興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

変わりゆく興浜の風景 本町橋たもと 

2011年03月21日 | 興浜道普請

 網干区興浜の本町橋西詰めの風景が少し変わった。

 家屋が解体されたのはいいのだが、石積みが現れて1.8mの高低差ができた。

 ちと危ないので、少し盛り土をしてガードレールを設置した。

 アスファルト舗装もしたので、少し広く感じるようになったかもしれない。

 

 
 3月3日の工事前の風景

  
 左:3月3日  右:3月5日舗装とガードレールで安心な状態

  
 左:3月3日  右:3月5日舗装とガードレールで安心な状態

  
 左:3月3日盛土工事  右:同じ方向から3月5日の様子

 
 栄町(浦町)筋に降りて行く道路に取り付けてあるガードレールには、「昭和44年3月」のシールが貼り付けてある。
 このようにガードレールや標識には施工年月日のシールが貼り付けられている。
 43年前の、昭和43年度の年度末工事に建てられたガードレールである。

 ちょっと変わったところで、ガードレールの柱の打込み状況を動画でどうぞ。
 ガードレールの土中式の柱は地面からは70cmしか出ていないが、土中には1.4mも入っている。自動車がぶつかっても折れて自動車が落ちてしまう事はないのでご安心あれ。

  

 


道標 続編

2011年03月14日 | 興浜新聞

 

 誰が・いつ・どこから持って来たのか?

 興浜陣屋門資料館に置かれていた、道標を簡単にではあるが、モルタルで土台を造り建てた。

 元の場所がわかった時に、すぐに戻せるように工夫を凝らしたつもりである。

    
 建てる前の道標

                 
 左 ひめち゛ 右むろつ
 文政13年庚寅  世話人 嶋屋新兵衛
 ※文政13年(1830) 約180年前


祝開通 都市計画道路龍野線 網干大橋→津市場

2011年03月13日 | 興浜新聞

 平成22年度の年度末工事で網干の街の道路は一変している。

 タイトル写真は、都市計画道路龍野線の網干大橋から津市場にかけての開通風景である。

 3月10日(木)パトカーと白バイクが先導して11時23分に垣内の交差点を通過した。

  
 3月10日開通前 左写真:天満線 右写真:揖保川線 

  
  3月10日開通前 龍野線と天満・揖保川線の交差点より 左写真:南を 右写真:北を

  

  
 3月5日開通前急ピッチで進んでいた工事風景 信号の設置 


あぼしまちなか歩きより 興浜水井家

2011年03月04日 | 興浜新聞

 「あぼしまちなか歩き」のイベントも終盤を迎えてしまったようだ。

 記事の投稿を約束していたので、急遽作成してみた。

 これから調べなければいけない事も多いが、とりあえず「まちなか歩き」の参考にして頂ければと考えます。

 2年前に”あぼしまち交流館”が完成し、ボランティアガイドの加嶋さんからひとつの依頼があった。余子浜の加藤さんが作成したA4版の水井家の説明書以外にもう少し説明できるものが無いかの事であった。

 現在の当主である、水井順一氏に連絡をとり聴き取りをさせて頂いた。

 今回、加藤さんの説明文と共に「まちなか歩き」の一助になればと紹介する。

 水井順一氏が現在の当主であると書いたが、この建物はこのたび姫路市の建物になったようだ。


水井家住宅(平成21年春、興ちゃん聴き取り)
 ここ水井家の現在の当主である水井順一氏は3代目で1代目が市之助、2代目が薫(ただす)である。
 水井家の本家は御津町中島にあり、市之助がここ興浜に出てきて材木問屋を営んだようである。
 材木問屋を営んだのは市之助1代限りであったようだ。
 興浜の金刀比羅神社境内において大正7年に下段敷石を敷いた時の周旋人のひとりに水井市之助の名前がある事からこの頃活躍されていたという事が推測できる。写真①
 揖保川上流の宍粟郡山崎町から切り出された材木は、筏に乗せて運ばれて一旦本町橋南側に係留仮置きされ船で大阪方面に運ばれたようだ。
 ※中島にある善徳寺等をこれから調べる。とメモ書きが有る。

