興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

網干新在家産業遺産を訪ねて 塩社〔旧専売公社跡・現東京電機〕(旧赤穂塩務局網干出張所) 

2014年05月11日 | 網干公民館歴史ウォーク

当日参加者の方に配布した資料には下記のように書いた。
②塩社〔旧専売公社跡・現東京電機〕(旧赤穂塩務局網干出張所)  
現在は東京電機工業(株)の社屋として使われている建物は、赤穂塩務局網干出張所として明治後期に建てられたものである。設計は大蔵省営繕課。建物の築年については資料が乏しく詳細は不明であるが、明治38年の塩の専売化に伴って全国の主要な塩産地に塩務局が設置されて行った時期の物と思われる。近代製塩技術の発達によって姿を消してしまった網干の塩田の歴史として、唯一当時の名残を示す建物である。


もう少し調べてみようと頑張りましたが、なかなか塩社の事が書かれたものが無いのが残念である。
『網干町史』と『揖保郡誌』に書かれている部分を掲載させて頂く。


『網干町史』より
明治21年網干製塩商社を設け大に改良を計った。
と書かれてある程度であるが、それより古い『揖保郡誌』にはもう少し詳しく書かれた部分がある。

『揖保郡誌』より
大阪地方専売局網干派出所

大阪専売局網干派出所は網干町新在家の中央南浜手に位置し明治38年赤穂塩務局網干出張所を設けた。主として網干浜に於ける塩田を所管して事務を取締まっていたが明治40年10月変革されて専売局赤穂収納所の出張所に属した。明治42年12月赤穂収納所は合併されて赤穂専売支局となる。次いで大正2年6月官制の改正となって神戸専売支局に属するに至りしも大正11年またも官制の改正を見て大阪地方専売局の出張所と改称され大正13年12月出張所は派出所に変更されて大阪地方専売局網干派出所と称へ揖保郡一円を所管し、塩売捌区域(しおうりさばくくいき)は揖保宍粟両郡に亘り塩収納販売及び専売取締を行って極めて成績を揚げている。


 
東京電機工業株式会社のホームページによると、同社がここ新在家355-2に本店を大江島から移転したのが昭和37年2月24日とあり、「大きな楠に囲まれ、夏場もクーラー無しで過ごしています。」と書かれてある。

  
 大蔵省と書かれた境界杭

 

 
 裏側にある建物は塩の貯蔵庫であったのであろう。
                                                  つづく


網干新在家産業遺産を訪ねて ダイセル異人館

2014年05月08日 | 網干公民館歴史ウォーク

①ダイセル異人館
ダイセル網干工場は、日本セルロイド人造絹糸(株)として明治41年に設立。
ダイセル外国人住宅は、明治41年に創設された時に技術指導を担当した外国人技師の住宅として建てられた。
以下『姫路市史』によると、
揖保川の豊富な工業用水が得られる網干の臨海部は、明治以降工業地帯として開発されて行った。中でも明治42年に操業を開始した日本セルロイド人造絹糸は網干地区最大の工場として地元の経済発展に大きく寄与した。現在のダイセル化学工業網干工場(日本セルロイド人造絹糸の後身)の広大な敷地の一角には工場創設時に建てられた2棟の洋館が残されている。

明治期に創業した他の近代産業と同様、日本セルロイドは工場開設に際してヨーロッパから数人の技師を招いて技術指導にあたらせた。これら技師達の宿舎として建てられたのがこの建物である。当時数棟が建てられたと思われるが、その内の2棟が現存してる。今回は現在同社の資料館として使われているこちらの建物を紹介する。
下の写真にある説明板に拠れば「・・・19世紀のイギリスのコテージに類似している建物で、コロニアルスタイルと共通点がある・・・」との事である。軒を深く取り通風に配慮した亜熱帯地域に多く見られるベランダコロニアル風の建物である。大阪の通天閣や同社の工場も手掛けた設楽貞雄が設計している。
外国人技師住宅は現在4棟残っており、そのうちの2棟が平成元年に姫路市都市景観重要建築物に指定されている。



 

  

 

  

  

  


日曜日であったが、同社総務部2名の方に案内して頂き、内部見学させてもらった。
タイトル写真の黒いキューピーさんも内部に展示されている。
日本に数体しかない貴重な物であるようであるが、何故黒いキューピーなのか聞き忘れていた。

 

 

 

   

  

  

つづく


網干新在家産業遺産を訪ねて

2014年05月04日 | 網干公民館歴史ウォーク

去る4月13日(日)に行われた、網干公民館歴史ウォーク「網干新在家産業遺産を訪ねて(新在家編)」を掲載していく予定です。

ちょうど今、富岡製糸場と絹産業遺産群が世界歴史遺産に登録される予定で沸き立っていますが、ここ網干にも明治時代以降日本を近代化に導いた産業遺産がたくさん残っています。

読売新聞に今回のウォークの予定が掲載された事もあり100名近くの参加者があり大盛況でしたが、皆さんに十分な説明ができなかった事が残念でありました。

網干公民館の講座のひとつの「古文書学習会」のメンバーが説明を担当していきました。

今日は当日配布しましたA4サイズ2枚の説明文を掲載して終わりますが、それぞれの場所を写真を交えて興ちゃん風の説明を補足していく予定です。

  
  

つづく