ここにおいては、〝なぜ「秘音」でなければならないのか?〟
それは内容なのか、それともそのコトバなのか・・・

古代、祭祀は国において最も重要なる行事であったといわれます。
現代においては「迷信」「形式の継承」というイメージで片付けられてしまうようになっていますが・・・さて、その本質に些かの変容はないと思っているのは、私だけでしょうか?




この『神社おそうじ隊 見参!』の、5年間のここまでの活動において、実にさまざまな気づきがありました。
日本という国がどういう国で、なぜこれほどに多様で、バラバラなのにすぐに統制がとれ、普段いくら自分勝手でも何かの際には他者を慮ることができるのか・・・などなど。
そのすべてをここに明らかにするには、あまりにも「・・・」なのでできませんが、上記の記述から、ある程度察していただければ幸いです。

そして、「出雲」はやはり、いろいろな意味で鍵となることも今回改めて感じ得ました。
特に、奥出雲はオモシロイ。

ご参加いただいた皆様、本当にありがとうございました
関東からだけでなく、広島や大分からも参加者のありましたし、また地元のお二人には2011年、2012年に引き続き、今回もご当地隊として下見や宿泊先の決定などに尽力いただきました。
本当にありがとうございました




さて、今回でこのブログへの神社関係の記事の投稿は最後になります。
これからは「神社おそうじ隊 見参! 公式ブログ」へのアップとなりますので、もしよろしければそちらを御覧ください。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました



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2016.11.19〜22『神社おそうじ隊 出雲見参!2016』その8

2016-12-30 | 出雲 2016

『金屋子神社』

御祭神 金山毘古命 金山毘賣命

2012年以来、2度目の参拝となりました。
こちらのサイトにあるように、ここ安来市広瀬町の『金屋子神社』は、たたら製鉄の総本社。

鉄を制するものが、国を制す。
弥生時代の初期に始まったとされる鉄器の加工。
出雲が王国となりその権勢を誇った、その原動力に「鉄器」があったことは想像に難くありません。
弥生中期には砂鉄(朱砂)が主流となったということですが、「朱砂=スサ」ですので、その王(支配者)の名が神話になることもあるでしょう。

現代においても、この「奥出雲」ではたたら操業が行われており、金屋子神は篤く崇敬されています。

 




『仰支斬里(かみきり)神社』

風土記記載社。
“「カミキリ」という名は、八百万の神がスサノヲ命を高天原から地上に追放する際の天罰、「髪切り・爪切り」に由来する”(仰支斬里神社 由緒板より)



そして、最後に参拝させていただいたのは・・・

『金屋子神社』

こちらは雲南市吉田村。
今回ご当地隊をしていただいたTさんのご実家の神社になります。



「奥出雲」「たたら」・・・今回の『神社おそうじ隊 見参!』の最終参拝地に、これほどピッタリの神社もありません。
全員で、心を込めて参拝させていただきました。



すぐ近くに雲南吉田IC。
「道の駅 たたらば壱番地」にて、“ままたまご”のプリンを堪能
かなり美味しいです





次回、総括



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2016.11.19〜22『神社おそうじ隊 出雲見参!2016』その7

2016-12-29 | 出雲 2016

『湯野神社』

大己貴命 少彦名命 他三柱を御祭神とする。
『出雲国風土記』にも記載があるという、歴史の古い神社。
亀嵩温泉における医薬の守護神して崇敬される。


「砂の器」のロケ地としても有名。



『玉峰山森林公園』

玉峰山は、一般に『出雲国風土記」の玉造の神が宿る信仰の山として知られています。
この写真では、不動明王像の背後に見える二つコブの山。


「雄滝」




『鬼神神社』

御祭神 五十猛尊(いそたけるのみこと) 素戔嗚尊(すさのおのみこと)

「五十猛」という神は、古事記には登場せず、日本書紀や先代旧事本紀に記載のある神。
素戔嗚の御子神として知られます。
その「五十猛尊」の御陵地(お墓)が、「鬼神神社」から少し登った場所にあります。


この案内板の奥に、碑が立っていました。



けっこうな急勾配。



鬼神神社・岩船
奥出雲では「岩船大明神」で呼ばれています。



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2016.11.19〜22『神社おそうじ隊 出雲見参!2016』その6

2016-12-28 | 出雲 2016

『飯石神社』
式内社。

御祭神 伊毘志都幣命(いいしつへのみこと)

