興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

道標 続編

2011年03月14日 | 興浜新聞

 

 誰が・いつ・どこから持って来たのか?

 興浜陣屋門資料館に置かれていた、道標を簡単にではあるが、モルタルで土台を造り建てた。

 元の場所がわかった時に、すぐに戻せるように工夫を凝らしたつもりである。

    
 建てる前の道標

                 
 左 ひめち゛ 右むろつ
 文政13年庚寅  世話人 嶋屋新兵衛
 ※文政13年(1830) 約180年前


祝開通 都市計画道路龍野線 網干大橋→津市場

2011年03月13日 | 興浜新聞

 平成22年度の年度末工事で網干の街の道路は一変している。

 タイトル写真は、都市計画道路龍野線の網干大橋から津市場にかけての開通風景である。

 3月10日(木)パトカーと白バイクが先導して11時23分に垣内の交差点を通過した。

  
 3月10日開通前 左写真:天満線 右写真:揖保川線 

  
  3月10日開通前 龍野線と天満・揖保川線の交差点より 左写真:南を 右写真:北を

  

  
 3月5日開通前急ピッチで進んでいた工事風景 信号の設置 


あぼしまちなか歩きより 興浜水井家

2011年03月04日 | 興浜新聞

 「あぼしまちなか歩き」のイベントも終盤を迎えてしまったようだ。

 記事の投稿を約束していたので、急遽作成してみた。

 これから調べなければいけない事も多いが、とりあえず「まちなか歩き」の参考にして頂ければと考えます。

 2年前に”あぼしまち交流館”が完成し、ボランティアガイドの加嶋さんからひとつの依頼があった。余子浜の加藤さんが作成したA4版の水井家の説明書以外にもう少し説明できるものが無いかの事であった。

 現在の当主である、水井順一氏に連絡をとり聴き取りをさせて頂いた。

 今回、加藤さんの説明文と共に「まちなか歩き」の一助になればと紹介する。

 水井順一氏が現在の当主であると書いたが、この建物はこのたび姫路市の建物になったようだ。


水井家住宅(平成21年春、興ちゃん聴き取り)
 ここ水井家の現在の当主である水井順一氏は3代目で1代目が市之助、2代目が薫(ただす)である。
 水井家の本家は御津町中島にあり、市之助がここ興浜に出てきて材木問屋を営んだようである。
 材木問屋を営んだのは市之助1代限りであったようだ。
 興浜の金刀比羅神社境内において大正7年に下段敷石を敷いた時の周旋人のひとりに水井市之助の名前がある事からこの頃活躍されていたという事が推測できる。写真①
 揖保川上流の宍粟郡山崎町から切り出された材木は、筏に乗せて運ばれて一旦本町橋南側に係留仮置きされ船で大阪方面に運ばれたようだ。
 ※中島にある善徳寺等をこれから調べる。とメモ書きが有る。

加藤さんの説明書より
 仕事柄よりすぐりの材木を使って建てられた家は、水井家2代目の董(ただす)氏が大正11年(1922)に建てたとされています。職業は材木問屋でしたので、揖保川上流の宍粟郡山崎町から伐り出した木材を河口で集材し、気に入った材を使って建てられていて、また大工としての腕も奮って建てられた家です。土蔵は大正3年(1914)に建てられました。
 主屋は間口8.5間奥行5.5間の本2階建てと、東端に間口1.5間奥行4.3間、西端に間口2.5間奥行3間の平屋建てから成っています。主屋前は高い板塀と前庭で、土蔵は間口2間奥行2.5間で板塀の右端に位置する前蔵で、門は板塀の左端になっています。写真④
 主屋の屋根は入母屋造桟瓦葺き、外壁は黒漆喰塗り板壁張りで、玄関まわりの板壁は赤いベンガラ塗りになって正面を強調しています。写真②
 内部は2列4間取りで、玄関の裏手は2階小屋裏まで高く吹抜けて太さの揃った牛梁が縦横に5本掛かって、材木揃えの贅を現しています。写真③
 建物の特徴としては、大正の建築らしく建ちが高いことが挙げられます。材木問屋として、値打ちのある長材を入手できたことで可能となったと言えます。

  
 写真①
 金刀比羅神社境内にある、下段敷石寄進の石碑
 大正7年4月 周旋人の中に水井市之助氏の名前が有る

   
 写真②

 
 写真③

  
 写真④

 
 興ちゃんは何と言っても精巧に積まれた基礎の石積みがお気に入りである。


消えた道標(みちしるべ)

