興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

興浜丸亀藩陣屋跡と鶴松亭跡と黒田官兵衛 壱

2013年08月15日 | 丸亀藩興浜陣屋

 平成26年のNHK大河ドラマが「軍師官兵衛」に決まってから、“ひめじの官兵衛 見参”という事で姫路市にも黒田官兵衛ゆかりの地がたくさんあるという事で、姫路市もいろいろなパンフレットを作成しているようだ。

 網干区興浜にもゆかりの場所がある。

 姫路市網干区興浜1番地にある丸亀藩陣屋跡である。

 姫路市作成のパンフレットにはこのように書かれている。
 天正8年(1580)、羽柴秀吉から網干を含む揖東郡壱万石を与えられた官兵衛は、そのお礼にと秀吉を網干に招待。松が生い茂る揖保川河口の沖之浜洲の陣屋で大茶会を催したところ、秀吉の席の近くの大松に一羽の鶴が見事な巣をかけており、秀吉が陣屋の名を「鶴松亭」にするように命じたという。

タイトル写真の石碑は、昭和34年11月に建碑、昭和35年1月13日に除幕式を挙行した。

史蹟 豊太閤乃於茶屋鶴松亭跡

    併 丸亀藩京極家治所址

興浜の郷土史家故茨木利雄さんは、『播磨』でこのように書かれている。

羽柴秀吉公が姫路城に在住の際、領内を狩猟又は散策に出た時の一時的の休憩所を現姫路市網干区興浜字網干壱番地に置いて鶴松亭として命名して居った。

万治元年京極公が龍野から讃州丸亀に移封の際網干壱万石の領分を分割保有し彼の鶴松亭を治所として使用された。

『西讃府誌』:安政5年丸亀藩京極家編纂にはこのように書かれている。

豊臣公姫路ノ城ニ居玉フ時、別館ヲ此ニ建テ游観ノ処トス、庭中ニ古松一株アリ、鶴アリ巣ヲ其梢ニ作レリ、公是ヲ見玉ヒ此館ヲ名テ鶴松亭ト云ヘリ、我先公丸亀ニ移ラセ玉フニ及ンデ、此館ヲ治所トナシ玉フ、今アル処是ナリ・・・・

〔興ちゃんの読み仮名〕
とよとみこうひめじのしろにいたまうとき、べっかんをここにたてゆうかんのところとす、にわなかにこしょうひとかぶあり、つるありすをそのこずえにつくれり、こうこれをみたまいこのやかたをなづけてかくしょうていといえり、われせんこうまるがめにうつらせたまうにおよんで、このやかたをじしょとなしたまう、いまあるところこれなり・・・・

〔興ちゃんの説明文〕
豊臣秀吉公が姫路城に居られた時、別館をここに建てて遊び楽しんで見るところとした。庭の中に松の古株が一株あった。鶴がそのこずえに巣をつくった。豊臣秀吉公がこれを見てたいそう喜びこの館を「鶴松亭」と名付けた。万治元年京極高和公が龍野から丸亀へ移られる時、飛び地である網干一万石の陣屋をこの館跡に建てた。

時代背景から見てみると
天正10年(1582)    6月2日    本能寺の変。明智光秀により、織田信長が討たれる。49歳
天正17年(1589)    5月27日 淀殿、鶴松を出産
天正19年(1591)    8月5日    豊臣秀吉の長男鶴松死去。3歳

姫路市のパンフレットに書かれている天正8年が正しいのであれば、本能寺の変の2年前に秀吉はここ興浜に来られたようである。
秀吉公の長男が鶴松という名前なのが少し気になったので書いておく。