興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

山本家住宅 (その5書斎)

2017年06月25日 | 山本家住宅

今回は書斎です。
タイトル写真は、山本家住宅の見所のひとつである、植物の曲線を取り入れたアールヌーボー風ステンドグラスの出窓です。
部屋からと外側からの写真を並べています。

山本家のステンドグラスは、大阪の宇野澤ステンド硝子製作所が製作したようです。
※明治23年宇野澤辰雄がドイツ留学より帰国。帰国後東京でステンドグラス製作を開始。
  明治39年宇野澤ステンド硝子工場設立。(宇野澤辰雄・辰雄養父宇野澤辰美・別府七郎・木内慎太郎)
  大正5年木内慎太郎 大阪末吉通り4丁目に宇野澤組ステンドグラス工場大阪出張所を開業

【アール・ヌーボー】
19世紀末~20世紀初頭にかけて、ベルギーやフランスを中心にヨーロッパ各地に波及したデザイン様式。
植物の茎や蔓、炎、波を思わせる曲線の流れに特徴があり、建築・家具では、ビクトール・オルタ、ヴァン・デ・ヴェルデ、エクトール・ギマール、工芸ではエミール・ガレなどの作品がこの様式の典型とされ、スペインのアントニ・ガウディにもこの傾向との共通性が認められる。
1895年パリにできた美術店、アール・ヌーボーの名に由来しています。


蟇股の付いた大理石のマントルピースがあり、まるで部屋全体が応接室と同じようにエ芸作品の様になっています。

床の寄木細工は応接室とは、模様も木材も違っています。
高級銘木の欅(けやき)・楓(かえで)・楢(なら)を使用しています。

壁紙の模様は、複雑で綺麗な模様です。

天井の照明の中心飾りの漆喰装飾はこの書斎の物が一番複雑な模様で手が掛っているように思われます。

応接室同様、この部屋の調度品も葉アザミの模様をモチーフにしているようです。
もちろん、オンリーワンの特注オーダー品ですね。

机の上には、山本真蔵氏の感謝状等々が飾られています。

机の引き出し取っ手部分は高級銘木の黒柿です。

このキャビネットの側面の綺麗な板は楢(なら)材です。

小さな鏡も付いて細やかな細工が施されています。

扉を縦割りの木材で構成して曲線にスライド開閉するように細工されています。

この本棚も葉アザミ模様が入っています。この取っ手部分も高級銘木黒柿です。

隣のサンルームとの窓には、タンバリンを持って新体操をしているような、ステンドグラスがはめ込まれています。

書斎隣りのサンリームは、見学時は立ち入り禁止区間になっております。
綺麗なタイル貼りの部屋で、天井照明の漆喰での中心飾りも他の部屋とは異なっています。

協力:網干歴史ロマンの会・あぼしまちボランティアガイド
    銘木関係:原匠江尻店長

※山本家住宅を見学された方はご存じのように、立ち入り禁止箇所からの写真が掲載されておりますが、山本家住宅を管理しております「網干歴史ロマンの会」の了解を得ております。
見学の際は調度品等を傷めるケースがありますので、赤い絨毯部分のみからの見学にご協力をお願い致します。

※山本家住宅は、第1、第3日曜日の10時00分~16時00分に公開中です。


山本家住宅 (その4応接室)

2017年06月12日 | 山本家住宅

山本家住宅は、玄関から入ってすぐ左側の応接室とその奥の書斎と階段室が洋室の設えになっています。
その他の部屋は中には窓が洋風である和室もありますが、基本は和室です。
全ての部屋に言える特徴は、当時としては天井が高い事と、銘木が使用されている事です。
それぞれの部屋が特徴を持ち、他の部屋に無い設えになっている事に驚きを感じます。
まずは、応接室をご案内致します。

床は寄木細工、壁は玉杢(たまもく)の楓(かえで)材による腰板張りの上部クロス張り、天井は漆喰の装飾仕上げに暖炉があるという完全な洋風の造りとなっています。

床は、少し解りずらいかもしれませんが、薄くスライスした銘木を寄木細工にしています。 


壁は玉杢(たまもく)の楓(かえで)材による腰板張りの上部クロス張り。
洋室の全ての腰壁に使用されている、楓は吉野より取り寄せたと伝わっています。

 


天井は漆喰の装飾仕上げに、枠の部分は木曾桧(きそひのき)を使用しています。

風聞では、この家には煙突が無い為に暖炉は炭暖炉でした。薪では無く炭の熱を利用して、天井の隅にある通気孔から熱が伝わる構造であったようです。

暖炉は、西洋では部屋の格式を決める上での重要な調度品でした。
日本の建築でいう床の間にあたり、その部屋の顔でした。

暖炉のマントルピースは大理石で、その上に飾られている鏡の枠の部分は、高級銘木の黒柿を使用しています。
黒柿の孔雀杢(くじゃくもく)という入手困難な金額を付ける事ができない程の最高級品です。
山本家住宅の特徴のひとつと言っていいのかはわかりませんが、高級銘木の黒柿がいたるところに使われています。


