興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

興浜丸亀藩陣屋跡と鶴松亭跡と黒田官兵衛 弐

2014年02月09日 | 丸亀藩興浜陣屋

黒田官兵衛と興浜の鶴松亭について前回書いてみたが、茨木利雄さんが『播磨』の中に他にも書かれてあるのを発見したので紹介する。

故茨木利雄さんは官兵衛というより豊臣秀吉と鶴松亭について気になっていたのであろうと思われる。

前回のブログにはこう書いた。
興浜の郷土史家故茨木利雄さんは、『播磨』でこのように書かれている。

羽柴秀吉公が姫路城に在住の際、領内を狩猟又は散策に出た時の一時的の休憩所を現姫路市網干区興浜字網干壱番地に置いて鶴松亭として命名して居った。

万治元年京極公が龍野から讃州丸亀に移封の際網干壱万石の領分を分割保有し彼の鶴松亭を治所として使用された。

今回『播磨』に掲載した郷土雑話に同じような内容であるが、ちょっと表現が違う部分を発見。

『播磨』の中に掲載された、郷土雑話6より(一部抜粋)
 治所はその昔豊臣秀吉公が姫路在城の際領内巡視の時の休憩所として建設しておった別館(後に鶴松亭と名命)を使用したので、その他の附属建物米倉、お成門等は、必要に応じて新築増設したので、京極侯が参勤交代の往復の中継所であったので、今尚その一部の建物が大破して見る影もないが残っている。

『播磨』の中に掲載された、郷土雑話13より(一部抜粋)
豊臣秀吉が姫路城主であった時に地方へ鷹狩に出た場合休憩する為め別館を網干の興浜に建てた後に秀吉が境内の松の木に鶴のとまっておるのを見て自ら鶴松亭と命名した。今山岡壮八の書いた小説「徳川家康」に茶々姫と秀吉との間に出来た子を鶴松丸と名づけたと書いてあったが一脈通ずるように思う、別館に後年京極侯が龍野から四国の丸亀へお国替となった時此処に治所を置いて網干壱万石の領地を支配した。

(後に鶴松亭と名命)いう部分が気になったが、深く考える事はないかな。


興浜丸亀藩陣屋跡と鶴松亭跡と黒田官兵衛 壱

2013年08月15日 | 丸亀藩興浜陣屋

 平成26年のNHK大河ドラマが「軍師官兵衛」に決まってから、“ひめじの官兵衛 見参”という事で姫路市にも黒田官兵衛ゆかりの地がたくさんあるという事で、姫路市もいろいろなパンフレットを作成しているようだ。

 網干区興浜にもゆかりの場所がある。

 姫路市網干区興浜1番地にある丸亀藩陣屋跡である。

 姫路市作成のパンフレットにはこのように書かれている。
 天正8年(1580)、羽柴秀吉から網干を含む揖東郡壱万石を与えられた官兵衛は、そのお礼にと秀吉を網干に招待。松が生い茂る揖保川河口の沖之浜洲の陣屋で大茶会を催したところ、秀吉の席の近くの大松に一羽の鶴が見事な巣をかけており、秀吉が陣屋の名を「鶴松亭」にするように命じたという。

タイトル写真の石碑は、昭和34年11月に建碑、昭和35年1月13日に除幕式を挙行した。

史蹟 豊太閤乃於茶屋鶴松亭跡

    併 丸亀藩京極家治所址

興浜の郷土史家故茨木利雄さんは、『播磨』でこのように書かれている。

羽柴秀吉公が姫路城に在住の際、領内を狩猟又は散策に出た時の一時的の休憩所を現姫路市網干区興浜字網干壱番地に置いて鶴松亭として命名して居った。

万治元年京極公が龍野から讃州丸亀に移封の際網干壱万石の領分を分割保有し彼の鶴松亭を治所として使用された。

『西讃府誌』:安政5年丸亀藩京極家編纂にはこのように書かれている。

豊臣公姫路ノ城ニ居玉フ時、別館ヲ此ニ建テ游観ノ処トス、庭中ニ古松一株アリ、鶴アリ巣ヲ其梢ニ作レリ、公是ヲ見玉ヒ此館ヲ名テ鶴松亭ト云ヘリ、我先公丸亀ニ移ラセ玉フニ及ンデ、此館ヲ治所トナシ玉フ、今アル処是ナリ・・・・

〔興ちゃんの読み仮名〕
とよとみこうひめじのしろにいたまうとき、べっかんをここにたてゆうかんのところとす、にわなかにこしょうひとかぶあり、つるありすをそのこずえにつくれり、こうこれをみたまいこのやかたをなづけてかくしょうていといえり、われせんこうまるがめにうつらせたまうにおよんで、このやかたをじしょとなしたまう、いまあるところこれなり・・・・

