今日と明日、姫路市網干区余子浜にある「あぼしまち交流館」2Fホールで、同所で毎月第4日曜日に活動を行っている「角倉歴史塾」のメンバーが掛軸展が開催されている。
網干の昔の写真等も展示されている。
本日は残念ながら、季節はずれの大型台風の襲来という事で、来館者は少なかったようだ。
明日は天気が回復すると思われるので、たくさんの来館者があるであろう。
今日と明日、姫路市網干区余子浜にある「あぼしまち交流館」2Fホールで、同所で毎月第4日曜日に活動を行っている「角倉歴史塾」のメンバーが掛軸展が開催されている。
網干の昔の写真等も展示されている。
本日は残念ながら、季節はずれの大型台風の襲来という事で、来館者は少なかったようだ。
明日は天気が回復すると思われるので、たくさんの来館者があるであろう。
29日の午後7時、志津川高校で炊き出しの片付けを行い帰路につく事になった。
高校の体育館を避難所としている方が、全員出てこられ僕たちを見送ってくれた。
胸に込み上げるものがあったが、ありきたりな言葉で申し訳ありませんが頑張って下さい。帰ってからも忘れず何か支援できる事をしていきます。と挨拶して帰ってきた。
大津波で壊滅的な被害を受けた宮城県南三陸町は14日、町最大の避難所となっていた南三陸町総合体育館(ベイサイドアリーナ)を閉鎖した。
各避難所への支援物資の配送拠点にするためで、残っていた避難所91名は、別の避難所3カ所へ移った。と今日の『毎日新聞』に掲載されていた。
タイトル写真は5月1日午後3時、魚吹く八幡神社に帰って来て機材を降ろしている様子だ。都合で現地に行けなかった待機班も連絡を受けたくさん駆けつけてくれた。このあと各村に持ち帰り洗って片づけて解散となった。ちなみに興浜班は5時に解散となった。新在家班は特に備品が多かったので片づけが遅くなったかもしれない。
往復2150km、長い道のり御苦労さまでした。
志津川高校を片付けたあと志津川小学校に立ち寄り最終の片づけを行い帰路についた。
皆疲れていたが、テキパキと片付けゴミは持ち帰った。
5月1日の朝8時、北陸自動車道尼御前(あまごぜん)サービスエリア(石川県加賀市美岬町)で朝食を食べた。
サービスエリア内にあった、松尾芭蕉の奥の細道の石碑を見て妙に気になった事があった。
この石碑には、松尾芭蕉が元禄2年(1689)に奥の細道の途中に弟子の曽良と別れたとある。
この石碑を見た時に、確か元禄時代に大きな地震が関東地方であったはずだと思った。
帰ってから調べてみると、
元禄16年(1703)12月31日 元禄地震(元禄関東地震) - M 8.1、死者5,200人(20万人とも)。関東南部に津波。
松尾芭蕉は元禄7年に亡くなっており、この大きな地震に遭遇していなかった。
ただこの件を調べているうちにわかったのが、今回の三陸沖で過去に地震が多かった事である。
東北地方の地震だけに絞り込んだが、地震と津波が多かった事がわかる。
参考までに下に記しておく。
紀元前100年頃(2030-2190BP)仙台付近で巨大津波の被害[1]
9世紀
869年7月9日 貞観三陸地震 - M 8.3〜8.6、地震に伴う津波(貞観津波)の被害が甚大で死者約1,000人。多賀城損壊。津波堆積物調査から震源域が岩手県沖〜福島県沖、または茨城県沖の連動型超巨大地震の可能性も指摘される[5]。
17世紀
1611年 9月27日 会津地震 - M 6.9、死者3,700人。
1611年12月 2日 慶長三陸地震 - M 8.1、死者約2,000〜5,000人。
1616年 9月 9日 宮城県沖地震 - M 7.0、仙台城が破損。
1678年10月 2日 宮城県北部沖で地震 - M 7.5、死者1人、東北地方の広範囲で被害。
18世紀
1717年 5月13日 宮城県沖で地震 - M 7.5、陸前、陸中で津波や液状化により被害。