2011年03月01日 | 興浜新聞

 2月26日(土)より、網干まちなか歩きのイベントが始まった。

 少し暖かかくなり、あぼしまち交流館を中心に26日(土)と27日(日)だけでも大勢の人出だったようだ。

 興ちゃんは、NPOあぼしまちコミニュケーションのあぼしまち観光ボランティアガイドであるが、ほとんどその仕事をしていない。

 そのお詫びも含めて2,3記事を書いてみようと考えている。

 今回の記事は、まちなか歩きとはあまり関係ない。

 2月26日(土)興ちゃんは仕事中であった。陣屋門資料館でボランティアガイドをしていた興浜祭典委員長の辻さんから電話が入った。
 「折れた道標が陣屋門にある。浪花堂の前に建っていた道標と違うか?」という内容であった。

 浪花堂の前に建っていた道標は2年程前の道路工事の時に、境橋のところに移設されていたように思ったのだが、どうやらその道標が陣屋門にあるとの事。

 結局、26日は仕事で陣屋門に行く事ができず、27日(日)の夕方4時に陣屋門に行った時はボランティアガイドの方も居られず、閉門された状態であった。

 結論:浪花堂前の道標は、境橋の横に移設されていて勘違いのようである。
     陣屋門前にある道標はいつ・誰が・どこから持って来たのか。

  
  道標があった浪花堂東側(中野さん宅前)   境橋に移設された道標

  

  
 陣屋門資料館にある道標 
 「右むろつ」は読めるが、もう一面は建立した年号と世話人の名前のようである。
 ”三”と”庚寅”(かのえとら)の文字が見えるので、庚寅歳を調べてみると、天保元年(1830)が庚寅歳であるが、改元されたのが12月10日なので、ほとんど文政13年である。このあたりで正解となるか、もう少し調べる余地はありそうだ。
 世話人は屋号が読めないが新兵衛さんのようだ。

 ブログに書けば、どこにあった道標かは情報が入るであろう。

 収穫がありました。祭典委員長に感謝です。


あぼしまち交流館 オープン

2009年02月14日 | 興浜新聞

    

 仕事が終わってからあぼしまち交流館のオープニングイベントに駆けつけたが、時既に遅く終了していた。

 興浜が誇る三大画家である小野周文、その息子の素文、周文の弟子である加藤周山の絵が展示されているので見せて頂いた。

 この三人については興ちゃん流に調べている途中である。
加藤周山の長男で「NPO法人あぼしまちコミニュケーション」の理事長であり現興浜自治会長である加藤順弘からの聴き取り中で今日も案内して頂いた。

 タイトル写真の武者絵は左が小野周文のもので、それを弟子である周山が模写したものだ。順弘氏はその時の事をよく覚えておられるようで、岩絵の具で書かれた絵は迫力満点だ。


素文は達磨絵が得意だったとの事。

  
  竣工式は魚吹八幡神社から澤宮司と浦上権禰宜がお祓いに。

  
 石見市長、松下電器(現在のパナソニック)の元社長の
森下洋一さんをはじめたくさんの方がお祝いに来られたようだ。

 写真はスタッフの方から提供して頂いた。  


花まつり

2008年05月05日 | 興浜新聞

花まつり

 毎年5月5日は、ここ姫路市網干地区では、網干連合子供会と網干西連合子供会の行事として、花まつりの象曳き』が行なわれる。

 網干仏教会の方々が托鉢をされたお金を、網干の各連合子供会が頂いてこの行事を行う事になっている。

 本来ならば、お釈迦様の誕生日である4月8日に行うべきものであるが、ここ網干地区はこの時期に各地区で氏神様の春祭りがある事から、子供の日にあたる5月5日に行う事になったと、子供会の役員をした時に網干仏教会の方からお聞きした。

 『象曳き』は、朝8時に興浜子供会が大覚寺を出発。興浜をまわって浜田子供会にバトンタッチ。そのあと垣内子供会→余子浜子供会→大江島子供会→新在家子供会の順番でまわり大覚寺に帰ってくる。

 興浜子供会に関しては、象を浜田子供会にバトンタッチしたあと、大覚寺の本堂で、中西住職のお話を聞いた後、花御堂の中に安置された小さなお釈迦様の誕生仏に甘茶を浴びせかけたあと、柏餅を二つもらって解散となる。

