興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

姫路木材港築港記念碑

2008年05月25日 | 石碑
消えた石碑(姫路木材港築港記念碑)

 今年の冬、姫路市網干区木材港にある姫路木材港築港記念碑が移転するかもしれないとの情報が入ったので、2月に写真だけ撮影しておいたのだが、3月に姿を消していた。設置してあった場所は下の地図からわかると思います。

 高度経済成長期の急速な住宅需要に伴う輸入木材の増加に対処するべく建設されたのだろう。西播磨の木材産業基地として大きな役割を果たしてきた。時代は移り替わり水面貯木から陸上貯木に変化した為、新たな使い道をせまられているのが現状のようです。

 兵庫県道250号線浜田交差点から姫路市木材港を結ぶ南北の道路は兵庫県道503号姫路木材港線と呼ぶ。この道路の名前で木材港の名は残っていくのだろう。

 

正面の文字は「姫路木材港築港記念」
その右下に小さく「金井元彦書」とある

    
   金井元彦
   兵庫県第38・39代知事(S37.11.24~S45.11.23)
                      『兵庫県公館』にて撮影

 
裏面に姫路木材港の事がくわしく書かれてある

   
『網干商工同友会 あゆみ 創立80周年』より

 工事内容
着工 昭和37年4月1日  完成 昭和40年3月31日  総工費 24億8000万円
木材港建設功労者
日東木材(株)社長 前田誠一
望月木材(株)社長 望月秀雄
(株)神崎商店社長 藤田八郎

戦後木材資源の著しい不足に対処し地域経済の発展に寄与するためには外材輸入を促進する以外に方法のないことに着目された上記3氏はその受入施設として港の建設を企画し当地区業界の総意を結集して関係官庁に請願しかつては潮干狩の名所であったこの地に全国にさきがけて木材専用港が完成した。この功績をたたえると共に建設に努力された方々に感謝の意をこめてこの碑を建立する。

木材港の規模
総面積                      829,163 ㎡
県管理用地                  2,100 ㎡
木船泊地                   215,000 ㎡
水面貯木場                175,000 ㎡
水面荷揚場                  59,000 ㎡
公共物揚場北                4,092 ㎡
    同   南               9,050 ㎡
緑地帯 ・水理実験場       9,188 ㎡
臨港道路延長                1,300 m
15000屯岸壁                  9,270 ㎡
□船浮標                            3 基
陸上貯木場(県営)        21,614 ㎡
     同   (民間)       199,080 ㎡
防波護岸延長                1,608 ㎡
水面貯木場護岸延長       1,425 ㎡
製材工場                     46,724 ㎡
店舗その他建物数         41,879 ㎡

築港関係者
地元国会議員      堀川 恭平
兵庫県知事        金井 元彦
兵庫県土木部長          金光 稔
同  土木部港湾課長     永田 安彦
同 港湾課長補佐        塔下 真次
同 港湾課改良係長     西川 勉
同  農林部長               吉田 豊信
同 農林部林務課長     堀内 勇作
同 林務課林産係長     圓山 盂

昭和40年3月当時の姫路木材倉庫(株)役員
取締役社長      前田 誠一           
専務取締役      神崎 藤次郎
同                   藤田 八郎                    
常務取締役      望月 秀雄 
同                   中塚 建治          
取締役            浅田彦左ヱ門         
同                   岸本米太郎
同                   南光隆雄                                               
同                   福島勅正
監査役            木本三郎
  
同                   石井清三郎
同                   助友利夫                                           

記念碑建立発起人
小田 茂雄     前田 剛     神崎 利和     野村 克己     松本 昭二
渡辺 保        大崎 昭夫  橋本 勇次     木本 弘二     中塚 昭

建立昭和46年3月
設計     光安 義光           書      谷畑 直□
 

      
              かつて木材がびっしり浮かんでいた水面貯木場


興浜の石碑 興浜干拓碑

2007年11月06日 | 石碑

興浜干拓碑 (姫路市網干区興浜907番地)

 


 興浜干拓碑

 

〔要略〕
 着工昭和
201017日 
竣工昭和24年12月10日
                                                                                                                                                  

 毎年のように襲う台風災害を防ぐために、湾洞川河口の民有地および魚介産卵地を含む地域の干拓を行いました。役員の努力と漁民の協力により10余町歩、1千万円の工費と4ケ年の年月を費し、限りなく果菜が実を結ぶ緑畑と成りました。深く
感謝の誠を顕し碑を建て永く後世に伝えます。

   昭和2912月     興浜干拓組合建立

 

 

姫路市網干土地整理組合作成『網干区の字限図』より

 


平成19年現在の姫路市網干区興浜付近の地図 goo地図より




 昭和20年までは、今の興浜に『湾洞川』という川があった。本町橋のすぐ南側から現在の興浜農栄舎会館を通り『沖高洲』に流れていた。

 上図の黒く囲んだ部分が『湾洞川』です。両側は低い土手になっていたようで、青い部分は『西ノ浜』『西高洲』『古新畑』『中新田』『新々田』に行く橋が架かっていました。『沖高洲』はその名の通り、汐が干潮の時に干潟になっていた場所である。

 『湾洞川』は、南に『沖高洲』がある為、生活物資を運搬する船が通る程度の川だったようです。もちろん船着場もあったようです。

 記念碑の碑文からわかるように、台風が襲うたびに農作物に被害が出る為、興浜干拓組合を設立して、『沖高洲』の南側に堤防を築造し、サンドポンプにより、上図緑色の部分の砂で、『湾洞川』と『沖高洲』を干拓しました。ポンプアップした砂に塩気がかんでいた為、西側の『新々田』は10年余り不作に苦しんだようです。

 『湾洞川』の西側の『西ノ浜』『西高洲』『古新畑』『中新田』『新々田』と南側の『沖高洲』はそれまで、家がありませんでしたが、それ以降少しずつ家が建ちはじめ現在では、どの場所も畑も残っていますが、住宅地になっています。

 埋め立てられた『湾洞川』は興浜507番地、『沖高洲』は興浜907番地として現在残っています。

 興浜の住所を見たとき、507-○○なら『湾洞川』、907-○○○なら、『沖高洲』だったという事です。

 誰もが知らなかったり忘れている事を、このような忘れられたように建つ石碑を読む事と、長老から聴き取りした事を記します。現代の我々には想像できないような、大工事であったようです。
当時の惣代をされていた干拓委員長の太田覚治郎氏はじめ干拓委員の方々のおかげで今の興浜がある事には間違いありません。感謝です。


本町橋南側の湾洞川跡
幅を狭くして水路として残っています