〔興ちゃんの説明文〕
豊臣秀吉公が姫路城に居られた時、別館をここに建てて遊び楽しんで見るところとした。庭の中に松の古株が一株あった。鶴がそのこずえに巣をつくった。豊臣秀吉公がこれを見てたいそう喜びこの館を「鶴松亭」と名付けた。万治元年京極高和公が龍野から丸亀へ移られる時、飛び地である網干一万石の陣屋をこの館跡に建てた。

時代背景から見てみると
天正10年(1582)    6月2日    本能寺の変。明智光秀により、織田信長が討たれる。49歳
天正17年(1589)    5月27日 淀殿、鶴松を出産
天正19年(1591)    8月5日    豊臣秀吉の長男鶴松死去。3歳

姫路市のパンフレットに書かれている天正8年が正しいのであれば、本能寺の変の2年前に秀吉はここ興浜に来られたようである。
秀吉公の長男が鶴松という名前なのが少し気になったので書いておく。


市制百年記念町名選定碑

2008年07月06日 | 丸亀藩興浜陣屋

 

 姫路市網干区興浜の丸亀藩陣屋跡にこの石碑がある。

 表側の石碑の内容は、現在の垣内の中に点在していた、興浜・新在家・余子浜の3ケ村の小字が垣内自治会の中に入ったということだ。

 昭和50年代 網干区の大字に「垣内」が誕生
 昭和63年   垣内一帯に入り込んでいた、各の宅地を総括し「垣内」とする
               事に至る
 平成元年   姫路市より地名許可となり石碑の建立

 小字のふりかなは、田中早春先生の『姫路市小字地名・小字図集』を参考にした。

 石碑の中に喉ケ瀬と頓樋が旧余子浜字となっているが、田中先生の本では旧新在家字となっている。


姫路市網干土地区画整理組合作製 『網干区の字限図』より
      


興浜歴史資料館 Vol.2

2008年01月09日 | 丸亀藩興浜陣屋

  丸亀藩 網干陣屋門 (興浜歴史資料館) 2


テープカットをされる、当時自治会長の小野さん(中央)
副会長の今栄さん(左)と加藤さん(右)

 平成14年2月10日に行なわれました、興浜歴史資料館の資料館としての、オープンセレモニーの写真が出できたので、公開します。

 確か約1年前から自治会役員の方々で準備されていたのを、お手伝いさせていただきました。

 オープンセレモニー当日の、テープカットの準備もさせていただき楽しかった事を覚えています。

 


『興浜歴史資料館』の看板を掛ける、古西さん


楽しそうに、鏡割りをされる、小野会長(中央)
前自治会長の今栄さん(左)と長澤さん(右)


興浜歴史資料館 Vol.1

2008年01月07日 | 丸亀藩興浜陣屋

 丸亀藩 網干陣屋門 (興浜歴史資料館) 1


南側道路の姫路市道網干1号線より


陣屋門の後ろ、写真右側が新しい興浜檀尻庫

  ここ興浜には、旧讃岐・丸亀藩の飛び地領当時の名残をとどめる陣屋門がある。龍野藩主京極高和が明暦3年(1657)、丸亀藩移封の後、揖保郡28ケ村などを治めるために設けられた『網干陣屋』の正門にあたり、推定建築年代は寛文年間(1661~1672年)。陣屋が明治3年の廃藩置県で取り壊された後も、興浜村の檀尻庫として生き残っていた。

 現在の陣屋門は昭和61年5月29日に修理復元される事が決定し、その年に解体復元され、昭和62年3月3日に完成式を行った。復元後、内部をミニ資料館、周辺を史跡公園として整備された。復元された陣屋門は間口5間半(10.3m)、奥行き2間余(4m)。ヒノキ、杉、ケヤキをを組み合わせ、白漆喰の外壁には、焼き杉の腰板を張りめぐらしている。京極家の角四ツ目門入りの丸瓦、鬼瓦など屋敷瓦すべてを淡路瓦の特産地西淡町(三原郡)に特別注文して新調した。

 内部はたたき土間、一部が武者窓付き板間になっている。旧陣屋門に使われていた京極家の角四ツ目門入り瓦や興浜に現在も居住する京極家家臣の子孫から提供をうけた品々を展示している。

 


『鶴松亭』の記念碑

 陣屋門は当初、旧揖保川舟付き場付近に西向きに建築されていたが、明治3年以降に東に40~50mの現在地に移築された際、東向きとなっていた。今回さらに道路に面するように南向きに変えられた。公園内にあった豊臣秀吉姫路在城当時の別荘『鶴松亭』の記念碑も陣屋門正面東に移設された。完成式には丸亀市長、京極家39代目当主の京極高晴さんも来られた。

 正徳元年(1711)丸亀藩領郡村高辻帳(村明細帳)によると、興浜村の家数175・人数800。嘉永元年(1848)丸亀藩の「西讃府志」によると家数311・人数1,235であった。

 


平成6年11月の古い説明版


平成19年12月新しくなった説明版

 
陣屋の外郭を現在の地図に合わせているので、わかりやすい

 陣屋門資料館の内部については、春の公開の後くわしくお知らせします。