1731年10月 7日 宮城県南部で地震 - M 6.5、死者数名、家屋が倒壊。
1793年 2月17日 三陸沖で地震(連動型宮城県沖地震) - M 8.0〜8.4、死者100人程度、陸中から常陸にかけて津波。
19世紀
1804年 7月10日 象潟地震 - M 7.1、死者500〜550人。象潟で2mの地盤隆起と3〜4mの津波。
1835年 7月20日 仙台地震 - M 7、死者多数。仙台城損壊、津波あり。
1858年 7月 8日 東北地方太平洋側で地震。M 7.0 - 7.5。
1861年10月21日 宮城県沖地震 - M 7.4、津波、家屋倒壊、死者あり。
1894年10月22日 庄内地震 - M 7.0、死者726人。
1896年 6月15日 明治三陸地震 - M 8.2〜8.5、死者・行方不明者2万1,959人。
1896年 8月31日 陸羽地震 - M 7.2、死者209人
1897年 2月20日 宮城県沖地震 - M 7.4、地割れや液状化、家屋に被害。
1897年 8月 5日 三陸沖で地震 - M 7.7、宮城県や岩手県で津波により浸水被害。
1898年 4月23日 宮城県沖で地震 - M 7.2、北海道から近畿にかけて有感、岩手県と宮城県の県境付近で被害。
1900年 5月12日 宮城県北部で地震 - M 7.0、死傷者17人、家屋などに被害。
20世紀
1901年 8月 9日 8月10日 青森県東方沖で地震 - M 7.2・7.4、死者18人。
1902年 1月30日 青森県東部で地震 - M 7.0、死者1人。
1914年 3月15日 秋田仙北地震 - M 7.1、死者94人。
1915年11月 1日 宮城県沖で地震 - M 7.5、岩手県や宮城県の沿岸に小津波。
1923年 9月 1日 大正関東地震(関東大震災) - M 7.9、死者・行方不明者10万5,385人(日本災害史上最悪)。
1933年 3月 3日 昭和三陸地震 - M 8.1、大津波発生、死者・行方不明者3,064人。
1936年11月 3日 宮城県沖地震 - M 7.4、小被害(ほぼ同規模の1978年宮城県沖地震と比較すると、死者皆無など遥かに小規模の被害)、小津波あり。
1937年 7月27日 宮城県沖で地震 - M 7.1。
1943年 6月13日 青森県東方沖で地震 - M 7.1。
1952年 3月 4日 十勝沖地震 - M 8.2、死者・行方不明者33人。北海道から東北に津波。
1958年11月 7日 択捉島付近で地震、 M 8.1、太平洋岸各地に津波。
1960年 5月23日 チリ地震に伴う津波 - 日本国内での死者142人。
1962年 4月30日 宮城県北部地震 - M 6.5、死者3人。
1978年 6月12日 宮城県沖地震 - M 7.4、宮城県などで最大震度 5、死者28人、津波あり。
1981年 1月19日 三陸沖で地震 - M 7.0、最大震度 4。
1983年 5月26日 日本海中部地震 - M 7.7、秋田県で最大震度 5、死者104人。
1994年12月28日 三陸はるか沖地震 - M 7.6(旧M 7.5)、青森県で最大震度 6、死者3人。
1995年 1月17日 兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災、阪神大震災) - M 7.3(旧M 7.2)、Mw 6.9、兵庫県南部で最大震度 7、死者・行方不明者6,437人。当初は最大震度6だったが、実地検分により7に修正された。
1998年 9月 3日 岩手県内陸北部地震 - M 6.2(旧M 6.1)、最大震度 6弱。
21世紀
2003年 5月26日 三陸南地震(宮城県北部沖地震、東北地震) - 本震は M 7.0、岩手県・宮城県で最大震度 6弱。太平洋プレート内の地震。