 子供会の歴史にふれてみると、ここ興浜の子供会は、昭和32年8月に関町・南町・栄町・東本町・西本町・仲之町の子供会が発足されている。

 昭和33年11月に姫路市子供会指導者協議会が発足。
その時は網干小学校しかなかったので、網干校区子供会として会員数1,689人。
  



本日、網干区余子浜専念寺で公開された亀田豊氏作の花御堂

 花祭りについて
 4月8日は、古来宮中の仏教行事として『灌仏会(かんぶつえ)』が行なわれていた。後には日本各地のお寺でも花御堂を設けて祀るようになり、俗に『お釈迦様の誕生日』と言われている。『灌仏会』を『花祭り』と呼ぶようになったのは、明治以降の事である。
 『灌仏会』には花御堂の中に小さな『誕生仏』を安置し、甘茶を用意する。そして、無病息災と極楽往生を願う参拝者たちを迎える。ただし、この甘茶は参拝者たちにふるまわれるのではない。参拝者たちが幼童姿の釈迦像、すなわち『誕生仏』に浴びせかけるために用意されているのである。
 甘茶の原料は、ヤマアジサイの一種か、アマチャヅルである。緑茶や紅茶になるツバキ科のチャではない。仏教伝来当時の日本では超高級シロップだった。
 さて、そんな甘茶を浴びせかけられる『誕生仏』のモデルは、シャカ族の一派の王族に生れたゴータマ・シッダールタ。生没年は不詳なのに、誕生日だけはこの日とされ祀られている。また、摩耶夫人の右腕脇下から生まれ出るや、七歩を歩んで立ち上がり、右手で地を指して、唐突に次の一言を発したというのだから摩訶不思議。『天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)』(宇宙の中に自分より尊い者はない)
 その姿を写したとされるのが、いわゆる『誕生仏』である。  『四季のしきたり』より

 余談であるが、私『興ちゃん』は大覚寺のそばで生まれ育った。遊び場はほとんどが大覚寺の境内だった。5月5日は水筒を持っていくと甘茶を入れてくれた事を覚えている。あの甘さは年に一度の楽しみであった。


平成14年の写真 大覚寺を出発


平成14年の写真 栄町西詰めより本町に上がるところ 

 


平成15年の写真 揖保川東側の西本町 
揖保川河川改修に伴う網干1号線道路付替え工事で
浜田側の道路部分が完成した年 ヘアピンカーブを曲がったところ
  


こもれび庵オープン

2008年03月02日 | 興浜新聞

こもれび庵(井口食品)オープン

 本日10時、姫路市網干区興浜南新町で『こもれび庵』がオープンしました。
開店前から行列ができていました。 

 やはりお目当ては井口食品のリーズナブルなお寿司のようです。
あっという間に完売で、僕は1個50円の柏餅を買ってかえりました。

 お寿司の他には、果物、惣菜、お菓子、切干大根がありました。

 若い頃大阪で橋を架けていた時、スーパーで『井口食品のお寿司』をみつけて、ふるさと興浜を思い出して食べた事を思い出します。
その時の味は今も健在のようです。


お店から南に100m行くと、興浜墓地がある為か、
お花屋さんとタイアップしてお花も売っていました。


また、お寿司の取材もして、商品説明ができればと考えています。

営業時間は10時から14時になっていました。

みなさんも一度行ってみてはいかがですか。
 


おんど豆

2008年02月03日 | 興浜新聞

おんど豆

 


興浜の町中を駈け回る子ども達 

  ここ姫路市網干区興浜では、2月3日節分の日の夕方になると、子どもたちが町中を走りまわり、お菓子をもらいにまわる風習が昔からある。何軒の家が出しているのかは確認不可能だが、年々減っているようだ。5年くらい私の子どもふたりがまだ廻っている頃は、大きな袋にふたつ分くらい貰って来ていた。

【おんど豆】と書いたが、正しくは【鬼の豆】であろう。ちょっとしたなまりであろう。

いつの頃からか:興浜在住の長老が幼い時にあった事までしかわからない。

お菓子と書いたが:最近はスナック菓子や箱入りのお菓子が多いが、30年くらい前ま
            では、豆や蜜柑であった。

どの家が出しているか:興浜の大覚寺門徒。(全てではない)
              平成に入ってから厄除けをかねて、厄年の方も出したりして
              いる。 

文献の節分の行事と、【おんど豆】 との共通点を調べてみた。                   

網干町史 
節分

【俗に年越しという。立春の前日である。立春は旧暦では年末であること多い。この日、鰯の頭を柊の枝にしして戸口に挟み、また麦飯に塩鰯をそえて食す。余宗(浄土真宗以外)の家では當夜『福は内、鬼は外』と呼んで豆まきをし、家内みなその年の数だけ豆を食べる子供等は此の家に豆を貰いに行く。また若い女などの変装して町を歩く風があったが、今はすたれた。】とある。
浄土真宗の家ではかつて豆撒きがなかったようだ。

