興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

網干新在家産業遺産を訪ねて 手塚傳治君の碑

2014年08月11日 | 網干公民館歴史ウォーク

   
石碑については2年前の8月13日に掲載した、「新在家墓地完成ニテ御座候」と同じになりますが、もう一度紹介させて頂きます。

今からちょうど95年前の大正8年8月16日の出来事です。

当時浦役場事務責任者であった興浜の茨木利雄氏が『播磨』に掲載された郷土雑話12にその時の様子が詳しく書かれているのでその一部を紹介します。


【水難救護の犠牲者 手塚傳治】
大正8年8月16日午後4時過ぎ「ヤマゼ」(海鳴りのする西南風)が吹いていた。
網干沖で難破した船から救助を求めて来たので、網干漁業組合へ救助船一艘出すように依頼がある。
鍵本重太郎・赤木嘉吉以下8名の屈強の者ばかり乗り込んだ救助船が出動。
手塚傳治は艫櫓(ともろ)を持って居て群を抽いた大男の青年で、結婚して一子を揚げて数カ月を経たばかり。
救助方法は、波浪が高いので到底難破船には接近出来ぬから乗組員各自の体に網を付け海中に飛込ませて曳き上げる方法であった。
救助船が高波におそわれ船は覆没し乗組員は海中に投げ出されたが乗組員は10~20分で陸地へ泳ぎ付いた。
8名救助に向かったはずが7名より上陸して来ないので、残る1名は誰かと点検したら手塚であった。
第二第三の救助船を手塚傳治の捜索にあたらせたが、その日午後8時捜索隊は引揚げた。
翌8月17日
苅屋漁業組合・勘兵衛新田漁業組合の応援を求め隣保班・親族班・明友班・在郷軍人会班・漁業組合班・等々1船に3,4名乗組約数拾組4,5百名の捜索隊を編成して、御津・網干・大津の沿岸一里余の間を隈なく捜索したが遂に発見できずに終わる。
網干町婦人会応援の下に数カ所で炊き出しが行われた。
8月18日
捜索隊を縮小して隣保班・親族班・網干漁業組合班等4,5艘で捜索した処が親族班が網干港の西岸350間ある突堤の先端で腰部から足先迄白骨となっている死体を発見収容した。
8月20日
愈々死体を発見したので町葬が執行された。
斎場は網干小学校校庭
当日参列した主な人は、兵庫県知事代理・網干町会議員全員・網干警察署長以下職員・網干専売局出張所長以下職員・各村惣代・網干漁業組合長以下役職員全員・網干町婦人会長以下役員全員・網干町青年団役員全員・網干小学校生徒2,500名外教職員全員を筆頭に町民有志者一般の参列者無数。広い校庭も立錐の余地もない状態であった。

難破船の救助を求めた者は広島県大浜村の明静丸船主麓政太郎であった。

網干塩業組合へ石炭を輸送し陸揚げを終えて勘定を受取新在家の料亭福徳楼で散財中暴風となって救助を求めて来た。
遭難の場所は興浜と新在家の境界線で沿岸から4,5町離れた海中であった。
※明治晩年から大正12年頃迄難破船の取扱件数は約37,8件内死体取扱27名。
 遭難船は毎年正月と盆会の新旧暦の前後が大部分であった。


石碑だけではわからい事実が茨木さんの話から明らかになりました。

このお盆、新在家の墓地を通る事があれば、手を合わせて石碑をご覧ください。


網干新在家産業遺産を訪ねて 網干神社

2014年06月29日 | 網干公民館歴史ウォーク

 ここ網干神社には、下記の石碑に記されているように、新在家南の塩田の鎮守として祀られていた塩竈神社が合祀されている。塩の生産地であった網干のように塩にかかわる土地に祀られている神社という事で産業遺産のひとつとして紹介します。今回のウォークのコースでは最終ポイントでしたが、整理・再調査の都合で、網干神社について書いてみます。

 網干神社について改めて書く事も無いので、今回は境内にある大きな石碑の解読をしてみました。

 石碑と同じ事が書かれた、その隣にある縁起由来の説明書きが見えにくくなっているので、こちらも解読してみました。

 

 

  

 

 

 


