興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

魚吹八幡神社年末大掃除としめ縄張りと苦瓜本道

2008年12月31日 | 興浜興伸会の思い出

  今年もあと少しとなったが、今月の20日に魚吹八幡神社で壮青年会が行った大掃除での興浜興伸会の皆さんの写真と苦瓜本道について書いて今年の最後の記事とする。

 当日は小雨の降る中での作業となった。

 興浜は楼門の掃除を担当している。

 毎年していると慣れて来て、梯子を掛けて楼門の上に登りハトの糞と格闘する。ハトの糞が多いのでマスクを着用しての作業だ。

 楼門下まわりも雑巾掛けを行うが、こちらは来年から短い梯子を持参した方がよさそうだ。

 楼門のしめ縄張りを終えて、拝殿のしめ縄としめ柱のしめ縄を張ったが、ここでしめ縄の向きが違うという事になり、去年通りにしておいたのだが、細い部分が左側にくるようだ。御幣も付け直して一件落着。

  
  楼門の清掃のあと、楼門のしめ縄張りと拝殿のしめ縄張りの様子。

 
  しめ柱のしめ縄は千灯祭、秋祭り、正月と3回付け替えていうようだ。
  御幣も雨に強い和紙を使用している。


 慶長始め頃興ノ浜住人苦瓜助五郎(にがうりすけごろう)なるもの(苦瓜は本道の後なり)社(やしろ)を舊地(きゅうち)に再興せんと欲して未だ果さざりしに寛永9年壬申正月16日領主京極刑部少輔當時の社地を寄附して本社再興のことを・・・とある。『揖保郡誌』

 又、『網干町史』にも同じような事が書かれている。116歳まで生きられたとの事である。

 丁度現在、渡邊鼎氏の偉人傳を掲載中であるが、渡邊家古文書の中に「苦瓜氏略譜」というのがある。鼎氏の聴き取り中にちょうどこの古文書があり写真を撮らせてもらっていた。鼎氏独特の文字でわからない文字のオンパレードだ。その中に苦瓜本道は116歳という記述がある。鼎さんがどのような資料をもとにこれを書かれたのかは謎であるが、本当に苦瓜さんは116歳の長寿を全うされたのだろうか。


2枚ある「苦瓜氏略譜」


大覚寺の参道にロウソク灯り

2008年12月31日 | 大覚寺

 姫路市網干区興浜にある大覚寺において、大晦日の除夜の鐘を撞(つ)く前の11時30分からお参りに来られる方の足元を照らすように参道石畳の両側に竹筒を利用したロウソク立てを配置している。

 急に決まったようで、今栄果樹園の社長がご尽力されたようだ。

 竹筒だけでは風が強い時倒れるのではと思っていたが、さすが社長!タイトル写真を見てもらうとわかると思うが竹筒の中に砂利が入っていた。

 檀信徒会館の完成もまじかにせまり、ゆかた祭りの時とは全く違った境内となった。

 役員の方の話ではこれかも行事がある時にしていく予定との事だ。評議会で決まる事をお祈りしよう。

 ロウソク代百円を払うと自分でもロウソクが立てられるようだ。

 今日の夜が楽しみだ。

         

  

 

 


渡邊 鼎  その4 任大阪府南区長

2008年12月30日 | 興浜偉人傳

従七位 渡邊 鼎
任大阪府南区長
大阪府大書記官従六位遠藤達奉  
明治18年5月1日

渡邊鼎直筆の履歴書には(青字は履歴書から)
明治18年5月1日 任大阪府長
 と記されている

 この頃、鼎さんは大阪において明治大洪水を経験されている。

 明治大洪水を調べてみると、明治18年6月上旬より続いた降雨に加え、6月15日には北朝鮮北部に現れた低気圧が、相次いで大阪付近を襲った。2度にわたる低気圧で降り続いた雨は15日夜半から豪雨となり、17日夜半までに淀川で183.3mmに達する雨量となった。さらに雨は6月25日頃から再び降り始め、29日から本格的となり、7月1日には暴風も加わって、淀川の水位上昇に追い打ちをかけるかたちとなった。その激しさはあたかも大阪の古代を再現するような状況であったという事だ。

