手水舎
手水舎(てみずしゃ・てみずや・ちょうずや)と読み方はいろいろあるようだ。
ここ金刀比羅神社では北側に井戸その南側に手水鉢(ちょうずばち)があり、それらをおおう吹き抜けの建物から構成されている。
井戸は鉄板によりふさがれており柄杓(ひしゃく)もなく形だけのものとなっている。
手水鉢に寄進者の名前が刻まれている。
南面
福本喜平さんの名前が大きいのは他の方よりたくさんお金を出されたのだろう。
福本さん・土井さん・竹中さん・由川さんは全て平松の方のようだが、福本さんはもともと天満の方で喜平さんの代で平松に越して来られたとの事。
皆さん船を持っておられたようで、そのあたりから寄進を勧められたのか、それとも寄進を願い出たのかは今になっては謎を残すのみだ。
仲春中とあるので寄進の時期が2月という事がわかるが、年代は寄進者の方から推測すると明治中期から後期のようだ。
北面
讃岐三本松 榮徳丸儀八
同 詰田川 榮宝丸利平
讃岐地方、現在の香川県東かがわ市に三本松という地名があり、詰田川に関しては高松市の中心を流れる川である。
これらの船を持たれた讃岐の儀八さんと利平さんから想像できる事は、ここ興浜がもともと丸亀藩の飛び地であり、高松が丸亀藩でないにしろ交易があった為なのだろうか。
それとも、ここ金刀比羅神社に使われている石は青木産のものがある事からこの石を運んだ為か、香川県高松市の東に隣接する牟礼町・庵治町も石の里である。庵治石と思われるものはまだみつかっていないが、これから石の産地を細かく調べる必要はあるようだ。
三本松
詰田川
ちなみに鳥居と本殿前の燈籠に関しては硬質の花崗岩であり青みをもった御影石の青木石である。特長は石自体に粘り気があり、加工がし易く加工持ちが良い。
青木石が採れる「広島」は丸亀市沖の北西約11キロの距離にある塩飽諸島最大の島である。
明治18年3月、島内の青木浦字甲路に石切場を開いたのが始まりといわれれている。