興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

金刀比羅神社 その15

2008年04月27日 | 金刀比羅神社

合祀記念碑

 金刀比羅神社境内西側に大正6年10月の改築記念碑とともに合祀記念の石碑がある。

     


  (左) 魚吹八幡神社にある神社明細帳の金刀比羅神社の部分と(右)その解読文

 上の石碑には大正5年6月の文字が刻まれている。

 魚吹八幡神社にある神社明細帳には、各村にある神社の事について詳しく記されている。合祀があった時もその事が記されている。

 神社明細帳では、湾洞神社の合祀は明治41年9月18日と記されている。
湾洞神社内に稲荷神社もあったようで、その時に合祀されている。

 恵美酒神社の合祀は、大正7年4月12日となっている。
恵美酒神社の合祀が石碑に記されている年月とずれがある事に疑問が残るが、大正3年から6年にかけて行われた地上げ・屋根換え等の事業が完成し、大正7年4月12日の春祭りの時に盛大に式典が行なわれた時に魚吹八幡神社の宮司が来られたとすれば、その日を神社明細帳に記したのかもしれない。


湾洞神社と恵美酒神社があった場所

 

 

 


金刀比羅神社 その14

2008年04月14日 | 金刀比羅神社

 金刀比羅神社 春祭り 本宮 平成20年4月13日(日)

 昨日は金刀比羅神社春祭りの昼宮です。

 午前中は、奉納餅を楽車に載せて興浜子供会が興浜を練り歩きます。
興ちゃんは午前中、網干公民館歴史ウォークに行っていたので、写真を撮影する事ができませんでした。
 その為、5年前の写真を掲載します。

           
 今年はあがっていませんでしたが、5年前は、『琴平神社』と『湾洞神社』の幟があがっていました。

    
 金刀比羅神社を出発して町内を練り歩く楽車
 楽車の帆は、平成13年春に興浜が魚吹八幡神社武神祭の輪番にまわってきた時、今の檀尻を製作した濱本良晴棟梁から寄贈されたものです。

     
 楽車の正体は古くなった消防車を改造したものなので、運転席付きでハンドルはききますが、エンジンは動きません。

    
 13時からの漫才のジャックさんとマジックのキタノ大地さんは楽しかったぞ。
 このあと青年団の富くじ抽選とつづき、16時から餅ほりをして2日間にわたる春祭りが終わります。

           
 毎年餅ほりの前に魚吹八幡神社澤宮司によるお祓いがあります。
 餅ほりの写真も5年前の写真です。

     
 神社西側に設置された餅ほり台からは協議員の方が餅をまきます。

  
 神社下側に設置された餅ほり台からは漁業組合の方が餅をまきます。

 


網干公民館主催歴史ウォーク 網干区垣内地区を訪ねて

2008年04月13日 | 歴史散歩

 今日の9時から12時まで、網干公民館主催の歴史ウォークがありました。
ここ最近この時期に行なわれている行事のようです。

 今年は『垣内地区』をまわりました。
コースは順に網干公民館→三石天満宮→狭間公園→お旅道→万福寺→武大神社→河野鉄兜生家跡→長太郎石→蔵の内→光接院跡→古網干遺跡でした。

 網干公民館古文書学習会の生徒が各場所の説明にあたるという事になっており、私、興ちゃんは『光接院跡』の説明担当になりました。


本日のコースマップ

 


三石天満宮


狭間公園


お旅道

 


河野鉄兜生家跡


武大神社 今日は春祭りのようです


長太郎石


蔵の内










 光接院跡 興ちゃんの説明用虎の巻

 みなさんご存知と思われますが、興浜に浄土宗の『鶴立山 大覚寺』は、天福元年(1233)【鎌倉時代・北条泰時の時代】定翁隆禅上人の開基です。この隆禅上人はもと天台宗比叡山の僧でしたが、山を下り諸国を歩くうち、ここ砂山という地にあった「釈迦堂」に入って残りの生涯を念仏に明け暮れたと伝えられています。