2003年 7月26日 宮城県北部地震 - 本震は M 6.4、宮城県北部で最大震度 6強(このほかにも、前震と余震でそれぞれ1回ずつ震度6弱を記録)。
2005年 8月16日 宮城県南部地震 - M 7.2、宮城県で最大震度 6弱。宮城県沖地震とは別の地震。
2005年11月15日 三陸沖で地震 - M 7.1、北海道から関東にかけて最大震度 3。大船渡市で最大50cmの津波観測。
2008年 6月14日 岩手・宮城内陸地震 - M 7.2、岩手県・宮城県で最大震度 6強。山崩れや地滑りが多発。死者・行方不明者23人。一関西で観測された4,022ガルがギネス世界記録に認定[11]。
2008年 7月24日 岩手県沿岸北部で地震 - M 6.8、岩手県九戸郡野田村などで最大震度6弱。震源の深さ108km。なお、岩手・宮城内陸地震との関連性は薄いとされている。
2011年 3月 9日 三陸沖で地震 - M 7.3。宮城県登米市、美里町、栗原市で最大震度 5弱。最大60cmの津波を観測。東北地方太平洋沖地震の前震とみられる。
2011年 3月11日 14時46分頃 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災) - Mw 9.0(M 8.4、日本の地震観測史上最大)。宮城県栗原市で最大震度 7。その他の東北・関東地方の7県で震度6弱以上を観測。死者・行方不明者2万人以上。戦後最悪の震災。北海道から関東地方にかけて太平洋沿岸部への大津波で甚大な被害。福島第一原子力発電所事故を招く。3月11日以降の数日間に震源域から離れた場所で発生した地震も、誘発させた可能性が指摘されている[12]。
同日15時8分頃 岩手県沖で地震 - M 7.4。青森県、岩手県で最大震度 5弱。東北地方太平洋沖地震の余震。
同日15時15分頃 茨城県沖で地震 - Mw 7.7(M 7.4)[13]。茨城県鉾田市で最大震度 6強。東北地方太平洋沖地震の余震。
同日15時25分頃 三陸沖で地震 - M 7.5。北海道、東北地方、関東地方の広い範囲で最大震度 4。東北地方太平洋沖地震の余震。
2011年 4月 7日 宮城県沖で地震 - M 7.1。宮城県栗原市、仙台市宮城野区で最大震度 6強。死者4人。東北地方太平洋沖地震の余震。 『Wikipedia』より
一日も早い復興を願うと共に、自分たちに何ができるかを考え実行していく事が大事ではないだろうか。 終わり
南三陸町の志津川中学校の校庭において、4月29日・30日と【福興市】が開かれた。
地元の「おさかな通り商店街」の皆さんが企画されたようだ。
「おさかな通り商店街」は海から約200mの町の中心部に、新鮮な魚介類を扱う店が13店建ち並んでいたようだ。
毎年12月29日に開かれていた「おしばて(酒のさかなの意)市」は、正月用の鮭などを求める3万人もの人出で賑わっていたようだ。『毎日新聞』
30日の【福興市】に、予定1,000匹のたい焼きを出店。最終的には1,200~1,400匹のたい焼きを食べて頂いたようだ。
炊き出し当日は、志津川高校から一歩も外に出ていない為、頂いた写真で当日の様子をお伝えする。
避難所の子供達の無邪気な笑顔に大人達はどれほど勇気づけられている事だろうか。
炊き出しの横で、子供達の為に綿菓子とポップコーンをつくっていたが、こちらは朝から夜まで大忙しである。
残念ながら、大型連休を利用して多くの子供達は近くの身寄り等に出かけていたようで、子供の人数は少なかったが、綿菓子を自分でつくったりキャラメル味のポップコーンが甘くておいしかったようで、何度も並ぶ子供もいた。
そばで見ていて「そんなに食べて大丈夫かいな!」と感じた。
自分で綿菓子をつくる様子(写真左)
キャラメル味のポップコーンが気に入り何度も来て親しくなった子供(写真右)
無邪気な笑顔が避難所を元気に!