 鼎さんはこの大阪での経験を教訓として、明治42年に興浜に帰って来た時、現在住まわれている場所を地上げしたあと1年後の明治43年に現在の家を普請した。

 現当主である静子さんが伝え聞かれた事のようで、その話を聞いた時に大正6年に行われた興浜金刀比羅神社の地上げの仕掛け人であると確信した。

 その話は金刀比羅神社その7をご覧下さい。

  
  渡邊家は興浜本町通りで一段高くなっている。             
                                               つづく
 


渡邊 鼎  その3 叙従七位

2008年12月21日 | 興浜偉人傳

渡邊 鼎(わたなべ かなえ)
叙従七位(じょじゅしちい)
左大臣ニ品大勲位熾仁親王宣
内閣大書記官従五位勲五等金井之恭奉

明治17年10月9日

従七位(じゅしちい)という位階(いかい)を叙(じょ)された事。従七位に叙位されたという事だ。

『広辞苑』で位階を調べると
 勲功・功績ある者または在官者・在職者に与えられる栄典の一種。603年、推古天皇の時、隋制を模して制定。明治憲法下では、一位(いちい)から八位(はちい)までおのおの正(しょう)・従(じゅ)があって16階あり、新憲法後も位階令はなお存続する。

 明治20年に制定された「叙位条例」によると、従四位以上は勅授(宮内大臣から伝達)、正五位以下は奏授(宮内大臣が天皇に奏して叙位)とされた。また位は従四位以上は華族に準じた礼遇を享けた。従一位は公爵、正二位は侯爵、正従三位は伯爵、正従四位は男爵に準じた。

位の「正」は「せい」でなく「しょう」、従位の「従」は「じゅう」でなく「じゅ」と読む。また、三位は「さんい」でなく「さんみ」、四位は「よんい」でなく「しい」、七位は「なない」でなく「しちい」と読む。

金井之恭 (天保4~明治40)金洞と号し内閣大書記官、貴族院議員を務めた。
     明治期は書の大家として著名な人で多くの碑文を揮毫している。

渡邊鼎直筆の履歴書より年代ごとに追ってみます  (青字は履歴書から)

明治14年4月1日 任四等属 大阪府
四等属に昇進

明治15年2月10日 任三等属 大阪府
三等属に昇進

明治15年12月26日 任二等属 大阪府
二等属に昇進

明治16年11月29日 任一等属 大阪府
一等属に昇進

明治17年6月18日 任大阪府収税長 太政官
任大阪府収税長に任命された

明治17年10月9日 叙従七位 太政官
兵庫県姫路市網干区興浜の金刀比羅神社にある玉垣の従七位はこの時授かった

 

             

つづく

 

渡邊 鼎  その2 士族二編籍申付候事

2008年12月16日 | 興浜偉人傳

渡邊 鼎(わたなべ かなえ)
士族二編籍申付候事(しぞくにへんせきもうしつけそうろうこと)
明治6年3月  飾磨県
渡邊家が元丸亀藩の士分の家柄であった事がわかる。
『広辞苑』で士族を調べると、明治初年、維新前の武士の家系に属する者に与えた族称。華族の下、平民の上に位する。法律上の特典は全く無かった。現在は廃止。とある。

これから渡邊鼎直筆の履歴書より年代ごとに追ってみる事とする。 
(青字は履歴書から)