網干新在家産業遺産を訪ねて 魚市場と潮入り運河跡と問屋川

2014年06月15日 | 網干公民館歴史ウォーク

 問屋川は古くは塩田の澪(みお)筋であったので、歴とした産業遺産です。その問屋川と昭和20年代まであった魚市場について書いてみます。

 何分資料も少なく、この記事を見て知っておられる方の情報が集まる事を期待します。

【魚市場と潮入り運河跡】
 網干漁業協同組合設立時の資料に魚市場について書かれた部分がある。
「昭和24年11月、網干漁業協同組合中より、鮮魚介類の共同販売所開設の要望が挙がる。ところが既に、吉美魚市場・網干水産・姫路魚類・丸松魚市場が近在していた為容易にその要望に応えられなかった。しかし同年12月13日、臨時総会を招集、満場一致で共同販売所の開設を決す。」とある。
 現在の新在家会館の付近まで海からの潮入り運河が延びていた頃、丸に松の字の「丸松」の魚市場があった。


古い資料を紐解けば、『揖保郡誌』には、
 商号:株式会社網干魚市場、本店:網干町新在家364番地、資本金12萬円、取締役社長:吉田卯吉

            
『網干町史』には、
 網干魚定市場は大正8年(1919)12月の設立にして、明治初年頃には各毎に小市場ありしを、明治10年頃松本尚元の市場に統一せられ、後山内武平の継承する所となって、大に改良発展し、同人没後大正8年12月株式会社に譲渡し現在は兵庫県水産会の下に経営せらる、資本金12万両、半額拂込、株主81名。

 
 タイトル写真は、新在家公民館に掛けられてある絵。「昭和25年頃迄の網干新在家問屋浜の賑わい」とある。

 

【問屋川】  
 現在の網干公民館の東側の道路の公民館から南側のダイセル敷地内を含めて海まで東問屋川が存在した。
一部ダイセルバス停留所南側にかつての面影を残している。
 昭和30年に埋めてられるまで、現在の網干児童公園から西側にかけては、新在家漁師の船溜り場であった。
 東問屋川は塩田東浜の取り水として機能していた為、埋め立てても問題は無かったのであろう。
 ただ、魚市場と新在家漁師の船溜まりという事で、どういう経緯で埋め立てに至ったかは確かな情報は得ていない。

 ダイセル敷地の西側にある、新在家問屋川の遊歩道の南北線は、かつて塩田西浜の取り水であった西問屋川沿いにあたる。  

 塩田について少しふれてみる。
 網干の塩田は昭和20年前後までは、入浜式塩田であった。
 入浜式塩田とは、塩田の砂に塩水を含ませて、水分を蒸発させ、塩分を多く含んだ砂を集めて海水を注ぎ塩分を溶解して濃厚な塩水にし、更に釜で煮詰める入浜式製法で、煙突をもった釜屋という建物があるのが特徴で、網干の塩田には26の釜場があった。
 昭和15年頃には年間/200万kgが製塩され、約150人が作業に従事していた。

 昭和25年頃から、流下式製塩法が行われるようになって、網干では昭和31~32年頃にこの製法が取り入れられた。竹や笹の小枝を無数に組合せ、数段に組み立てて、塩水がこの間を流下するときに、水分を蒸発させる濃縮装置である。この製法も電解式製塩法の登場により短期間で終幕をみた。
 下の航空写真は昭和33年撮影のものであるが、流下式製塩法の大きな装置を見る事ができる。

 網干の塩田は昭和35年に廃田となった。

  
 平成22年撮影の航空写真

 
 昭和33年12月撮影の航空写真
 埋立て前の東問屋川がわかる。
 塩田であった部分を見ると、流下式塩田の濃縮装置である枝条架がわかる。

 
 新在家の船溜まりを含めた網干公民館付近から魚市場までの部分は埋立てられている。
 

 
 上の写真は網干公民館から児童公園に向かって北西方向を望んだ写真。
 現在の写真と埋め立てる前の問屋川が魚市場まで入り込んでいた時の写真。
 〇印は、上の写真が現在児童公園にあるエノキで下の〇印のエノキと同じらしい。(写真提供:小谷氏)

 
 魚市場があった問屋川の一番奥にあたる場所の古い写真。(写真提供:小谷氏)

 
 これも同じ場所であるようだが、どこかは不明。(写真提供:小谷氏)

 ※航空写真は姫路市のもので、ブログ掲載に関して測量成果複製承認書を申請し承認済。


網干新在家産業遺産を訪ねて 塩社〔旧専売公社跡・現東京電機〕(旧赤穂塩務局網干出張所) 

2014年05月11日 | 網干公民館歴史ウォーク

当日参加者の方に配布した資料には下記のように書いた。
②塩社〔旧専売公社跡・現東京電機〕(旧赤穂塩務局網干出張所)  
現在は東京電機工業(株)の社屋として使われている建物は、赤穂塩務局網干出張所として明治後期に建てられたものである。設計は大蔵省営繕課。建物の築年については資料が乏しく詳細は不明であるが、明治38年の塩の専売化に伴って全国の主要な塩産地に塩務局が設置されて行った時期の物と思われる。近代製塩技術の発達によって姿を消してしまった網干の塩田の歴史として、唯一当時の名残を示す建物である。


