興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

渡邊 鼎  その7 新舞子での写真

2009年02月24日 | 興浜偉人傳

 渡邊鼎は明治39年に逓信省を退職後、明治42年に興浜に帰って来た。
大覚寺の顧問をされて、大覚寺の古文書の整理等もされたようだ。

 大正14年に新舞子に行った時の写真がある。
大正14年という事は鼎さんが78歳の時である。

鼎さんが書かれた写真封筒に貼り付けてある紙の名前を見ると、大覚寺の放生池の玉垣に名前がある方がほとんどのようで、孝橋さん以外は興浜の方のように思われる。
 後列右側の方の名前が今栄林蔵となっているが、今栄林道の書き間違いであろう。

 さて鼎さんが名前を間違った今栄林道は、「大覚寺発祥の地」という昭和52年建立の石碑の裏に書かれた当時の大覚寺の檀徒惣代の中で今若屋(こんじゃくや)という屋号の今栄三男の父であり、現在姫路市の市議会副議長の今栄進一氏は今栄三男の長男で当主である。

 「網干公民館 歴史ウォーク通信 (番外編その2) 今若屋」を掲載してからこの記事をからめていく予定だったが、聴き取り不足の為、今若屋さんの事は後日にさせて頂く。

     


網干公民館 歴史ウォーク通信 (番外編その1) 篭屋

2009年02月18日 | 大覚寺

 2月6日に掲載した「網干公民館 歴史ウォーク通信」で紹介した「大覚寺発祥の地」という昭和52年建立の石碑の裏に書かれた当時の大覚寺の檀徒惣代の中で篭屋という屋号を持つ加納利一・児島博の名前があると書いたが、大覚寺の放生池の玉垣に利一の祖父である利太郎と博の父である武一郎の玉垣が石橋の両側に並んでいる。

 

 
 場所を移して金刀比羅神社の北側の玉垣群にこれも並ぶように利一の父である福太郎と博の祖父である繁作の玉垣がある。

   

 どの玉垣もひとまわり大きなものである。篭屋という同じ屋号の為なのか、仲が良かった事が想像される。

 加納氏と児島氏の屋号は共に篭屋で児島家の破風の部分には○にカの字の屋号が書き記されている。
         

 加納家は現在利一の次男である利昭があとを継いでいる。
聴き取りは新在家に住む長男の佳朗氏からで、利一→福太郎→利太郎→宗兵衛まではわかる。
 利太郎は嘉永6年生まれの次男で5歳年上に長男の多助(たのすけ)が居り大覚寺の放生池に玉垣がある。

 児島家は現在の当主である三千男氏からの聴き取りをした。
博→武一郎→繁作→新治郎→新右ヱ門→市兵衛→弥八郎
 
過去帳は延宝8年(1680)から記されており、万治元年(1658)に京極家が龍野から丸亀に移された時に、丸亀から興浜に来て廻船問屋を営んだ。

 加納家と児島家の屋号は共に「篭屋」であるが、加納家は「篭た」児島家「篭しん」と呼ばれていたようなので、金刀比羅神社の玉垣に答えがあると調べると篭屋さんがたくさんある。

      
 左から篭屋宗兵衛、新五郎、忠九郎、孫七、利右エ門、真治郎、太七

 篭屋宗兵衛・・・・加納宗兵衛の事のように思える。
 篭屋新五郎・・・・篭新(かごしん)という事で児島家か?
 篭屋忠九郎・・・・?
 篭屋孫七・・・・・?
 篭屋利右エ門・・・加納家は利の字を世襲した形跡があるので加納家か?
 篭屋真治郎・・・・篭真(かごしん)という事で児島家か?
 篭屋太七・・・・・篭太(かごた)という事で加納家か?

   

 金刀比羅神社にある燈籠は西側が今から185年前の文政7年で東側が166年前の天保14年のものである。
 この東側の燈籠に籠屋多助の名前がある。これはもちろん加納家だろう。

 さて、この調査で問題が発生した。
 加納家 利一→福太郎→利太郎
 児島家 博→武一郎→繁作
 この系図からすれば利一と博、福太郎と武一郎、利太郎と繁作の組合せが妥当だと思われるのだが、なぜだ。

 生年月日、没年などもう少し詳しく調べてからの投稿の予定であったが、タイミングがよかったので調査中であるが記事にした次第である。

 このような調査が進めば、金刀比羅神社の歴史が明らかにされていく。 


あぼしまち交流館 オープン

2009年02月14日 | 興浜新聞

    

 仕事が終わってからあぼしまち交流館のオープニングイベントに駆けつけたが、時既に遅く終了していた。

 興浜が誇る三大画家である小野周文、その息子の素文、周文の弟子である加藤周山の絵が展示されているので見せて頂いた。

 この三人については興ちゃん流に調べている途中である。
加藤周山の長男で「NPO法人あぼしまちコミニュケーション」の理事長であり現興浜自治会長である加藤順弘からの聴き取り中で今日も案内して頂いた。

 タイトル写真の武者絵は左が小野周文のもので、それを弟子である周山が模写したものだ。順弘氏はその時の事をよく覚えておられるようで、岩絵の具で書かれた絵は迫力満点だ。


素文は達磨絵が得意だったとの事。

  
  竣工式は魚吹八幡神社から澤宮司と浦上権禰宜がお祓いに。

  
 石見市長、松下電器(現在のパナソニック)の元社長の
森下洋一さんをはじめたくさんの方がお祝いに来られたようだ。

 写真はスタッフの方から提供して頂いた。  


網干公民館 網干歴史ウォーク通信 「大覚寺発祥の地」

2009年02月06日 | 大覚寺

 網干公民館だより2月号において、「網干歴史ウォーク通信9」で興ちゃんの記事が掲載された。

 去年の4月13日に網干公民館主催歴史ウォーク 網干区垣内地区をウォーキングした時に古文書学習会のメンバーが交代でそれぞれ説明させてもらったのだが、その時興ちゃんは大覚寺が興浜に移る前の光接院跡の説明を担当させてもらった。

 歴史ウォークが終ってからそれぞれ説明した者が順番にその時の事を記事にしているのだが、9回目で興ちゃんの番と相成った。

 当日説明した文章を短くするより違う視線から、光接院跡の石碑を建立された当時の大覚寺の総代の方3名の方について書かせて頂いた。

 皆さん興浜の方であるが建立されたのが約30年前の事であるので、すでに亡くなられておりそれぞれの息子さんからお話を伺い作成した。

 ちょうど大覚寺の工事をさせて頂いているご縁でしょうか、偉人傳として渡邊鼎さんの事を現在掲載中であるが、この総代さんの父親と鼎さんが大覚寺のお世話をされていたようで、そのあたりもからめて今月も大覚寺特集の始まりだ。

 今回は公民館だよりに掲載された文章をそのまま公開する事にした。

 垣内に「大覚寺発祥の地」という昭和52年建立の石碑がある。大覚寺はもともとこの地にあった「釈迦堂」で後に「光接院」となり今から約460年前に現在の興浜に移った。その石碑の裏面に当時の大覚寺の檀徒総代をされていた加納利一氏・今栄三男氏・児島博氏の名前がある。皆興浜の方で加納氏と児島氏が共に篭屋、今栄氏が今若屋という屋号がある。今から150年前に興浜にできた金刀比羅神社にはこの屋号の玉垣が並んでいる。石碑がいにしえの歴史の世界にいざなってくれる。