興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

興浜の行事 網干西地区ふれあいフェスティバル

2007年11月24日 | 興浜新聞

網干西地区ふれあいフェスティバル

 

  平成19年11月24日(土曜日) 快晴
 網干南公園とふれあいの館(体育館)において、『第6回網干西地区ふれあいフェスティバル』が行なわれました。
 網干漁業組合前での青空市、7回続いた『興浜フェスティバル』のあと6年前より網干南公園において、網干西地区連合自治会(興浜・浜田)・網干西校区連合婦人会・網干西校区老人クラブでこの行事を主催しているようです。
 南公園相撲場を舞台とした、演芸を中心に行事を紹介します。


網干地区に前もって各戸配布されたビラ


当日朝、イベント前の演芸会場である相撲場
イベント前日、テント設営等の準備を行い、ここ相撲場は舞台になっています

 


ふれあい体育館は文化展会場です

 


興浜・浜田の方が出展した、書道・絵画・写真・手芸作品等

 

    
しそう市福知地区有志による もちつき

           
           10:00 姫路市立網干西小学校金管バンドによる
                 オープニングファンファーレ
           この後演芸の一番目で
           ゲゲゲの鬼太郎・愛しのナポリタン・銭形平次を演奏


10:15 去年より始まったグランドゴルフ大会の始球式

            
            興浜・浜田の大正琴グループ『さつき会』
            お祭マンボ・君といつまでも

       
             興浜・浜田の銭太鼓グループ『華輪』
             河内音頭・水戸黄門・南中ソーラン
             南中ソーランは浜田子供会との共演だったようです。
             写真がなく申し訳ない

        
            水戸梅后流江戸芸:かっぽれ
            伊勢音頭・深川・すててこ・奴さん・かっぽれ踊り

             
             ギターサークル『ACOSTY(アコスティ)』
2005年、西播磨地区に『気軽にギターを楽しむ』をモットーとするギターサークルとして誕生したグループ。今回は3人での出場ですが、現在20名程度いるとの事。
これまでの活動は宍粟市が中心のようです。
なつかしのフォークソングを歌ったあと、北原白秋作詞・山田耕作作曲の網干町歌をうたってくれました。

 


姫路市立網干中学校吹奏楽部
sing sing sing ・ 風林火山


よさこい『純大恋』(さくら組)
南中ソーラン・正調節・魚吹の漢(オトコ)


興浜子供会による和太鼓


興浜太鼓集団『一擲』による和太鼓



                       『地搗き』
 平成2年に興浜が檀尻を新造し、旧檀尻をしそう市福知村に嫁入りしたのが縁で、   それ以降いろいろと交流をもっている。13年前このイベントがまだ興浜フェスティバルと言い網干漁業組合前で行っていた時、福知村より秋祭りに行う『地搗き』と最初に紹介した『もちつき』と共にイベントに参加しました。最初はこの10mちかくある根が付いた孟宗竹を福知村より持ってきていただいていましたが、今は1週間前に西となりの龍野市御津町の山に興浜が切り出して用意しています。


たくさんの模擬店がでています。
いつも長蛇の列の『福知村』のきねつきもちと『興浜興壮会』のたこ焼き


がんばれ『興浜興伸会』手羽焼き


準備も大変ですが、片付けも大変です。
『興浜興伸会』が土俵上仮設舞台の片付けの手伝いです。


土俵が舞台に変わるからくりです


今年は来年姫路で行われる『姫路菓子博覧会』のPRに
菓子博レディー?も来てくれました

 


興浜の石碑 興浜干拓碑

2007年11月06日 | 石碑

興浜干拓碑 (姫路市網干区興浜907番地)

 


 興浜干拓碑

 

〔要略〕
 着工昭和
201017日 
竣工昭和24年12月10日
                                                                                                                                                  

 毎年のように襲う台風災害を防ぐために、湾洞川河口の民有地および魚介産卵地を含む地域の干拓を行いました。役員の努力と漁民の協力により10余町歩、1千万円の工費と4ケ年の年月を費し、限りなく果菜が実を結ぶ緑畑と成りました。深く
感謝の誠を顕し碑を建て永く後世に伝えます。

   昭和2912月     興浜干拓組合建立

 

 

姫路市網干土地整理組合作成『網干区の字限図』より

 


平成19年現在の姫路市網干区興浜付近の地図 goo地図より




 昭和20年までは、今の興浜に『湾洞川』という川があった。本町橋のすぐ南側から現在の興浜農栄舎会館を通り『沖高洲』に流れていた。

 上図の黒く囲んだ部分が『湾洞川』です。両側は低い土手になっていたようで、青い部分は『西ノ浜』『西高洲』『古新畑』『中新田』『新々田』に行く橋が架かっていました。『沖高洲』はその名の通り、汐が干潮の時に干潟になっていた場所である。

 『湾洞川』は、南に『沖高洲』がある為、生活物資を運搬する船が通る程度の川だったようです。もちろん船着場もあったようです。

 記念碑の碑文からわかるように、台風が襲うたびに農作物に被害が出る為、興浜干拓組合を設立して、『沖高洲』の南側に堤防を築造し、サンドポンプにより、上図緑色の部分の砂で、『湾洞川』と『沖高洲』を干拓しました。ポンプアップした砂に塩気がかんでいた為、西側の『新々田』は10年余り不作に苦しんだようです。

 『湾洞川』の西側の『西ノ浜』『西高洲』『古新畑』『中新田』『新々田』と南側の『沖高洲』はそれまで、家がありませんでしたが、それ以降少しずつ家が建ちはじめ現在では、どの場所も畑も残っていますが、住宅地になっています。

 埋め立てられた『湾洞川』は興浜507番地、『沖高洲』は興浜907番地として現在残っています。

 興浜の住所を見たとき、507-○○なら『湾洞川』、907-○○○なら、『沖高洲』だったという事です。

 誰もが知らなかったり忘れている事を、このような忘れられたように建つ石碑を読む事と、長老から聴き取りした事を記します。現代の我々には想像できないような、大工事であったようです。
当時の惣代をされていた干拓委員長の太田覚治郎氏はじめ干拓委員の方々のおかげで今の興浜がある事には間違いありません。感謝です。


本町橋南側の湾洞川跡
幅を狭くして水路として残っています