高級銘木の黒柿の孔雀杢くじゃくもく)

銘木で作られたソファやテーブルの家具調度類も当初のままです。


この部屋の調度品は、葉薊(ハアザミ)、別名(アカンサス)をモチーフにされています。

楓材のテーブルは、象嵌(ぞうがん)寄せ木細工で作られた、もちろん山本家住宅のみのオンリーワンの家具です。
象嵌寄せ木細工とは、一つの素材に異なった素材を嵌(は)め込む技法です。
アンティーク家具においては、切り絵のように色をつけ、その絵にそって切り取った木片で家具の表面を飾る技法です。
その中でも象嵌は「インレイ」と呼ばれ、家具の表面をくりぬいて、異なる木材や貝殻をはめ込む技法のことです。

クロスのまわりは珍しい紐綱飾りをまわし高級感を演出しています。

今ではとても手に入れることのできない厚手のドレープカーテンも必見です。

【マントルピース(mantelpiece)】
マントルピースとは、壁つきの暖炉につける前飾りのことで、焚き口の廻りを囲む飾り枠などを指します。
暖炉の焚(た)き口の周辺部分。また、暖炉の上部の飾り棚。
暖炉のたき口を囲む飾り。木,石,煉瓦,大理石等で造る。上部に炉棚(マントルシェルフ)を設ける。
暖炉の炉の上部・側面を囲むかたちで壁面に設けられる飾枠。
木,煉瓦,タイル,石,大理石等で造られ,室内の重要な装飾要素となる。
上部には炉棚mantelshelfが設けられ,ここに陶器や美術品,写真,置時計などを並べることが多い。
その上の壁面には装飾レリーフを施したり絵画,鏡などを飾る。
マントルピースは洋室における飾棚を兼ねるもので,和室における床の間に類似した機能をもつといえる。

【ドレープカーテン】
厚手の生地や織物の総称。視線の遮断や断熱など、機能的なカーテン。

【カーテンの歴史】
日本でカーテンが使われるようになったのは江戸時代の初期で、長崎の出島に外国公館が出来た頃というのが通説になっていますが、外国公館で使用されたというもので、実際に日本人が使い始めたのは、幕末から明治にかけての時代であったと考えられています。
当時は「窓掛け」といわれ、ほとんどが輸入品の重厚で高価なものでした。
「カーテン」という言葉が使われる様になったのは、明治末期になってからで、素材として綿・毛・絹・麻などが用いられ国内で生産され始めました。
大正期に入って中産階級が増え、生活改善運動の影響もあって次第に広まっていき、関東大震災後は建築の近代化及び洋風化が進み、カーテンも増えてはきたもののまだ一部の上流階級のものでした。そして昭和30年代に入り、一般住宅に本格的にカーテンが普及し始めました。それは日本住宅公団によるアパート建設が始まってからの事であり、住宅産業が盛んになり、カーテンが生産されるようになりました。

協力:網干歴史ロマンの会・あぼしまちボランティアガイド
    銘木関係:原匠江尻店長

※山本家住宅を見学された方はご存じのように、立ち入り禁止箇所からの写真が掲載されておりますが、山本家住宅を管理しております「網干歴史ロマンの会」の了解を得ております。見学の際は調度品等を傷めるケースがありますので、赤い絨毯部分のみからの見学にご協力をお願い致します。

 ※山本家住宅は、第1、第3日曜日の10時00分~16時00分に公開中です。


山本家住宅 (その3玄関)

2017年06月06日 | 山本家住宅

今も昔も、玄関床に敷かれた大理石を見て驚かなかった方はいないでしょう。
明治大正時代、上がり框(かまち)に正座し、頭を下げて来客を出迎えていた状況からすれば、ここ山本家住宅での玄関でのお出迎えは立ったままでの状態であり、当時としては不思議な世界だったかもしれません。
ただし靴を履いたままで屋敷内に入る正式な洋館と違い、洋室と和室が混在する為、靴を履いたままで屋敷内に入る事はなかったでしょう。
この玄関ホールで上履きであるスリッパに履き替えていたのでしょうか。
現在、山本家を案内する時は、大理石貼りの玄関ホールに入る手前のスノコを敷いた所で靴を脱いで頂き、寒い時期はスリッパに履き替えて頂いています。ここ最近は、暖かくなったので靴を脱いだ状態でスリッパは履かずに、家に入って頂いています。
大正時代のゲストはこの大理石貼りのホールで靴を脱ぎ、そこに置いていたのか、お手伝いの方が一旦片付けたのかは想像するしかありません。



