興浜に鎮座する金刀比羅神社は安政七年(1860)四月八日に勧請されたと、魚吹八幡神社が氏子の神社を明治時代から記録している神社明細帳にある。
本殿に祀られている御神体は倉稲魂命・(事代主命・大國主命)・猿田彦命・大己貴命・菅原道真・(日本武尊・天照皇大神)が鏡で、恵比寿・大黒が木像である。いずれも金刀比羅神社西側の元丸亀藩陣屋跡に建つ陣屋門資料館に写真があります。
本殿は桁行三尺五寸、梁行三尺。幣殿と拝殿は一体型でいずれも桁行二間、梁行一間半となっている。
寛永十三年(1636)より万治元年(1658)までは興浜は龍野藩京極家の領有であった。万治元年(1658)に京極家は丸亀に移封されたが、二十八ケ村は一万石の領地としてここ興浜に陣屋を置き、明治の初めまで統括した。
陣屋内の御社地に讃岐金刀比羅宮を祀っていたが安政六年(1859)に現地に移された。境内に入ってすぐ西側の常夜燈に『(三月十一日)・(文政七甲申天)・(天照皇大神宮・佐々木大神宮)』東側の常夜燈に『(天保十四年癸卯九月)・(八幡大神宮)』の文字が有る。この常夜燈弐基が陣屋内にあったものだろう。『佐々木大神宮』は京極家始祖の京極高次が近江佐々木氏一族であった為であろう。
網干町史に『金刀比羅祭 三月十日 金刀比羅神社が陣屋の中から現地に移されたのは、幕末の安政七年であるから、この祭が盛んに行われたのは新しいことである。夏と秋にも祭はあるが、春が最も盛んである。』とある。しかし西側の常夜燈に『(文政七年)・(三月十一日)』の文字がある事から、安政七年より35年前から陣屋内にて春祭りがあった証ではないだろうか。
大正三年より同六年までに村人総出で現在のように本殿部分を高くして再建された。
村の神社にしては数多い玉垣がある。又、幾度も改築とされている。
これから、この神社の歴史を手掘りで調べていこうと思います。
サブタイトルの『手堀り郷土史』は僕が尊敬する司馬遼太郎の『手掘り日本史』より拝借しました。