兵庫縣士族 播磨国揖東郡興濱村 渡邊鼎
渡邊鼎 嘉永元年(1848)12月12日生まれ
渡邊恒治であったが、明治5年に鼎と改名とある
明治2年10月5日 結婚 

明治6年3月5日 等外三等出仕申付候事 飾磨縣
同日 租税課雑税掛申付候事
飾磨県に勤め始めて、租税課雑税掛に配属

明治10年2月3日 任七等属 兵庫縣
同日 租税課雑税掛申付候事
飾磨県が兵庫県に変わり七等属の階級を賜わり租税課雑税掛に配属

明治12年1月21日 任六等属 兵庫縣
六等属に昇進

明治12年8月6日 任六等属 大阪府
六等属のまま大阪府に勤務

明治12年9月27日 雑税課長心得申付候事 大阪府
大阪府の雑税課長に昇進

明治13年11月2日 任五等属 大阪府
五等属に昇進 

鼎さんは几帳面だったようで、写真や文書を自家製の封筒に入れて細かく説明書きを添えている。写真や文書と同じ大きさの封筒の為、出し入れしにくいのが難点である。
下の写真は説明文が無い写真の為どの時代か不明であるが、兵庫県か大阪府に勤務していた頃の写真であろう。

  
  前列左から2番目が鼎さん


飾磨県について調べてみた。
廃藩置県が行なわれたのは、明治4年7月14日。
その時日本は3府302県。

その時、姫路藩は姫路県に、興浜は丸亀藩だったので丸亀県に、新在家は龍野藩だったので龍野県にあいなった。

明治4年11月2日に姫路県,明石県,龍野県,林田県,赤穂県,山崎県,安志県,三日月県,三草県,小野県が合併して姫路県となりわずか7日後の11月9日に飾磨県とあいなった。


『飾磨県布達』には、姫路県飾磨県と被改候事 辛未11月 太政官 とある。(明治4年11月に姫路県から飾磨県が成立したという事だ。)

その後、明治9年8月21日に飾磨県全域は兵庫県に統合された。

興浜は丸亀藩であったので『丸亀市史』で丸亀藩について調べると
明治4年4月10日 丸亀藩が廃され、丸亀県が置かれる。
明治4年4月12日 京極朗徹が丸亀県知事に任じられる。
明治4年8月    丸亀藩領地の管轄替えが次のように認められる。
          播磨国揖西郡は兵庫県に管轄替えす。

兵庫県に管轄替えするとあるのは、明治4年8月の時点では姫路県に管轄替えするの間違いではないだろうかと、興ちゃんは考える。

つづく


加藤家 網干サロン

2008年12月14日 | 歴史散歩

 昨日の姫路市網干区余子浜にある加藤家での土曜サロンの事である。

 塩野安弘さんによる「ユーモアのある老後を楽しみたい」と題してのお得意の漢文講座だった。

 塩野さんは現在、網干区垣内にお住まいだが、育ちは興浜である。亡くなられた父上は興浜檀尻の音頭出しとして活躍されていた。

 サロンが始まる前に御当主である加藤三郎さんより「加藤家住宅」が国登録有形文化財建造物になった報告があった。

 タイトル写真の「嶺(みね)」と題した掛け軸の解説から始まった。
この掛け軸は一行目が右から左に読んで、二行目は左から右に読むと教えて頂いた。二行目がネン、四行目がエン、六行目がミン、八行目がセン、十行目がケン、十四行目がレンと韻(いん)をふんでいるので、「六言古詩」というそうだ。

 その他、塩野さんの創作された漢詩の披露と解説などあっという間の一時間半であった。


渡邊 鼎  その1

2008年12月11日 | 興浜偉人傳

 渡邊鼎(わたなべ かなえ)は今から160年前の嘉永元年(1848)1212日に播磨国揖東郡興浜村に生まれ、明治6年から10年までを飾磨県、明治12年までを兵庫県、明治22年までを大阪府、明治39年までを山陽鉄道会社、明治40年までを逓信省に勤務し、そのあと郷里であるここ興浜に帰って来られ、昭和6年に亡くなるまでは大覚寺総代・顧問として大覚寺の世話人として活躍された。