 この「釈迦堂」は、後に『鶴林山 光接院』と改称して真言宗に属していたのですが、これら開基以来の歴史を正しく伝える史料は大覚寺にも残念ながらないとの事です。

 「光接院」には専称寺・徳栄寺など末寺七ヶ寺を数え、その後永正年間(1504~21)に真言宗から浄土宗に転宗したのですが、天文三年(1534)【武田信玄・上杉謙信・北条早雲の時代】、赤松氏の乱【朝日山戦争】の折に兵火にかかり堂宇を焼失しました。

 そのあと第七代住職である空鑒尭淳上人が、弘治年中(1555~58)【室町時代 川中島の戦いの時代】の時、興浜に移転して『鶴立山大覚寺』と改められました。



古網干遺跡 ここで現地解散になりました


金刀比羅神社その13

2008年04月12日 | 金刀比羅神社

金刀比羅神社 春祭り 宵宮 平成20年4月12日(土)

 

 今日と明日の2日間は、ここ姫路市網干区興浜(おきのはま)にある金刀比羅神社の春まつりの日です。今日はいい天気で、朝から協議員の皆さんと各種団体の皆さんが準備をされました。桜は散り始めている状態です。


準備の終わった金刀比羅神社境内
正面は夜に行なわれる演芸の舞台


春祭りと夏祭りと秋祭りのみ開けられる拝殿
前のお供えは漁業組合から鏡餅と大きな天然鯛
後のお供えは各町、各種団体、有志からのお酒

       
 明日本宮の午前中は、写真に写っている『楽車』を夕方に行なわれる『餅ほり』の餅を積んで興浜子供会が興浜を練り歩きます。
 今年装飾を新たにして興浜の南にある興浜公民館で待機する『楽車』

       
 夕方6時から9時まで興浜の各種団体【老人会・婦人会・消防団・子供会・興壮会・興伸会・青年団】による模擬店と大正琴・銭太鼓・舞踊・かっぽれ・子供会の太鼓・興浜太鼓集団一擲による演芸が舞台の上でありました。
演芸の写真は酔っていたのか、いい写真がとれず残念。
 写真正面は拝殿の提灯です。
 今日はお参りにこられた方が例年より多かったように思います。

       
  明日の本宮に必要のないテントとイス等を片付けたら10時になっていました。
 辻祭典委員長の乾杯の音頭で慰労会です。
 私、興ちゃんはブログ作成の為一足お先に失礼しました。   

       
 明日の本宮は午前中が『楽車町練り』で午後がマジックと漫才を見ながらの花見と、青年団の富くじ抽選と餅ほりです。
 天気だけが心配です。

 

 

 


大覚寺 檀信徒会館新築工事 その1

2008年04月09日 | 大覚寺

 姫路市網干区興浜151番地にある、浄土宗西山禅林寺派 鶴立山大覚寺において平成20年4月1日より、庫裡(くり)の西側の建物(蔵と調理室兼食堂と便所)を解体して、新たに檀信徒会館を建てる工事が始まりました。
 


本堂

 
 平成20年4月1日より解体工事が始まりました

 
仮囲いで覆われた工事部分 南側の放生池から(左)と東門から(右)

     

    
 解体工事に先立ち、3月31日に片付けを兼ねて私興ちゃん
が潜入捜査に入らせて頂きました。
お宝というほどではありませんが、写真上左側が三葉葵の紋が入った湯のみ
写真上右側が三葉葵の紋が入った提灯です。

 ここ大覚寺は、江戸時代に寺領三十石を賜り朱印地として、『三葉葵』の紋所を許され、十万石の大名と同じ格式でした。
また丸亀藩京極家が参勤交代の時の本陣でもありました。

    
 これは、三宝荒神社の提灯のものと思われます。
 現在大覚寺内にある三宝荒神社は弘治年中(1555~58)に垣内字砂山の光接院から現在のこの地に移り『鶴立山 大覚寺』となる以前からあったようです。
氏子は興浜・新在家・余子浜の三ケ町で、管理は塔頭寺院の法華寺がおこなっていたと伝わっている。提灯の文字が表すように現在もこの三ケ町の管理になっています。
 『三葉葵』の提灯と共に、痛んでいたが捨てられずに置いてあったものと思われます。