もう少し調べてみようと頑張りましたが、なかなか塩社の事が書かれたものが無いのが残念である。
『網干町史』と『揖保郡誌』に書かれている部分を掲載させて頂く。


『網干町史』より
明治21年網干製塩商社を設け大に改良を計った。
と書かれてある程度であるが、それより古い『揖保郡誌』にはもう少し詳しく書かれた部分がある。

『揖保郡誌』より
大阪地方専売局網干派出所

大阪専売局網干派出所は網干町新在家の中央南浜手に位置し明治38年赤穂塩務局網干出張所を設けた。主として網干浜に於ける塩田を所管して事務を取締まっていたが明治40年10月変革されて専売局赤穂収納所の出張所に属した。明治42年12月赤穂収納所は合併されて赤穂専売支局となる。次いで大正2年6月官制の改正となって神戸専売支局に属するに至りしも大正11年またも官制の改正を見て大阪地方専売局の出張所と改称され大正13年12月出張所は派出所に変更されて大阪地方専売局網干派出所と称へ揖保郡一円を所管し、塩売捌区域(しおうりさばくくいき)は揖保宍粟両郡に亘り塩収納販売及び専売取締を行って極めて成績を揚げている。


 
東京電機工業株式会社のホームページによると、同社がここ新在家355-2に本店を大江島から移転したのが昭和37年2月24日とあり、「大きな楠に囲まれ、夏場もクーラー無しで過ごしています。」と書かれてある。

  
 大蔵省と書かれた境界杭

 

 
 裏側にある建物は塩の貯蔵庫であったのであろう。
                                                  つづく


網干新在家産業遺産を訪ねて ダイセル異人館

2014年05月08日 | 網干公民館歴史ウォーク

①ダイセル異人館
ダイセル網干工場は、日本セルロイド人造絹糸(株)として明治41年に設立。
ダイセル外国人住宅は、明治41年に創設された時に技術指導を担当した外国人技師の住宅として建てられた。
以下『姫路市史』によると、
揖保川の豊富な工業用水が得られる網干の臨海部は、明治以降工業地帯として開発されて行った。中でも明治42年に操業を開始した日本セルロイド人造絹糸は網干地区最大の工場として地元の経済発展に大きく寄与した。現在のダイセル化学工業網干工場(日本セルロイド人造絹糸の後身)の広大な敷地の一角には工場創設時に建てられた2棟の洋館が残されている。

明治期に創業した他の近代産業と同様、日本セルロイドは工場開設に際してヨーロッパから数人の技師を招いて技術指導にあたらせた。これら技師達の宿舎として建てられたのがこの建物である。当時数棟が建てられたと思われるが、その内の2棟が現存してる。今回は現在同社の資料館として使われているこちらの建物を紹介する。
下の写真にある説明板に拠れば「・・・19世紀のイギリスのコテージに類似している建物で、コロニアルスタイルと共通点がある・・・」との事である。軒を深く取り通風に配慮した亜熱帯地域に多く見られるベランダコロニアル風の建物である。大阪の通天閣や同社の工場も手掛けた設楽貞雄が設計している。
外国人技師住宅は現在4棟残っており、そのうちの2棟が平成元年に姫路市都市景観重要建築物に指定されている。



 

  

 

  

  

  


日曜日であったが、同社総務部2名の方に案内して頂き、内部見学させてもらった。
タイトル写真の黒いキューピーさんも内部に展示されている。
日本に数体しかない貴重な物であるようであるが、何故黒いキューピーなのか聞き忘れていた。

 

 

 

   

  

  

つづく


網干新在家産業遺産を訪ねて

2014年05月04日 | 網干公民館歴史ウォーク

去る4月13日(日)に行われた、網干公民館歴史ウォーク「網干新在家産業遺産を訪ねて(新在家編)」を掲載していく予定です。

ちょうど今、富岡製糸場と絹産業遺産群が世界歴史遺産に登録される予定で沸き立っていますが、ここ網干にも明治時代以降日本を近代化に導いた産業遺産がたくさん残っています。

読売新聞に今回のウォークの予定が掲載された事もあり100名近くの参加者があり大盛況でしたが、皆さんに十分な説明ができなかった事が残念でありました。

網干公民館の講座のひとつの「古文書学習会」のメンバーが説明を担当していきました。

今日は当日配布しましたA4サイズ2枚の説明文を掲載して終わりますが、それぞれの場所を写真を交えて興ちゃん風の説明を補足していく予定です。

  
  

つづく