姫路市史
寒行
 
【的形町・円光寺(法華宗)では1月16日より11日間寒周りをする。夕方より同教区の10ヶ寺が揃ってねずみ色の法被を着用し、うちわ太鼓を鳴らし、龍野市・加西市・神崎郡あたりまで回る。昔、カンカンサンといい、網干区新在家・善慶寺の役僧が寒修行のため素足で回ってきた。寒明けの日、和尚も一緒に来て子どもらに蜜柑を振舞った。】とある。
確認はしていないが、今日おんど豆をまわっている時に新在家善慶寺でも同じような事をしていると耳にした。
節分・節分祭
【立春の前日にあたり、大晦日と同じ行事をした。俗に『としこし』という。鬼を追い払うため、神社仏閣・個人などで、『福は内鬼は外』と追儺の豆撒きをする。鬼の侵入を防ぐため『鬼の目突き』といい、ヒイラギの小枝に鰯の頭を突きさして家の出入口にさして魔除けとする。
船場地区 節分の豆を『オンノマメ』といい、明治から大正にかけて、龍野町1丁目の
       三宅酒店では、節分になると、朝早くからたくさん大豆を炒り、子どもたち
       に振舞った。
八木地区 法華・禅宗の家では、子どもたちは大豆とカンコロリン(さつまいもを蒸
       し、細く切って干す)の炒ったものを貰いにまわった。 】とある。
『オンノマメ』に親近感を感じます。
2月3日節分
【『津田のくらし』の『四季おりおりのくらし』には、この日の子どもの行動を次のように記している。
加茂の日蓮宗の家には『鬼の豆くれんかかほりだせ、ほりだせ』と言って子どもが廻りました。似たような風習は市内各地にもみられます。荒川地区の禅宗の家では、『鬼の豆くだんせ、くれんかかほりだせ、ほりだせ』と言って廻りましたし、国分寺の檀家には『おばはん豆うっとくれ(投げてください)、豆まだこりこり(焼けていない)一合の豆おしいか』と言って家を廻っています。
 東南部の海岸地域では、『トシマメ オクレ トシマメ カシテ』と囃し、的形では『赤金来い、白金来い』と囃しながら子ども達が家を廻り豆やおやつなどをもらって歩いている。野里・船場・内町の商家では豆や蜜柑などをまいたので子どもは袋を持ってもらい歩いたという。
 このようなことは、冬から春にかわる一年の折り目にかつては神が家々を訪れ祝福して歩くという信仰があったが、その信仰が薄れ、七歳までは神の子といわれる子どもが代って訪れるようになったことを示し、その神への供物が強要の囃となったのではなかろうか。 】とある。


家の前に行列ができる事も


おんど豆とは『施し』ではないかと言い、今現在元気で暮らせて、
このようにできる事を感謝しながら子ども達に渡しておられたお宅にて
興浜のこどもが訪れる事を喜び、また成長を見守っておられます 


興浜 どんと焼き

2008年01月14日 | 興浜新聞

 興浜 どんと焼き

 小生若い頃、日本全国で橋を架けていた。どこで聞いたのか記憶にないのだが、このあたりでいう『とんど焼き』の事を『どんと焼き』と聞いた事が頭からはなれず、ここ網干の方々が『とんど焼き』と言っている事がいまだにどこか引っ掛っている。
ここ網干の行事であるが、タイトルは『どんと焼き』とさせて頂いた。


興浜のどんと 揖保川本町橋上流側右岸河川敷


  平成20年1月14日午前10時 火入れ

 今回ブログ掲載にあたり、僕の記憶違いだと困るので、とんど焼きについて、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で調べてみると、下記のように書いている。

 【1月14日の夜または1月15日の朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を三四本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼く。その火で焼いた餅を食べるとその年の病を除くと言われている。また、書き初めを焼いた時に炎が高く上がると字が上達すると言われている。 道祖神の祭りとされる地域が多い。 民俗学的な見地からは、門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされる。お盆にも火を燃やす習俗があるが、こちらは先祖の霊を迎えたのち送り出す民間習俗が仏教と混合したものと考えられている。
 どんど、どんど焼き、とんど(歳徳)焼き、どんと焼きとも言われるが、歳徳神を祭る慣わしが主体であった地域ではそう呼ばれ、出雲方面の風習が発祥であろうと考えられている。】 


余子浜のどんと


坂上のどんと


津市場のどんと

 