 これはお宝、イキな傘が出てきました。興浜歴史資料館行きでしょうか。

    
 平成20年4月9日朝 取壊し工事の仮囲いが撤去され4月11日に行なわれる檀信徒会館建築工事の地鎮祭に向けて整地工事を残すのみの工事現場。
棟上げまでは、このように左より本堂・庫裡・荒神社が並んで見えます。 
このアングルで桜が満開の写真はもうないでしょう。

    
 平成20年4月9日夕方 この日の夜から激しい雨が降る予報の為、キューピッチで整地作業を終わらせ、11日の地鎮祭を待つ工事現場。
 桜吹雪舞散る中での作業でした。

 ※説明文は『大覚寺ホームページ URL:http://www.daikakuji-himeji.jp/』を参考にしました。

 

 


興浜道普請 網干96号線その2

2008年04月08日 | 興浜道普請

 姫路市道網干96号線 平成6年

 前回姫路市道網干96号線完成を書きましたが、平成6年の夏から冬にかけて興浜墓地から北側を工事した時の写真が出てきたので掲載します。今と違い非常にせまい道だった事がわかります。


平成6年夏 工事前の写真です
現在、井口食品『こもれび庵』から南を向いて


平成6年夏 工事前の写真です
興浜墓地から北を向いて


側溝築造の工事中写真(道路東側)


現在、井口食品『こもれび庵』の前、舗装前の工事中


右後方は、興浜墓地 輿(こし)倉が写っています
輿倉は平成19年3月とりこわされました
現在輿は縁あって船場本徳寺にあります


平成6年撮影 興浜墓地から北を向いて
正面向こうに大覚寺の屋根が見えます


平成20年3月撮影 上の写真と同じアングルで


平成20年3月撮影 興浜墓地側


興浜道普請 網干96号線その1

2008年04月05日 | 興浜道普請

 姫路市道網干96号線完成

 道路には、国道・県道・市道・農道・私道等管轄行政によって区別されている。
もちろん維持管理も国道なら国がするという事になっている。
ここ姫路市網干区興浜にある道路は、姫路市道がほとんどである。

 私たちが通称『浜国』と言っている道路は国道250号線である。
これと同じように姫路市道も番号を付けて維持管理されている。
日常生活ではこのような呼び方はしませんが、土木建設に携わる人は少なからず、覚えておく必要のある呼び方である。

 『興浜道普請』では、興浜の道路整備状態を記録していきたいと思っています。

 今回、姫路市平成19年度道路事業によって、平成18年度より興浜自治会が行なっている興浜墓地改修にともない、市道網干96号線が興浜墓地に面する部分の拡幅工事が平成20年3月に完成したので、着工前と完成後の写真を掲載します。


 市道網干96号線は大覚寺の南側、山田歯科から興浜墓地に向かう道路

 興浜に火葬場があった昭和50年代初めまでは、三昧(さんまい)に通じる道という意味か、三昧に行くしか用がない為なのか、三昧道(さんまいみち)と呼ばれていた。
長老たちは今でもそう呼んでいる。 
 
     興浜墓地南東から着工前と完成

 
     興浜墓地南から着工前と完成

 
     興浜墓地六地蔵前から着工前と完成
 
     興浜墓地六地蔵前から着工前と完成

 
 平成20年1月7日工事に先立ち大覚寺四十二世義空玄礼上人によって六地蔵 さんの抜魂式があり、そのあとすぐに播州石材さんが工事完成まで預かる為土台よりはずされました。

 
      加納土木による工事中の写真です 六地蔵前の道路拡幅工事中
 
  興浜墓地南側の桜の木は抜かれて、擁壁によってのりおこしされ、道路が拡幅されました。 

  
 道路が完成したあと、播州石材さんにより六地蔵さんの土台が新しくされ、もとの六地蔵さんが帰られました。