興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

善慶寺 稚児行列 

2010年11月19日 | 大覚寺

  11月7日(日)に姫路市網干区新在家にある浄土宗西山禅林寺派の善慶寺において、庫裡(くり)の新築を祝う稚児行列が行われた。

 善慶寺で何か行事があればそれを機会に一度書いてみたい事があったので今回書いてみる。

 『揖保郡誌』には善慶寺をこう記している。
「網干町新在家の西南隅にあり明應元年浄土宗勧空善慶上人創建延宝3年8月法空俊哲の代出火此際古記類焼失し延宝8年俊哲の徒弟俊泰再建、浄土宗である。」
※明應元年(1492)・延宝3年(1675)

 大覚寺の資料には善慶寺をこう記している。
塔頭(たっちゅう)善慶寺 
〔空鑒尭淳上人開基又尭詮(尭淳上人の弟子)開基〕永正3年丙寅創建又永禄中善慶開基
〔第十八世剛峯俊克上人時代〕元禄6年癸酉離末
※永正3年(1506)・永禄中(1558-1569)・元禄6年(1693)

 2008年2月3日に投稿したおんど豆で、網干区新在家・善慶寺の役僧が寒修行のため素足で回ってきた。寒明けの日、和尚も一緒に来て子どもらに蜜柑を振舞った。という資料を見つけた。
 実際大覚寺だけでなく、善慶寺の門徒の方もおんど豆の習慣があるという情報が入った時から大覚寺と善慶寺には接点があると思っていた。
 善慶寺の説明版には大覚寺の塔頭であった事は記されていないが、万治元年(1658)に興浜が丸亀藩に新在家が龍野藩に分かれた事が離末の原因であると興ちゃんは想像する。

 

 

 

 

 

 


渡神殿の提灯

2010年11月12日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

 忙しかった為ブログを更新していなかったが、「長太郎さん」よりリクエストがあったので強引に記事をつくって今年の秋祭りブログは終了とし、次のシリーズに入っていく予定である。

 タイトル写真を見てここ近年の渡神殿とどこが違うかお気づきであろうか?

 真ん中の興浜神輿の提灯が「八幡宮」になっている。

 全ての村の提灯には「八幡宮」と「村名」が書かれている。

 近年、「村名」を前にして神輿側が「八幡宮」であった。

 果たして正解はどちらであろうか。

 ちなみに魚吹八幡神社境内にある神輿殿の中に吊るされている提灯は両面「村名」が書かれてあるようである。

 
 毎年恒例の興浜檀尻梃子の集合写真である

 
 興浜神輿奉仕の途中に神輿越しにみた風景

 西の馬場でのみ行われる、丁(よろ)村のダッシュで直角に曲がりチョウサをするところをおそまつな動画であるがどうぞ。

 AVI