 興浜にある金刀比羅神社に『従七位渡邊鼎』とあるひときわ大きな玉垣の人物と言えば地元の方ならおわかりであろう。

 現在、渡邊家は鼎さんから数えて3代目にあたる聰さんが亡くなり、聰さんの妻静子さんが現在の当主である。4代目にあたる晃さんは現在JR西日本において社長主席補佐として活躍されている。

 渡邊家には約870の古文書と鼎さんの遺品が大切に保存されている。
静子さんは太子町立岡から昭和18年に嫁入りして来られた。
嫁入りして来た時はすでに鼎さんは亡くなっていたが、鼎さんの事は主人の聰さんと父巍さんから詳しく聞いておられたようで、静子さんからの聴き取りと鼎さんが書き残した『履歴書』と遺品から偉人傳としてまとめて行く予定だ。

 

        渡邊家古文書の中の『履歴書』 
 鼎さん独特の文字で明治6年飾磨県での勤務に始まり、兵庫県、大阪府、山陽鉄道会社、明治40年に逓信省を退職されるまでの事が書かれている。

つづく


鉦檀尻(かねだんじり)と華檀尻(はなだんじり)

2008年12月10日 | 興浜興伸会の思い出
 昨日のブログの補足説明編。

 鉦檀尻(かねだんじり)とは何ぞや。
 興浜が魚吹八幡神社秋季例祭において檀尻を曳き出した時の、流し行列のスピーカー台車と言えばいいでしょうか。

 平成12年までの流し行列のスピーカー台車はすでに解体されありません。

   
 真ん中が平成12年までの流し行列のスピーカー台車。
 左側が巫女行列のアンプとスピーカーを搭載していた花車。
 花車も現在は右側の華檀尻(はなだんじり)になっています。

 鉦檀尻は平成12年より秋祭りの宵宮提灯行列にも若衆と共に宮入りします。

 鉦と太鼓を積んで、若衆の音頭に色を添えています。


檀尻蔵にある興浜鉦檀尻寄附者芳名板(平成12年製作)


檀尻蔵にある興浜華檀尻寄附者芳名板(平成7年製作)


鉦檀尻は秋祭り檀尻運行時は流し行列の最後部に位置する 

※ 興ちゃんは興浜鐘檀尻を鉦檀尻と表現させて頂いています。


鉦檀尻の鉦(かね)

2008年12月09日 | 興浜興伸会の思い出

 「興伸会(おきのはまこうしんかい) 鉦ツアー 平成4年11月23日」の記事の写真を整理していたら、平成12年に鉦檀尻の鉦をつくった時の図面のコピーが出てきたのでいい機会なので掲載します。

興浜の鉦を製作して頂いた、京都の「岩澤の梵鐘株式会社」のカタログも掲載します。「興伸会(おきのはまこうしんかい) 鉦ツアー」の時は祭日で休みという事だったが、会長さんと社長さんが案内と説明をして頂いた事を覚えています。

小さな鉦に、はるばる網干から沢山の見学者が来てびっくりされていた事を記憶します。


興浜鉦檀尻の製作図面

※ 興ちゃんは「興浜鐘檀尻」を「鉦檀尻」と表現させて頂いています。
   まぎらわしくて申し訳ございません。


興浜興伸会(おきのはまこうしんかい) 鉦ツアー 平成4年11月23日

2008年12月05日 | 興浜興伸会の思い出

興浜興伸会という団体に所属させて頂いていた時の思い出を、少しずつであるが残していけたらと思い整理中である。

檀尻を愛してやまない興浜興伸会の有志が、平成2年に新造した檀尻の鉦(かね)をつくる事になり、京都まで大型バスをしたてて工場見学に行った。

今から思えば先輩達の発想と行動力に感服だ。

日頃していない家族サービスを兼ねて太秦映画村と清水寺、嵐山も観光して帰ってきた。

長澤守さんが会長だったと記憶する。

いい思い出をありがとう。