自衛隊のお兄さんも子供に元気づけられているのだろう。
炊き出し活動を行った志津川高校の様子だ。
高校だけあって高台の広い敷地であった。
正門から入ってぐるっと回って裏側の炊き出し場所に入ったのだが、その途中広い敷地の一角に仮設住宅の建設が始まっていた。
高校の炊き出しグループは職人的な仕事をしている者が多く、一緒に仮設住宅づくりをしたかったようだ。
調べてみると現在志津川町では616戸の仮設住宅を建設中で、そのうち志津川小学校で60戸・志津川中学校で102戸・志津川高校で50戸とある。まだまだ足りない状態であろうが、高台の平地が無いという問題点も抱えているようだ。
タイトル写真は、わたくし興ちゃんが、炊き出し場所である横の体育館への通路の樋からの排水管の先がはずれているのを直している場面を、澤宮司が写真に撮ってくれていたものだ。
途中から雨が降って来て、体育館に抜ける通路に水が流れているところを、宮司さんがどうも気になったようで、それなら簡単にありあわせの物で直そうと、持ち合わせの養生テープで配管を巻いて、水がちゃんと会所に流れるようにした。
その他にも、雨が降ったら足元が悪くなる場所等、宮司さんは常に気にされており、お宮から持参したコンパネを全て置いて帰り敷いてもらう事とした。ちょっとした事が避難所生活を快適にするのだが、そのあたりの気配りもこれからの課題のひとつのように思われる。
それぞれの場面において、自分の得意とする事で助け合う。
「互助」という行動は日本が昔から大事にして来た「結(ゆい)」という助け合い作業の延長線上にあるのであろう。
「がんばれ日本」「がんばれ東北」「がんばれ南三陸町」
仮設住宅建設の様子
「ソーラーパネル」誰かが持って来たのだろう。(写真左)
トイレにはバケツが。今までの便利な生活を考えさせられる場面だ。(写真右)
「つかった紙はトイレにすてないで。」「ゴミ袋にすてて下さい。」
お世話されている方も何かと大変だろう。
一か月交代で自衛隊の方が駐屯されているようだ。
沖縄15旅団と書いてあった。
行方不明者の捜索もされていたが、仮設風呂の湯を沸かして運んでいた。
自衛隊の秘密兵器である野外炊具1号を見る事ができた。(写真右)
1トン給水車と共に野外炊具1号が4台も来ていた。
野外炊具1号は、炊飯なら600人分、主食・副食・汁の同時調理なら200人分、汁物のみなら1500人分もの調理能力があるようだ。
それもたったの20分でできる所が秘密兵器である所以であろう。
この日はこれを利用して、お風呂の湯を沸かしていた。
今回の炊き出しにあたり、㈱加納土木の4tユニックの後方に積まれたハウスには、600ℓの水タンクが積まれハウス後方部分の壁をぶち抜いてホースを付けた。炊き出しに必要な飲料水であったが、400ℓ近く余った為自衛隊の方を通して志津川高校に置いて帰った。
自衛隊の方に聞くと、毎日1トン給水車の給水作業は往復2時間近くかかるとの事なので助かりましたと敬礼して頂いた。
今回の秘密兵器である給水特殊車両には自衛隊の方も関心されていた。
この水タンク、初仕事はクシクモ16年前の阪神大震災で網干5ケ村が炊き出しに行った時である。
南三陸町2011.4.30-5
南三陸町2011.4.30-6
これが野外炊具1号だ
志津川高校での炊き出し支援活動の様子だ。
4月30日の昼食と夕食の炊き出しを行った。
泰ちゃん特製の中華そばは昼夜各200食を提供。
お肉たっぷりの鉄板焼きは昼にほとんど無くなり、夜は体育館にあった支援物資の中のキャベツ・葱・ピーマンを拝借し野菜炒めとした。
ポップコーンと綿菓子は子供達が大変喜び、担当の者は朝から夜まで休み無しのフル稼働だった。
興浜チームの集合写真。皆さんへの笑顔も被災者の方々へのごちそうだ。
4月30日土曜日(晴れ)志津川地区 8:00気温14℃、12:00最高気温17.2℃、風速1.4m/s~5.6m/s
いよいよ炊き出し準備の始まりである。
タイトル写真は7:45最初に訪れた志津川小学校で荷物を降ろす様子である。
