興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

朝日谷 火揚げ

2008年08月15日 | 歴史散歩

 明応年間(1492~1501)の大干ばつの時、村人は一本松山に集まり、昼夜を問わず愛宕大権現に雨乞祈願をした。効あって大量の雨をいただき、そのお礼として毎年行うというが、確かなことはわからない。

 愛宕神社東の火揚げ場で役員の方々が朝から準備をされたようだ。 

 かつては20mに近い竿に篭をつけて火揚げを行った。現在は、やや簡素化されているが、火揚げの行事が毎年続いているのはここだけである。垣内は4年に1回の檀尻曳き出しがない年の夏に行う。津市場、長松、余部、揖保川を渡って中島、苅屋が以前は行っていたようだ。

 高い柱の先に藁を一杯つめたジョウゴ型の竹かごをゆわえて立て、松明を投げ上げて火をつける。このジョウゴ型の竹かごには250本の竹が使われるとの事。

 夜7時、愛宕神社において神事のあと、子供の長が特別大きな藁松明に灯明の火を点じ、火揚げ場の隅にある藁の束まで行き、その藁に点火する。

             
 愛宕神社の灯明の火を子供の長が大きな藁松明に移している

 参加している子供は6年生のようだ。

 火揚げ場のすみに置かれた藁の束に点火したあと子供達は暴れる。

 この火が点火用の火となるようだ。
 
 神事に来ていた魚吹八幡神社澤宮司と垣内村のMさんとお会いして、いろいろと教えて頂いた。  
                  
 子供が投げる小松明。 藁でできていると思っていたが、「おがら」でできているとの事。早速調べてみると、「おがら」とは麻の芯の部分のようで繊維としての強さを生かし昔から材料としているようだ。藁だと束ねても軽いので上にあがらない。この「おがら」でできた小松明を持ってみるとずしりと重い縄の部分を持って振り回す。子供が振り回し投げるには丁度いい重さだ。
 欠点は火が付きにくい事。子供会の役員さんが少し灯油を付けて子供に手渡している。

 ジョウゴ型の竹かごに入った藁と、最初に子供が点火用に使う藁は小麦藁との事。火が付きやすいのが特徴。火揚げ用に小麦を作っているとの事。

 「おがら」だが、7月15日に掲載した「魚吹八幡神社 千灯祭」の灯明の芯にも使われるようで、このあたりには無い為、栃木県から一緒に取り寄せているようだ。

 行事の伝承も難しいが、材料調達も大変のようだ。
             
 子供の投げた火が命中。今年はジョウゴに突き刺さった
 突き刺さった場合、束ねている縄が火で切れてジョウゴが下に落ちてしまう事が起こる可能性がある。そうなった場合大松明の下でまわっている子供達が危険である。
 突きささらないようにジョウゴを作る事を伝承する課題を残したようだ。

 ジョウゴに火が付くと、子供達は大松明の下をまわるようだ。    

             
 そろそろ終りというところで、大人の登場。
 大松明を倒して終了。
 ぶらっと立ち寄っただけだが、本で調べてもわからない事が発見できた。
 やはり現場に行くべきだ。実りある散歩だった。
 来年は大松明を立てるところから見学に行こう。

         

 


金刀比羅神社 夏祭り 奉納相撲大会

2008年08月10日 | 金刀比羅神社

  去年の10月17日に、「金刀比羅神社 土俵」というタイトルで奉納相撲大会については書いているので、詳しくはそちらを見てもらえばいいのだが、興浜の若い衆達が大好きな魚吹八幡神社秋祭りの原形である事をもう一度書いてみる。

 去年9月に姫路市文化財保護協会が発行している『文化財だより第59号』の中に『魚吹八幡神社秋季例祭風流』について次のように書いてある。

 『石清水八幡宮放生会の中心は雅楽と相撲でありましたが、魚吹八幡の祭礼は確実な記録で鎌倉時代の健治2年(1276)には相撲が主要な位置を占める祭礼が行なわれていたことが想定され、明治時代後半に至るまで祭礼において盛んに相撲が行なわれていました。現在は夏祭りのこども相撲として盛んに行なわれています。』

 上記の通り網干6ヶ村(興浜・浜田・新在家・余子浜・垣内・大江島)にはそれぞれ土俵があり、夏に奉納相撲大会が行なわれている。


大会前の魚吹八幡神社澤宮司による御祓い


取組みの合間に網干中学校相撲部による練習の披露

 午後8時に今年の夏祭りも無時終りました。


金刀比羅神社 夏祭り 宵宮

2008年08月09日 | 金刀比羅神社

  夜の帳がおりた7時すぎより9時ごろまで、盆踊りが行なわれる。
いつの頃から盆踊りがはじまったかはわからないが、段文音頭を調べる限りではこの金刀比羅神社ができた頃にはこの時期になると踊っていたようだ。

 各種団体がたこ焼き・ビール・かき氷などの模擬店を出しているのは、平成になった頃からの事である。

  

 踊るのは播州段文音頭が主である。段文(だんもん)と皆が言っているが、調べてみると浄瑠璃や歌舞伎の台本からの「段物(だんもの)」を唄うことにより段文音頭と名付けられた。
 現在我々が踊っている唄の文句は現代調の七・五調となり、演じ物も浄瑠璃より脱し郷土歴史を広く紹介する為、播州の史実にもとずく物語りを新作として発表しているようだ。
 主として姫路市の南部、西部・太子町・たつの市など西播地方で発達した。歌は民謡調で踊りも軽く浴衣がけで誰でも飛び入り歓迎。段文音頭の全盛期は田植えが終れば次々と太鼓の響かぬ村は無く踊り明かした。