興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

興浜 どんと焼き

2008年01月14日 | 興浜新聞

 興浜 どんと焼き

 小生若い頃、日本全国で橋を架けていた。どこで聞いたのか記憶にないのだが、このあたりでいう『とんど焼き』の事を『どんと焼き』と聞いた事が頭からはなれず、ここ網干の方々が『とんど焼き』と言っている事がいまだにどこか引っ掛っている。
ここ網干の行事であるが、タイトルは『どんと焼き』とさせて頂いた。


興浜のどんと 揖保川本町橋上流側右岸河川敷


  平成20年1月14日午前10時 火入れ

 今回ブログ掲載にあたり、僕の記憶違いだと困るので、とんど焼きについて、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で調べてみると、下記のように書いている。

 【1月14日の夜または1月15日の朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を三四本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼く。その火で焼いた餅を食べるとその年の病を除くと言われている。また、書き初めを焼いた時に炎が高く上がると字が上達すると言われている。 道祖神の祭りとされる地域が多い。 民俗学的な見地からは、門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされる。お盆にも火を燃やす習俗があるが、こちらは先祖の霊を迎えたのち送り出す民間習俗が仏教と混合したものと考えられている。
 どんど、どんど焼き、とんど(歳徳)焼き、どんと焼きとも言われるが、歳徳神を祭る慣わしが主体であった地域ではそう呼ばれ、出雲方面の風習が発祥であろうと考えられている。】 


余子浜のどんと


坂上のどんと


津市場のどんと

 


興浜歴史資料館 Vol.2

2008年01月09日 | 丸亀藩興浜陣屋

  丸亀藩 網干陣屋門 (興浜歴史資料館) 2


テープカットをされる、当時自治会長の小野さん(中央)
副会長の今栄さん(左)と加藤さん(右)

 平成14年2月10日に行なわれました、興浜歴史資料館の資料館としての、オープンセレモニーの写真が出できたので、公開します。

 確か約1年前から自治会役員の方々で準備されていたのを、お手伝いさせていただきました。

 オープンセレモニー当日の、テープカットの準備もさせていただき楽しかった事を覚えています。

 


『興浜歴史資料館』の看板を掛ける、古西さん


楽しそうに、鏡割りをされる、小野会長(中央)
前自治会長の今栄さん(左)と長澤さん(右)


興浜歴史資料館 Vol.1

2008年01月07日 | 丸亀藩興浜陣屋

 丸亀藩 網干陣屋門 (興浜歴史資料館) 1


南側道路の姫路市道網干1号線より


陣屋門の後ろ、写真右側が新しい興浜檀尻庫

  ここ興浜には、旧讃岐・丸亀藩の飛び地領当時の名残をとどめる陣屋門がある。龍野藩主京極高和が明暦3年(1657)、丸亀藩移封の後、揖保郡28ケ村などを治めるために設けられた『網干陣屋』の正門にあたり、推定建築年代は寛文年間(1661~1672年)。陣屋が明治3年の廃藩置県で取り壊された後も、興浜村の檀尻庫として生き残っていた。

 現在の陣屋門は昭和61年5月29日に修理復元される事が決定し、その年に解体復元され、昭和62年3月3日に完成式を行った。復元後、内部をミニ資料館、周辺を史跡公園として整備された。復元された陣屋門は間口5間半(10.3m)、奥行き2間余(4m)。ヒノキ、杉、ケヤキをを組み合わせ、白漆喰の外壁には、焼き杉の腰板を張りめぐらしている。京極家の角四ツ目門入りの丸瓦、鬼瓦など屋敷瓦すべてを淡路瓦の特産地西淡町(三原郡)に特別注文して新調した。

 内部はたたき土間、一部が武者窓付き板間になっている。旧陣屋門に使われていた京極家の角四ツ目門入り瓦や興浜に現在も居住する京極家家臣の子孫から提供をうけた品々を展示している。

 


『鶴松亭』の記念碑

 陣屋門は当初、旧揖保川舟付き場付近に西向きに建築されていたが、明治3年以降に東に40~50mの現在地に移築された際、東向きとなっていた。今回さらに道路に面するように南向きに変えられた。公園内にあった豊臣秀吉姫路在城当時の別荘『鶴松亭』の記念碑も陣屋門正面東に移設された。完成式には丸亀市長、京極家39代目当主の京極高晴さんも来られた。

 正徳元年(1711)丸亀藩領郡村高辻帳(村明細帳)によると、興浜村の家数175・人数800。嘉永元年(1848)丸亀藩の「西讃府志」によると家数311・人数1,235であった。

 


平成6年11月の古い説明版


平成19年12月新しくなった説明版

 
陣屋の外郭を現在の地図に合わせているので、わかりやすい

 陣屋門資料館の内部については、春の公開の後くわしくお知らせします。


金刀比羅神社 その5

2008年01月06日 | 金刀比羅神社

  燈籠 その2

 金刀比羅神社燈籠その1のつづきになります。
 境内下側の燈籠に刻まれた文字について少し書いてみました。
風化が激しく読み取れない文字があるのが残念です。

東側燈籠 東面

東側燈籠 西面


東側燈籠 南面



東側燈籠 北面

  この燈籠に刻まれた名前と一致する文献が網干町史に『興騒動』という題で載っている。明治8年10月の騒ぎの事のようだ。事の起りは加東郡に近藤文蔵という長者(山形県酒井の本間氏より長者だったようです)が居て、万延元年11月興・濱田・苅屋三ケ村地先の開発の為、近藤文蔵から資金七百二十貫目を借受けた。その時に丸亀藩網干郡代と奉行から、保証のために所持の田畑質入を承諾せしめた依頼状の最後に井口善右衛門河野與次右門堀仁左衛門八木重郎右衛門福本新平寺田平右衛門八木又左衛門・植田仁八郎・金田丹之助・山田久太夫の名前がある。

 この文字が刻まれている東側の常夜燈は天保14年のものである。
天保14年は1843年、万延元年は1860年、燈籠寄進は興騒動の際の覚書から17年前の事のようだ、覚書にある名前の本人かご先祖さんだろうか。皆さんもこの古(いにしえ)のロマンに浸ってください。

 西側燈籠 西面


 

 ※ □は解読不明の文字