志津川小学校に16名、志津川高校に18名、志津川中学校に7名とそれぞれ分かれての炊き出し支援活動の開始である。
小学校・高校ではそれぞれ[中華そば400食・鉄板焼き(肉10kgと野菜)・綿菓子・ポップコーン・コーヒー]を用意。
中学校ではその日南三陸町の「おさかな通り商店街」の店主たちが企画した「福興市」に泰(たい)焼き1,000匹を用意して参戦。
またしてもこの男の独壇場であった。阪神大震災のおり、ちゃんこ鍋3,000食を板宿小学校で網干炊き出し支援活動を行った立役者の一人である、TAIZO氏が泰(たい)焼き1,200匹をフル稼働で焼き上げ、大好評であった。月に一回行われる予定である「福興市」に色を添えた。
震災以来、甘いものをあまり口にしていないであろう被災者の方々を元気付けた。
それぞれの体育館で支援物資として用意したパックのジュースやコーヒー等を手渡した。(左)
バスの下にぎっしりと積まれた食材が入った大型クーラーを卸している様子。(右)
三か所に分けて積まれた機材を手際よく卸している様子。
※今日の毎日新聞に宮城県南三陸町で県内で最も遅い始業式が今日行われたと掲載されていた。
大人達はこの子らの笑顔に励ませられる事が多いだろう。
この子らの為にも復興作業がうまく進む事を祈るばかりだ。
東北地方太平洋沖地震
・発生日時 平成23年3月11日(金) 午後2時46分頃
・震源及び規模(推定)
三陸沖(北緯38.1度、東経142.9度、牡鹿半島の東南東130km付近)
深さ 約24km、マグニチュード9.0
断層の大きさ:長さ約450km、幅約200km
断層のすべり量:最大約20~30m程度
・震度
震度7 宮城県北部
震度6弱 南三陸町
・津波
3月11日(金) 午後2時49分 大津波警報発表
3月13日(日) 午後5時58分 津波注意報全て解除
被害状況(南三陸町)
※平成23年4月3日(日) 午後3時現在
・人的被害(南三陸警察署発表)
死者 396名
行方不明者(届出数) 612名
負傷者 調査中
・建築物被害(概数)
戸倉地区 520戸(り災率約75%)
志津川地区 2,020戸(り災率約75%)
入谷地区 10戸(り災率約 2%)
歌津地区 780戸(り災率約55%)
計 3,330戸(り災率約62%)
・避難者 8,719名
【南三陸町ホームページ】より
志津川高校から見た志津川地区 桜が満開でした
南三陸町2011.4.30-2
南三陸町2011.4.30-3
南三陸町2011.4.30-4
4月30日午前7時前、上の地図を見てもらうと解るが、398号線と平行して流れる八幡川を左に見ながらバスは南三陸町に入った。
ある時から車外の風景がガラリと変わり、バスに乗っている全員が唖然とした。
テレビで見ている風景と同じであるとは言え、肉眼で見ると驚きの連続である。
YouTube等で津波の動画を見られた方も多いと思うが、南三陸町はその日雪がちらついていた。津波が襲った、3月11日の気温が気になり調べてみると、南三陸町6:00気温-4.1℃、その日の最高が12:00で気温5.7℃、15:00の2.8℃を最後に記録は残っていない。今でも少し肌寒い日々を過ごされていると思うが、3月の避難生活の過酷さは言葉では表す事ができないだろう。
7時に志津川病院の北側で志津川駅の東側くらいに到着、皆バスから降りて献花をし黙祷した。
言葉に表す事が出来ない世界が目の前に広がった。
南三陸町2011.4.30-1
29日朝7時、魚吹八幡神社拝殿において、今回の参加者43名(2名は29日0時に先発済)は青木権禰宜にお祓いしてもらい、いざ出発。
下の写真はそれぞれの車も道中の安全を祈り、お祓いしてもらった。
この4t車、出発の4時間30分後の11時30分に左側後輪の内側のタイヤが”バースト”した。
このお祓いのおかげで、人身事故にはならなかった。
7時の出発から休憩をはさみながら、18時間30分後の30日1時30分に網干から約1000km走った東北自動車道の宮城県長者原SAに到着。