御祭神の天降られた磐座を御神体としています。
天穂日命の御子であり、出雲国造の御祖神に当たる。
そのため、例祭は千家出雲国造ご参向のうえ執り行われるといいます。


境内社 託和神社(出雲国風土記記載)
御祭神 吉備津彦命
 



 
『狭井神社』



『大森神社』
御祭神 大穴牟遅命



『粟谷神社』(出雲国風土記記載)
主祭神 吉備津彦命



『木次神社』
式内社。
風土記に「支須支(きすき)社」として記載。
御祭神 大巳貴命 武御雷命


 
宿泊先、玉峰山荘にて。

奥出雲。
夜は、ゆっくりと深くなっていきました。。。


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2016.11.19〜22『神社おそうじ隊 出雲見参!2016』その5

2016-12-26 | 出雲 2016


『佐太神社』は、出雲国二ノ宮、最も古式を遺すとされる「神在祭」で知られます。

「神在祭(じんざいさい)

旧暦十月、一般には神無月といいますが出雲國では八百万の神々がお集まりになることから神在月(かみありづき)と呼んでいます。正中殿の御祭神伊奘冉(いざなみ)尊が神去りました旧暦十月、八百万の神々が母神を偲び当社に参集すると伝え、祭の期間中は神楽も上げぬ、厳粛な禁忌の祭であることから「お忌祭」ともいいます。殊に当社の祭は出雲國数社に伝わる神在祭の中でも最も古くから行われてきた祭でその次第も約五百年前の当社社記とほぼ同じ内容で今日に到るまで執り行われていることから宗教学、民俗学等の面からも注目されています」(「佐太神社」御由緒より抜粋)

文献的には、かつては陰暦十月十一日から二十五日まで行われたとされます。
現在は新暦十一月二十日に神迎、二十五日に神送となっており、今回の『神社おそうじ隊 見参!』では、神迎神事に参列させていただきました。

その神事は一切秘音。
本殿付近は注連縄が張り巡らされ、執り行う神職以外は誰も近づけないようにされます。

漆黒の静寂の中、ただ粛々と執り行われる神事。
日本における「神」、その在り方が連綿と継承されてきたその様を、この眼、この耳、全身で体感させていただきました。


神事が終わり、宮司による質疑応答。
相当な緊張の続く神事であることが、その様子から伺われました。


翌日、
佐太大神生誕地とされる加賀の潜戸(かかのくけど)へ向かう前に、早朝参拝。

本殿が三殿に分かれており、正殿、北殿、南殿で、佐陀三社ともされます。
それぞれに御祭神が鎮座され、

正殿:佐太大神 伊弉諾尊 伊弉冉尊 速玉男命 事解男命
北殿:天照大神 瓊々杵尊
南殿:素盞嗚尊 秘説四座

とご由緒にはありますが、時代によって一定ではありません。


神社前にて「けんぽうなし」を、皆で購入。


ご祈祷を受け、


「龍蛇神」についてひとしきり神職の方にお話をいただきました。


正中殿の神紋の「扇(おうぎ)」は、龍蛇神の尻尾の斑紋を、左右両殿の神紋の「亀甲(きっこう)」と「輪違(わちがい)」は、龍蛇神の全身を覆う鱗形を表している、とのこと。
『神社おそうじ隊 見参!』的には、こうした説明はいつからなのだろうと思ってしまいますが・・・。


そして、「加賀の潜戸(くけど)」へ。



結局、洞窟の中には海の状態が思わしくなく入れず、でした。
とはいえ、やはり大いに揺れる船の上というのは臨場感があります。


佐太大神に関しては、様々な説があります。
その一つ、猿田彦命の「猿田」を「サタ、サダ」と解して佐太大神とする説は知られており、今回乗せていただいた船でも佐太大神を猿田彦命と説明されていました。
ただこれは明治維新後のことで、神祇官からの命でこのようにせよと命じられた当時の神社側は、頑として拒んだといいます。
そのため、明治5年の新社格制度において「郷社」扱いという事態に陥ったのだそうです。
大正14年に国幣小社に列するまで、神社としては相当な辛酸を嘗めてきたことは、想像に難くありません。

〝出雲國三大社の一つとして杵築(きずき=出雲大社)、熊野、鎌倉時代においても杵築、日御崎とともに「佐陀大社」と称えられた御社です。〟

とウェブサイトにあります。
『出雲國風土記』によれば、佐太大神は、熊野大神、野城大神、大穴持命とともに出雲の四大大神
加賀の潜戸で生まれ、古くから導き、道開き、航海、そして地鎮の神として崇敬されてきたといいます。
この辺り、猿田彦命と近いことから、同神説が根強いのかもしれませんね。

「サダ」は、そもそもは島根半島を意味すると考えられ、「狭田」と「岬」の二つの説があります。
こうしたことから、「佐太大神」というのは本来は土着の神、ということになるのかもしれません。。。








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