興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

金刀比羅神社 雪景色と京極家

2011年02月14日 | 金刀比羅神社

 今日の昼から、このあたりも雪景色におおわれたので、夕方の5時に金刀比羅神社に写真を撮りに行った。

 その写真だけを掲載するのも寂しいので、京極一族と金刀比羅神社について少し書いてみる。

 江戸時代には丸亀藩興浜陣屋内の御社地に祀られていた讃岐金刀比羅宮は、今から約150年前の安政六年(1859)に現地に移された。
 境内に入ってすぐ西側の常夜燈に『(三月十一日)・(文政七甲申天)・(天照皇大神宮・佐々木大神宮)』東側の常夜燈に『(天保十四年癸卯九月)・(八幡大神宮)』の文字が有る。
 この常夜燈弐基がもとの陣屋内にあったものだろう。『佐々木大神宮』は京極家氏祖の京極高次が近江佐々木氏一族であった為であろう。
※文政七年(1824)・天保十四年(1843)

 と、このブログの第1回目に書いたが、よく調べてみると、京極家の氏祖は京極高次ではなく、佐々木氏信であった。京極高次は京極家十九代の当主でその妻は、今年のNHK大河ドラマ「江」の姉「はつ」である。

 全国には讃岐の金刀比羅神社の分社がたくさんあるが、京極一族の縁のあるところには、必ず金刀比羅神社は存在するようだ。

 その一部を各神社のホームページから紹介する。 

虎ノ門金比羅宮
鎮座地    東京都港区虎ノ門一丁目2-7
当宮は万治三年(1660年)に讃岐国丸亀藩主であった京極高和が、その藩領内である象頭山に鎮座する、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請し、延宝七年(1679年)、京極高豊の代に現在の虎ノ門(江戸城の裏鬼門にあたる)に遷座致しました。
御祭神は
大物主神 ( オオモノヌシノカミ )
崇徳天皇 ( ストクテンノウ )

京都府 京丹後市 峰山町 金刀比羅神社 
 旧峰山藩主 京極家は、代々縁の讃岐金毘羅権現を深く信仰され、この峰山の地に金毘羅社を勧請したいと念願されていました。
  7代藩主 京極高備( タ カ マ サ)公は、同族のよしみから、丸亀・多度津の両京極家にあっせんを依頼し、金毘羅宮にも交渉を続けられました。
 
かつて峰山藩主だった京極家、その六代目として養子に来た高久は香川県の丸亀出身で、讃岐の金毘羅権現への信仰が厚かった。
 そのため分霊を峰山に迎えたいと願ったが、当時は「日本一社」のおきてがあり、実現できずに世を去った。
 そこで亡父の遺志を継ぐべく、七代目藩主高備(たかまさ)が多度津藩主や金刀比羅宮に依頼し、ようやく文化八年(1811)に建立したという。

 大祭 4月9・10日 春季大祭
     7月9・10日 夏季大祭
     10月  10日 例祭  第2日曜 神輿渡御祭


 2010.8.26に投稿した「発見 金刀比羅神社略歴板」に記された興浜金刀比羅神社の4月9,10日の春祭りと7月9,10日の夏祭りの日付が同じである。
偶然の一致ではなく意味があるのだろうか。

 本町通りと山本家、大覚寺の雪景色も撮影したので掲載しておきます。

  
 本町通りを西から東へ

  
 左は陣屋門、右は山本家

  

  
 大覚寺の写真を4枚

  


金刀比羅神社 御神体 菅原道真公

2011年02月11日 | 金刀比羅神社

 

 今朝、雪が降っているのを見て、正月に投稿した記事の続編がそれきりになっているの思い出し書いてみる事にした。

           
 神社明細帳の興浜金刀比羅神社のところに、
猿田彦命・菅原道真・日本武命・天照皇大神
明治41年9月18日仝町(興浜)無格社湾洞神社ヲ合祀スとある。
その尊像が興浜陣屋門資料館にある。
なぜ、資料館にあるのかは後に調べる事にして、この尊像について書いてみる。





 文政7年(1824) の文字は消えかけていたが、文政の申年(さるどし)は7年である。
 □の文字は解読不明。
 興浜の金刀比羅神社が勧請される36年前の作であるようだ。

 當所庄屋(興浜庄屋)の岡部庫太郎さんが再興奉(さいこうたてまつる)天満宮尊像(てんまんぐうそんぞう)であるから、菅原道真公の御尊像である。

 庚申堂(こうしんどう)については、下記の投稿記事と関連しているので、よかったら覗いてみてください。

大覚寺 寺宝展より 青面金剛明王之像   

興浜の石碑  興浜干拓碑

大覚寺総代である長澤啓文氏からの聴き取った話しを紹介する。
 丸亀藩陣屋の舟付場(旧本町橋南側)ほとりに、興村々有の福寿院庚申堂と付属の参籠会所が有った。
 揖保川流域の各村落の修験道の先達衆が集まる福寿院山行講々元会所でもあった。
 元治元年の記録によると大先達篭屋太右衛門と有り、大峰信仰の拠点であったが、明治新政府の廃仏稀釈・神仏分離の令による大峰信仰の禁止、又無住のお寺やお堂の取り壊しの令により庚申堂にも苦渋の選択を余儀なくされた。
 当時京都方面より修験者、陰陽師、神官職の澤山氏が篭屋宅を宿に年2回修行に来て居られ、長澤太郎右衛門ら村役協議の上、庚申堂と屋敷一切を澤山氏に任し庚申堂の護持を願い定住をお願いした。
 了承されて庚申堂に澤山氏は定住する事になった。
 湾洞神社の神像猿田彦之命は、関町にあった恵美酒神社神社と共に金刀比羅神社に合祀されたと思われる。

本来なら、刀比羅神社に安置されていてもいいのではと考えるがいかがなものでしょうか。