30日の6時30分までの仮眠タイムをこのハウスの中で過ごした興浜興伸会の西君と山本君は寝袋と毛布にくるまっていながらも寒さに震えたという。調べてみるとその日の二人が仮眠していた時間の気温は3.5℃~5℃の間。
被災された方々が避難所等で厳しい寒さの中で耐えてこられた事が実感できたという。
この体験だけでも、行った意義がある。
魚吹八幡神社出発前の様子と宮城県への途中で立ち寄ったSAでのバスと8t車と4t車
炊き出し支援活動の報告だ。
4月に入ってから会合を重ね、準備作業を分担しながら進めてきた28日の夜、支援物資と炊き出し道具を4t車と8t車に宵積み作業を行った。
4t車には仮設のハウスを積込み、その中に水タンク、テント、机、パイプ椅子等を積込んだ。
車の前に張った、「頑張れ東北」の幕は天満の有志が作ってくれた。
タイトル写真と下の2枚の4t車の写真は29日の出発前の朝6時に撮影した。
パックのジュースやコーヒー類が不足している情報があったので、支援物資としてそろえられた。
28日の夜、買付された炊き出しの食材の氷詰め作業も行った。
4月1日(金)の夜に8tトラックに積み込まれた支援物資は、宮城県に向けて出発した。
片道1,050km約14時間の運搬作業であった。
本当にご苦労様でした。
支援物資運搬の様子と、その時に立ち寄った今回炊き出し作業を行った南三陸町の様子を掲載する。
宮城県の神社庁に到着後、各地区の神社が支援物資を引き取りに来られたようだ
祇園八坂神社の様子 地割れもあり大きな被害があったようだ
この写真から下は全て南三陸町の様子
今日の朝8時から、龍門寺の修行僧23名が網干の町中を托鉢された。
龍門寺において行われている、この時期と11月との年に2回の安居会(あんごえ)と言う修行のひとつである。
2009年5月8日に投稿した「雲水あぼしを行脚する(龍門寺安居会)」の記事に詳しく書いたので、今回はあぼしまち交流館での接待のお礼に帰り際に般若心経を唱えられた様子を動画でUPする事にした。
網干龍門寺安居会
4月1日から3日にかけて、8tトラックと乗用車で支援物資を宮城県に送り届けた。
3月29、30日に魚吹八幡神社に氏子若衆が集めた支援物資を仕分け作業を行い、4月1日(金)の夜に積み込みを行い、夜遅くに宮城県に向けて出発。
片道1,050kmの道のりを休憩をしながら約14時間かけて物資を送り届けた。そのままトンボ帰りで4月3日の昼に網干へ帰って来るという強行軍であった。
支援物資として衣類(防寒着、ジャンパー、トレーナー、セーター、下着、靴下、靴) 、タオルやオムツ等の衛生用品、電池や懐中電灯等の備品が集められた。
それぞれの物資は衣類なら、男、女、大人、子供に仕分けして再度梱包した。
タイトル写真は衛生用品が詰め替えられた写真であるが、段ボール箱ではなく、プラスチック製の衣装ケースに詰めて、衣装ケースごと渡してケースも使ってもらう事とした。
興浜は、興伸会・興浜青年団が中心になり3月26日に金刀比羅神社社務所に支援物資を集め仕分け作業を行い、3月29日に魚吹八幡神社に持って行った。
海苔の大箱に8箱くらいの量であった。
ちなみに魚吹八幡神社に集まった支援物資の量は8tトラックでに積み込んだ残りはまだ2倍以上の量であった。残りの支援物資は、直近に必要な物として優先順位を考えながら運送会社に委託して被災地に送られた。
衣装ケースも支援物資
箱には品名と数量が書かれた紙を貼り付けた
一時、社務所の中は整理中の支援物資でいっぱい
仕事を終えて夜に集まり仕分け作業を行った
旧の社務所控室も支援物資でいっぱいに
魚吹八幡神社壮青年会は東日本大震災の復興支援として、4月1日から4月3日に支援物資を宮城県に届け、4月29日から5月1日にかけて炊き出しに行って来た。
炊き出しには、魚吹八幡神社の氏子43名が参加した。興浜からは7名が参加。昨日の16時に無事に帰って来た。
支援物資については、興浜としては集めて仕分けする作業に参加。
この2回の支援活動を『魚吹八幡神社』と『興ちゃん』が撮影した写真を元に、興浜を主に記録とする形で数回に分けて掲載する。