On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

アメリカ山公園歴史パネル展「古き横浜の青春~プール嬢のアルバムから~」のお知らせ

明治20年代から30年代にかけて横浜に住んだ外国人たちの生活の様々な場面を写真で紹介。 ■5月21日(火)~9月1日(日)6:00~23:00(開園中見学自由・無料) ■横浜市アメリカ山公園(みなとみらい線元町・中華街駅6番出口直結)3階共用部分

■横浜から池上へ ~プール嬢のアルバムから

2024-04-29 | ブラフ・アルバム

1888年に家族とともに来日し、横浜で青春を過ごしたアメリカ人女性エリノア・プールのアルバムから興味深い写真をご紹介するシリーズの4回目、今回は池上(東京都大田区)を訪れた際の写真をご覧いただきます。

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エリノアのアルバムには彼女が16歳頃の1894年から、結婚するまでの約10年間の写真が収められていますが、その間に少なくとも3回池上を訪問しています。

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池上本門寺は1282(弘安5)年に日蓮上人が没した地、武蔵国池上に建立され、古くから人々の信仰を集めてきました。

徳川家康の江戸入府以降、参拝者は次第に数を増し、江戸時代後期となると、年に一度の日蓮聖人御命日の法要「お会式」に庶民が群れを成し、浮世絵の題材となるほどのにぎわいを見せたといわれます。

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1870(明治3)年、アメリカの艦船「オネイダ号」が横須賀・観音崎沖で沈没し、115名の尊い命が失われました。

南北戦争において数々の功績を挙げた栄えある軍艦の不幸な事故を追悼するために、横浜外国人墓地にオネイダ号記念碑が、また犠牲者のうち身元不明の人々のための慰霊碑が、池上本門寺に建てられました。

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その後、メモリアル・デー(戦没将兵追悼記念日)にはアメリカ軍関係者が横浜外国人墓地と池上本門寺を訪れるようになったことから、池上の地名はアメリカ人のみならず居留地の外国人たちにも知られていたのでしょう。

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エリノアのアルバムに残された最初の池上の写真の日付は彼女が数えで16歳の1894年6月4日です。

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一行は、男性9名、女性は彼女を含めて5名、総勢14名のグループでした(撮影者も同行したとすると15名か)。

写真の下に記された名前を見ると山手にあったドイツ海軍病院のランクウィッツ医師やシモン・エバース商会横浜支店に勤務するドイツ人カウフマン氏、山手在住のスイス人ストラー夫妻など多国籍で、プール家から参加したのはエリノアのみだったようです。

前列左から3人目がエリノア。

 

お友達のアンナ(右)と。アンナの苗字は不明。

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次の池上での写真には、エリノアが19歳の誕生日を目前に控えた1897年12月5日と記されています。

横浜からサイクリングで訪れたようで、道中の様子まで撮影されています。

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渡し舟で越えたのは多摩川でしょうか。

 

池上に到着。

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右端がエリノア。

今回は子供を含めて8名のグループ。

エリノアの両親や兄弟の姿は見当たりません。

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池上行、最後の写真は撮影年月日不明ですが、1904年から1905年頃横浜に滞在していたシドニー・ウィーラーが写っていることから、その時期のものと考えられます。

今回は総勢18名の大所帯。

なかにはエリノアの母と兄バート、弟チェスターのほか、1904年9月に彼女と華燭の典を挙げるナサニエル・メイトランドの顔もみえます。

このころは婚約者もしくは夫だったことになります。

シドニーとエリノアの兄弟とはヴィクトリア・パブリックスクール時代からの友人で、プール家とウィーラー家は家族ぐるみで親しく付き合っていました。

 

池上本門寺の表参道、九十六段の石段、此経難持坂 ( しきょうなんじざか ) にて。

この写真から池上を訪れた時のものだと分かりました。

外国人の団体に思わず振り返る日本人女性。

坂の下から物珍し気に見上げる女の子たち。

家に戻ったらきっと「今日は本門寺に外人さんたちが大勢来てた」と家族に報告したことでしょう。

 

図版:すべてアントニー・メイトランド氏所蔵

参考資料:池上本門寺ウェブサイト https://honmonji.jp/

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