いつまでも大理石に見とれていてはいけません。天井をご覧ください。
照明の上の中心飾りは漆喰装飾です。
欧米でもこのような装飾が沢山ありますが、欧米での作り方は、まず木で装飾を施した型枠をつくり、そこに石膏を流し込んで作りました。しかし日本の左官職人は、石灰・ふ糊・麻を混ぜ合わせた漆喰を少しずつ盛り上げては鏝(こて)で丹念に浮彫りに整形する作業を繰り返し、その場所にしかない、オンリーワンの細やかな細工の漆喰装飾をつくりあげていました。

洋室にあるそれぞれの違った照明の中心飾りの漆喰装飾も紹介します。


玄関ホール

 


書斎

 
サンルーム


階段室 

腰板は楓(かえで)材を使用しております。これから案内します洋室部分の腰板は楓(かえで)材です。
楓(かえで)材の中でも玉杢(たまもく)という高級品です。
枠の部分は木曾檜(きそひのき)を使用しています。
山本家住宅の洋室の腰板は全て楓が使用されています。
山本家より4年遅れの大正11年(1922)に完成した旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎である名古屋市市政資料館の会議室の腰壁と同じです。

 

協力:網干歴史ロマンの会・あぼしまちボランティアガイド
     銘木関係:原匠江尻店長

 

※山本家住宅は、第1、第3日曜日の10時00分~16時00分に公開中です。


山本家住宅 (その2玄関前)

2017年06月01日 | 山本家住宅

今回は正門をくぐり玄関前からです。
玄関は唐破風(からはふ)屋根になっています。
玄関まわりは檜(ひのき)材を使用しています。


その前に少し私のライフワークである、興浜の金刀比羅神社について触れたいと思います。
山本家の前の網干1号線の道路を隔てて北側に祀られています興浜の金刀比羅神社は、大正時代に大規模な改修工事が行われました。
その時に多額の寄付をしたのが、金刀比羅神社に崇敬が厚かった山本家当主の山本眞蔵氏です。
芳名板には、三百円(現在の300万円以上)の寄附が残っています。
大鳥居の寄進、又五十円(現在の50万円以上)の永代御鏡料の寄進もされています。

この大改修工事で金刀比羅神社の拝殿・本殿は洪水対策の為、1m近く地揚げされました。
完成は、山本家住宅と同じ大正7年です。
ここ興浜では、山本眞蔵氏が三階建ての住宅を建てる時に、金刀比羅神社を見下ろすのは失礼だという事で地揚げを行ったという話も伝わっている事等から、山本家と金刀比羅神社は切り離して考える事はできないと思われます。
玄関の唐破風(からはふ)屋根は金刀比羅神社の拝殿・本殿の唐破風(からはふ)屋根を模したものと考えられます。
金刀比羅神社は現在銅板の屋根ですが、当初は檜皮葺き(ひわだぶき)の屋根でした。
山本家住宅の屋根は杮葺き(こけらぶき)の屋根だったと伝わっています。(※現在の工事価格では、檜皮葺きより杮葺きの方が高価)

唐破風は曲線が美しく、大工の匠の技が表現される部分です。
唐破風には、「招き入れる」という意味が託されている事から、当主山本真蔵氏が網干の名士として来賓をもて成す為に建てられた迎賓館である山本家の玄関にはふさわしい意匠です。


玄関前の敷石は、金刀比羅神社の参道敷石のように真ん中をふくらませて水が溜まらないように加工されています。
表面は羽ビシャン仕上げで、外周の基礎石・山本家住宅洋館部分の大きな基礎石や金刀比羅神社の燈籠等、石工前川俵治が好んで採用した仕上げ方法です。
山本家に使用されている石材は、香川県の青木石です。同時期に行われた金刀比羅神社の改修工事に使われた石と同じ産地です。 
※明治18年(1885)3月 青木石の石切り場開く
  (丸亀市沖の北西約11キロの距離にある塩飽諸島最大の島である「広島」の青木浦字甲路に石切場を開いたのが始まり)

            
          羽ビシャン(はびしゃん)仕上げに使う道具
 
             洋館の基礎石
            
玄関に上がっていく石段は新在家の網干神社の拝殿前の石段と同じつくりです。

              網干区新在家の網干神社の拝殿の階段石
網干区新在家の網干神社は、明治42年3月2日に大国神社と宇賀神社を合祀し、同じ年の8月13日に社号を恵美酒神社から網干神社に改称したと魚吹八幡神社の記録に残っています。
その当時の8月13日は現在の魚吹八幡神社秋祭りの原形である魚吹八幡神社法放会が行われていた8月15日の前々日であり、この年に網干神社の改革があったと想像できます。

