興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

大覚寺 三宝荒神会式

2008年06月28日 | 大覚寺

  姫路市網干区興浜にある鶴立山大覚寺で、毎年6月26日から28日までの3日間、ゆかた祭りがある。たくさんのお店が並びお参りに来る方でにぎやかである。

 江戸時代に寺領三十石を賜り朱印地として、「三葉葵」の紋所を許され、十万石の大名と同じ格式をもち、丸亀京極家の参勤交代の本陣であったという事を物語るように、北側の総門には「三葉葵」の幕が掛けられている。子供の頃はテレビで見ていた「水戸黄門」のマネとしか思っていなかったのは興ちゃんだけではないだろう。

 網干の人は、このまつりを「荒神(こうじん)さん」と呼んでいる。
大覚寺のホームページを見ると、「荒神会ゆかたまつり」とある。「こうしんかいゆかたまつり」と読んでしまい、ここ興浜にある25歳から45歳までが所属する自治会公認の団体「興伸会(こうしんかい)」と同じだと思い、中西住職に尋ねてみたところ、「こうしんえ」と読み、「会(え)」とは仏教でのおまつり行事を意味するのに使う用語であるとの事。
 このブログタイトルも「さんぽうこうじんえしき」となる。

 大覚寺の歴史は、前身の光接院が消失後【4月13日の「興ちゃんの歴史散歩2」の光接院の説明を参照】第七代住職である空鑒尭淳上人が、弘治年中(1555~58)(室町時代 川中島の戦いの頃)の時、興浜に移転して「鶴立山大覚寺」と改められた。

 それより前から荒神社だけはこの場所にあり、氏子は興浜・新在家・余子浜の三ケ町(今は垣内が入り四ケ町)であり、荒神社の管理は塔頭寺院の法華寺が行っていたといわれる。
 現在の所有・管理はこの四ケ町である事は、お供えを見ると理解できる。


所有・管理はこの四ケ町であるので、幕は「三葉葵」ではないのだろう




  覆屋に納められてお奉りされている荒神社の社殿


27日は網干6ケ村が毎年2ケ村ずつ交代制で盆踊りを行っている。
今年の当番は興浜と浜田。ともに昔丸亀藩であった。


大覚寺 檀信徒会館新築工事 その2

2008年06月14日 | 大覚寺

6月14日(土) 大覚寺に行ってみると檀信徒会館の棟が上がっていました。

棟上式は別の日に予定されているようです。

 
4月27日撮影 掘方・基礎栗石敷き均し・防湿シート設置完了状況

  
5月3日撮影 鉄筋組立完了状況

 大覚寺のホームページを開いて「大覚寺近景」の「檀信徒会館建設の歩み」の写真をぜひ見て頂きたいと思います。鐘楼がその水面に写ったところを見事にとらえた写真が掲載されています。

 5月12日にコンクリート打設を行い、仕上げ作業終了後すぐに基礎表面に水を張りました。次の日も水を張りました。型枠が10cm程高くなっているのでプールのような状態になっているわけです。

 工事中における一瞬の美を、ぜひ心に刻んでおきたいと思います。

「檀信徒会館建設の歩み」のページは、アップされたら以前の記録が残らない事に最近気づいたので、ここに記録しておきます。作業途中の写真も整理後増やして行く予定です。

 大覚寺のホームページへは右側にあるブックマークからどうぞ。
 
 なぜ、コンクリートの表面に水を張るのかと言うと、コンクリートは作業性を向上させる為、セメントが硬化するのに必要な分量の水以上の水を使い練り混ぜています。この為コンクリート打設完了後に乾燥する時に必要以上の水の分体積が減少します。これを乾燥収縮といいひび割れを発生するのです。
 コンクリートが硬化する際にもつ熱により乾燥収縮を引き起こしにくくする為に、特に暑い時期には表面に水を張り湿潤状態にしたり、コンクリートを練り混ぜる水を冷たくしたりするのです。


金刀比羅神社 その16

2008年06月10日 | 金刀比羅神社

 社殿修復記念碑

 本殿の西側に昭和41年に社殿を修復した事を記念した石碑がひっそりと建っています。

 それまでの桧皮葺き屋根を銅版に葺き替えたとあります。

 御鎮座110年に当たる年だったようです。

 安政7年は西暦1860年なので、110年後は1970年の昭和45年という事になります。御鎮座100年記念なら1960年の昭和40年という事でつじつまが合うのですが、刻印ミスでしょうか。


記念碑の後側向かって左側に網干町長をされた近藤彌五郎氏の玉垣があります。
氏は大正15年に77歳で亡くなられているので、明治時代の玉垣群でしょうか。