加藤さんの説明書より
 仕事柄よりすぐりの材木を使って建てられた家は、水井家2代目の董(ただす)氏が大正11年(1922)に建てたとされています。職業は材木問屋でしたので、揖保川上流の宍粟郡山崎町から伐り出した木材を河口で集材し、気に入った材を使って建てられていて、また大工としての腕も奮って建てられた家です。土蔵は大正3年(1914)に建てられました。
 主屋は間口8.5間奥行5.5間の本2階建てと、東端に間口1.5間奥行4.3間、西端に間口2.5間奥行3間の平屋建てから成っています。主屋前は高い板塀と前庭で、土蔵は間口2間奥行2.5間で板塀の右端に位置する前蔵で、門は板塀の左端になっています。写真④
 主屋の屋根は入母屋造桟瓦葺き、外壁は黒漆喰塗り板壁張りで、玄関まわりの板壁は赤いベンガラ塗りになって正面を強調しています。写真②
 内部は2列4間取りで、玄関の裏手は2階小屋裏まで高く吹抜けて太さの揃った牛梁が縦横に5本掛かって、材木揃えの贅を現しています。写真③
 建物の特徴としては、大正の建築らしく建ちが高いことが挙げられます。材木問屋として、値打ちのある長材を入手できたことで可能となったと言えます。

  
 写真①
 金刀比羅神社境内にある、下段敷石寄進の石碑
 大正7年4月 周旋人の中に水井市之助氏の名前が有る

   
 写真②

 
 写真③

  
 写真④

 
 興ちゃんは何と言っても精巧に積まれた基礎の石積みがお気に入りである。


消えた道標(みちしるべ)

2011年03月01日 | 興浜新聞

 2月26日(土)より、網干まちなか歩きのイベントが始まった。

 少し暖かかくなり、あぼしまち交流館を中心に26日(土)と27日(日)だけでも大勢の人出だったようだ。

 興ちゃんは、NPOあぼしまちコミニュケーションのあぼしまち観光ボランティアガイドであるが、ほとんどその仕事をしていない。

 そのお詫びも含めて2,3記事を書いてみようと考えている。

 今回の記事は、まちなか歩きとはあまり関係ない。

 2月26日(土)興ちゃんは仕事中であった。陣屋門資料館でボランティアガイドをしていた興浜祭典委員長の辻さんから電話が入った。
 「折れた道標が陣屋門にある。浪花堂の前に建っていた道標と違うか?」という内容であった。

 浪花堂の前に建っていた道標は2年程前の道路工事の時に、境橋のところに移設されていたように思ったのだが、どうやらその道標が陣屋門にあるとの事。

 結局、26日は仕事で陣屋門に行く事ができず、27日(日)の夕方4時に陣屋門に行った時はボランティアガイドの方も居られず、閉門された状態であった。

 結論:浪花堂前の道標は、境橋の横に移設されていて勘違いのようである。
     陣屋門前にある道標はいつ・誰が・どこから持って来たのか。

  
  道標があった浪花堂東側(中野さん宅前)   境橋に移設された道標

  

  
 陣屋門資料館にある道標 
 「右むろつ」は読めるが、もう一面は建立した年号と世話人の名前のようである。
 ”三”と”庚寅”(かのえとら)の文字が見えるので、庚寅歳を調べてみると、天保元年(1830)が庚寅歳であるが、改元されたのが12月10日なので、ほとんど文政13年である。このあたりで正解となるか、もう少し調べる余地はありそうだ。
 世話人は屋号が読めないが新兵衛さんのようだ。

 ブログに書けば、どこにあった道標かは情報が入るであろう。

 収穫がありました。祭典委員長に感謝です。