網干神社の石階段が先でそれを気に入った山本眞蔵氏が玄関に採用したのかもしれません。

二階東側の部屋は、鎧戸(よろいど)の上に千鳥破風(ちどりはふ)のつくりとなっていますが、これも金刀比羅神社の拝殿・本殿屋根を意識した形なのかもしれません。
山本家の信仰心が洋風建築に神社建築をミックスさせたのかもしれません。
『姫路市史第15巻下』にこう書かれています。
二階は、北面については出窓上部から望楼までの中央部分が半間程張り出し、全面ガラおス、引違いの掃き出し窓となっている。この部分には外側に高欄が付くという奇抜な造りとなっている。
私の意見を述べさせて頂けるなら、
この後のシリーズで紹介しますが、山本家北側2階和室と3階望楼からは金刀比羅神社を遥拝するつくりになっています。 

来客時には、窓ガラスを取り外し、窓ガラス越しでは無くオープンに外側の景色を見て頂いていたと思われます。
2階の窓ガラスは取り外されるので、転落防止の役割の高欄が付き、それが外部からのアクセントにもなっていると思われます。
写真下の2階北側の窓ガラスがある部屋は窓ガラスの内側の縁側のような部分の内側に雨戸が付いています。
これは昼間は窓ガラスを取り外した状態で、もてなした来客を宿泊して頂いた時に窓ガラスを付けずに雨戸を閉めたものと想像できます。
宿泊された証拠にこの部屋には蚊帳を架ける金物が今も残っています。
ですので、これは奇抜な造りでは無く、考えつくされた構造であると思われます。
 

                     興浜金刀比羅神社拝殿

 

             興浜金刀比羅神社東側の高い所からの山本家住宅千鳥破風部分

『姫路市史第15巻下』にこう書かれています。
屋根は洋室部分上部に反りのある切り妻屋根を架け、望楼部分は寄棟となっている。
特に注目されるのは、この切妻部分に付く懸魚の形である。
一見しただけでは日本の古い形式と見違うが、ギリシア建築の棟飾りなどに用いられるアンチフィクスが用いられている。
また、望楼の寄棟には燈籠状の棟飾りが付けられているのも面白い。
とあります。

  
〔唐破風(からはふ)〕
 屋根の切妻に付ける合掌形の装飾が破風です。
 唐破風は中央部の高い曲線をもち、玄関や門、向背などの屋根や軒に多いのが特徴です。。

〔千鳥破風(ちどりはふ)〕
 主に屋根の斜面に取り付けられる三角形の破風。装飾的に用いられる事が多く、城郭などでは唐破風と組み合わされる場合も。
 姫路城が名高い。
 興浜金刀比羅神社の拝殿・本殿も唐破風と千鳥破風が組み合わされています。

〔柿葺き(こけらぶき)〕
 こけら葺きは、日本古来から伝わる伝統的手法で、多くの文化財の屋根で見ることができます。
 防火上の見地から現在これを一般建築に用いることはできません。    
 また、こけら板とは、桧、マキなど比較的水に強い木材を長さ24㎝前後、幅6~9㎝、厚さ数mmの短冊形の薄板に挽き割りしたものです。
 厚みによって、柿葺き(こけらぶき)、木賊葺き(とくさぶき)、栩葺(とちぶき)と呼ばれています。

 柿葺き(こけら葺き)・・・最も薄い板(こけら板)を葺く。板厚2~3mm
 木賊葺き(とくさぶき)・・・こけら板より厚い板(木賊板)を葺く。板厚4~7mm
 栩葺き(とちぶき)・・・木賊板より厚い板(栩板)を葺く。板厚10~30mm
 尚、こけら葺きは、板葺きの総称として使われています。
 代表的建築物 柿葺き・・・金閣寺・銀閣寺
 ※檜皮葺(ひわだぶき)とは、屋根葺手法の一つで、檜(ひのき)の樹皮を用いて施工します。
 日本古来から伝わる伝統的手法で、世界に類を見ない日本独自の屋根工法です。
 多くの文化財の屋根で檜皮葺を見ることができるます。

協力:網干歴史ロマンの会・あぼしまちボランティアガイド
    石 関 係:播州石材(株)・八田石材(株)・石田造園
    銘木関係:原匠江尻店長
参考文献:『姫路市史第15巻下』

 

※山本家住宅は、第1、第3日曜日の10時00分~16時00分に公開中です。