興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

武神祭 その11 昭和53年当番町興  四

2012年05月29日 | 魚吹八幡神社

 興浜が前回当番であった平成13年度の武神祭は無常の雨の為、献納行列は中止され場所を網干西小学校体育館に移しての献納行列披露と相成った。

 タイトル写真は、昭和53年の時の金刀比羅神社での出立ち前の風景である。

 興ちゃんその時中学2年生。大覚寺南側の関町に住んでいた。その関町の献納行列が赤穂四十七士の義士行列であったと覚えている。

 その行列に父が参加していた。赤穂義士が好きな父は近松勘六役であった。近松勘六34歳、赤穂藩馬廻役250石取。

 

 
 流し太鼓の衣装が自前の着物であったのがこの時かその前くらいから村持ちの着物に変わった。
現在調査中。

つづく


武神祭 その10 昭和53年当番町興  参

2012年05月22日 | 魚吹八幡神社

 タイトル写真は、興ちゃん登場である。

 三木毅俊氏からアルバムを預かって目を通していて驚いた。自分がオドケテ写っていた。それも2枚。

 隣に写っているのがお隣に住んでいたヒトツ年上の今栄清志の兄ちゃんなので間違い無い。

 自分のアルバムには無い自分の写真に35年ぶりの再会に感謝。

 中学生は体育の服装で統一されていたが、腕章を見たら、現在「水掛係」と「電線係」であったが、この当時は「水掛係」が「給水係」であったようだ。檀尻横に付いた水槽に前もって役員さんがお願いされていた家からバケツで水をもらい給水するのが中学生の仕事のひとつであった。

 

つづく


武神祭 その9 昭和53年当番町興  弐

2012年05月13日 | 魚吹八幡神社

 上のタイトル写真は、三木毅俊氏より提供して頂いた写真である。

 武神祭での一連の行事が終了し、檀尻が帰路につく魚吹八幡神社参道前の写真であるが、この写真の右上の部分を注目してもらいたい。

 楼門の部分に足場が組まれているのがわかるだろうか。

 この年の秋に行われる1650年秋季大祭に間に合うように楼門の改修工事中である。

 魚吹八幡神社楼門
 構造形式:三間一戸楼門 本瓦葺き
 建築年代:鬼瓦と丸瓦銘によって、貞享三年(1868)であることが確認できる。 『姫路市史 第15巻下』より

 万治元年(1658)5月2日に京極高和、網干興浜村に郡代・奉行を置く。
 万治元年(1658)5月3日に京極高和、播州龍野を出発し網干より乗船する。『旧丸亀藩事蹟』より

 京極高和が、龍野藩より丸亀藩に移り、飛び地である興浜に陣屋を置いてから10年後の建築である事がわかる。

つづく 


武神祭 その8 昭和53年当番町興  壱

2012年05月08日 | 魚吹八幡神社

 今から34年前の昭和53年(1978)4月5日(水)の興浜当番の武神祭での目録・請書類の書類はタイトル写真の目録のみしか残っていない。

 34年前という事で参加したり記憶に残っている方も多いのではないだろうか。

 小生興(こう)ちゃんは中学2年に進級する春休みであった。

 前梃子をされた赤鬼の上村博保氏はすでに亡くなられたが、興浜の祭り関係者は誰一人忘れていない偉人のひとりであり、青鬼の三木毅俊氏は興浜前梃子会会長として後輩である我々を温かく見守っていてくれている。

 昭和53年の写真は青鬼である三木毅俊氏からの提供である。ありがとうございます。

 
 元締さんの左側は当時の祭典委員長であった関町の田宮さんだ。

 
 前梃子の横綱がカッコイイ!添梃子のマワシの上に巻いたものが面白い!

 

 
 バックは魚吹八幡神社の土塀である事からして楼門前へのラストスパート。

つづく


武神祭 その7 昭和32年当番町興  弐

2012年05月01日 | 魚吹八幡神社

 昭和32年の武神祭の写真を手に入れる事ができた。

 興浜金刀比羅神社での檀尻出立ちの写真だ。

 注目すべき点は、モノクロなので特定できないが前梃子と梃子衆は赤色と青色の肌着を着用している事と、曳き子はその当時の秋祭りでも着用していた白色のシャツを着用している事だ。

 前梃子の梃子棒が鬼の金棒のようになっているように見えるのだが気のせいだろうか。

 元締・前梃子が誰であるかは今のところ解らないが、これから情報が入ってくる事を期待する。

 元締の方の衣装も少し変わっている。

 
 金刀比羅神社境内の上から出発する様子であろう。

 
 金刀比羅神社鳥居前。右側に見える掲示板の右側は現在の丸山洋品店でこの当時は山本家の前栽(せんざい)であった。

 
 金刀比羅神社の檀尻出立ち前の檀尻上での演芸風景。
 この写真で注目すべき点は、後方に写っている金刀比羅神社拝殿の屋根である。
 檀尻上での演者と金刀比羅神社の屋根が写るという事は金刀比羅神社での出立ちの演芸は檀尻が北を向き金刀比羅神社に向かって演芸を行っていたという事だろうか。
 当たり前と言えば当たり前の事ではあるが、昔の方は筋が通っている。

つづく