ようやくこの日がやってきました
「神社おそうじ隊」初見参の、この日
「おそうじ」というネーミングからは、なかなかその本筋は見えにくいかもしれませんけれど
、私はそれも良いかなと思っています。
「神社おそうじ隊」と心に認識したその瞬間、もしかしたら竹箒(たけぼうき)などを持って、お社(やしろ)の周囲を掃いているような映像を思い浮かべた方も、いるのかもしれません。
そういう映像を心に描いていただけること。
それ自体ホントにありがたいことですし、まあ、ネーミングからすればそう思わざるを得ないのかも、しれません
実際のところ、だいたいの神社は、ごくたまにであれ、そこを統べておられる宮司の方が管理されているものですし、いきなりいってそういう掃除をさせてくださいというのも…なんとも図々しいことのように、思えます。
…というか、本心では「図々しいにもほどがある」くらいに思ってますが
そういうことでは、ありません。
東洋では、それが中国であれインドであれ、それらの国々の文化や思想の影響をモロにうけ、独自のスタイルに変成させ続けてきた日本であれ、人体をひとつの宇宙とみなしてきた歴史があります。
明治時代以降は、廃仏毀釈やら医療法改正やらですっかり「物質としての身体」とみなす身体観に変容してしまっていました。
古代の叡智、そして現代の物理学の教えることには共通点があります。
そのひとつには「物質もまたエネルギーである」ということ。
その流れは、ここにきてようやく一般的な認識のなかに浸透しつつあるように、感じます。
人の想念。
人の意識。
人のおもい。
これらもまた、物質であり、エネルギー。
日本という国の歴史は(ほかの多くの国々もそうであるように)、「想い」や「祈り」の歴史。
私は、昨年よりの「神道」の学びを通じて、更にその認識を深く持つようになりました。
「神社」とは、その「想い」「祈り」を通じて「カミサマ」とつながる空間。
「日本の神は強制をしない。日本の神についていえば、自分はどのように神を捉えるのか、
で始まる」(『陽の国の神道』)
「神って何?」「神は妄想」「神はいない」…
という、この思考もひとつのエネルギー(気)。
「神は愛」「神は全」
これらもエネルギー(気)。
人の「想い」のなかに「神」は宿り、人の「祈り」のなかに「神」は生きている…
どのように捉えるのかで「想念」の中身は決まるのであれば、私はこう思念しようと、思います。
それはいわゆる「信仰」というものとは、ちょっと違うかとは思いますが。
実体があろうとなかろうと、手で触れることができようとできまいと、たとえ泡沫のごとくできては消えゆく「想い」の流れのなかにあろうと…
あらゆる縁起のなかでただ回転するようにたゆたう生命の流れのなかで、ただ生きていようと…
見えない、触れられない、自らを生かしているさまざまなエネルギーへの『敬意』。
その「想い」「祈り」の集積は、確実に何かに作用するもの…
…理屈ではなく、まずは自らが動いて、その「空間」に足を運び、「体感」する。
それが即ち「おそうじ」することに、つながっていきます
今回は
「チーム神道」の重鎮、Oさんが忙しいなか馳せ参じてくれました
どうもけっこう、今回の目的地からは割と近かったようで、いや本当に嬉しかったです
ありがとうございました
次回は4月、伊勢へと向かう予定です。
もしご興味あれば、お気軽にお声がけください