金刀比羅神社 提灯吊り・注連縄飾り

2007年12月30日 | 興浜新聞

金刀比羅神社 提灯吊り・注連縄飾り

 本日午前9時より小雨がぱらつく中、金刀比羅神社において正月祝いの提灯吊りと注連縄飾りが協議員の皆さんで行なわれました。これが、興浜の年中行事の最後となります。

 皆さんよいお年を。


興浜の風景 Vol.1

2007年12月24日 | 興浜新聞

  興浜イルミネーション

 興浜栄町に毎年この時期にイルミネーションがきれいなお宅があります。
興浜本町通りより1本南の筋になる栄町の通りではこのお宅を合わせて3軒きれいなイルミネーションをしています。

 


 興浜は現在、本町・栄町・関町・中之町・南町・南新町に分かれています。
南新町は最近にできた町ですが、それ以外の町は昔よりあるようです。
上の写真は魚吹八幡神社楼門前にある文政4年の燈籠に刻まれている興浜の町名です。興浜は奥之となっています。右より本町・浦町・関町・中之町・南町と書かれている事がわかります。上のイルミネーションの通りの栄町は今でも村の長老達は本町の裏側なので、裏町と呼んでいます。魚吹八幡神社の燈籠の文字がなぜ裏町ではなく浦町となっているのかは、漁業関係者すなわち浦人が多く住んでいた通りだからだと推測されますが、詳しく栄町の方に聞いてみる必要があると思っています。

 


興浜の行事 網干西地区ふれあいフェスティバル

2007年11月24日 | 興浜新聞

網干西地区ふれあいフェスティバル

 

  平成19年11月24日(土曜日) 快晴
 網干南公園とふれあいの館(体育館)において、『第6回網干西地区ふれあいフェスティバル』が行なわれました。
 網干漁業組合前での青空市、7回続いた『興浜フェスティバル』のあと6年前より網干南公園において、網干西地区連合自治会(興浜・浜田)・網干西校区連合婦人会・網干西校区老人クラブでこの行事を主催しているようです。
 南公園相撲場を舞台とした、演芸を中心に行事を紹介します。


網干地区に前もって各戸配布されたビラ


当日朝、イベント前の演芸会場である相撲場
イベント前日、テント設営等の準備を行い、ここ相撲場は舞台になっています

 


ふれあい体育館は文化展会場です

 


興浜・浜田の方が出展した、書道・絵画・写真・手芸作品等

 

    
しそう市福知地区有志による もちつき

           
           10:00 姫路市立網干西小学校金管バンドによる
                 オープニングファンファーレ
           この後演芸の一番目で
           ゲゲゲの鬼太郎・愛しのナポリタン・銭形平次を演奏


10:15 去年より始まったグランドゴルフ大会の始球式

            
            興浜・浜田の大正琴グループ『さつき会』
            お祭マンボ・君といつまでも

       
             興浜・浜田の銭太鼓グループ『華輪』
             河内音頭・水戸黄門・南中ソーラン
             南中ソーランは浜田子供会との共演だったようです。
             写真がなく申し訳ない

        
            水戸梅后流江戸芸:かっぽれ
            伊勢音頭・深川・すててこ・奴さん・かっぽれ踊り

             
             ギターサークル『ACOSTY(アコスティ)』
2005年、西播磨地区に『気軽にギターを楽しむ』をモットーとするギターサークルとして誕生したグループ。今回は3人での出場ですが、現在20名程度いるとの事。
これまでの活動は宍粟市が中心のようです。
なつかしのフォークソングを歌ったあと、北原白秋作詞・山田耕作作曲の網干町歌をうたってくれました。

 


姫路市立網干中学校吹奏楽部
sing sing sing ・ 風林火山


よさこい『純大恋』(さくら組)
南中ソーラン・正調節・魚吹の漢(オトコ)


興浜子供会による和太鼓


興浜太鼓集団『一擲』による和太鼓



                       『地搗き』
 平成2年に興浜が檀尻を新造し、旧檀尻をしそう市福知村に嫁入りしたのが縁で、   それ以降いろいろと交流をもっている。13年前このイベントがまだ興浜フェスティバルと言い網干漁業組合前で行っていた時、福知村より秋祭りに行う『地搗き』と最初に紹介した『もちつき』と共にイベントに参加しました。最初はこの10mちかくある根が付いた孟宗竹を福知村より持ってきていただいていましたが、今は1週間前に西となりの龍野市御津町の山に興浜が切り出して用意しています。


たくさんの模擬店がでています。
いつも長蛇の列の『福知村』のきねつきもちと『興浜興壮会』のたこ焼き


がんばれ『興浜興伸会』手羽焼き


準備も大変ですが、片付けも大変です。
『興浜興伸会』が土俵上仮設舞台の片付けの手伝いです。


土俵が舞台に変わるからくりです


今年は来年姫路で行われる『姫路菓子博覧会』のPRに
菓子博レディー?も来てくれました