興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

渡邊 鼎  その6 明治40年1月24日

2009年01月28日 | 興浜偉人傳

鉄道作業局雇 渡邊 鼎
依願雇ヲ免ス
明治40年1月24日
逓信省

現在のJR。少し前までの国鉄を退職された時のようだ。
59歳で退職されたという事だ。ご苦労様でした。

今回も前回から退職までの事を渡邊鼎直筆の履歴書より年代ごとに追ってみる(青字は履歴書から)

明治29年6月22日 三級書記 山陽鐵道株式會社々長松本重太郎
三級書記になる

明治31年7月1日 臨時建築部在勤 山陽鐵道株式會社専務取締役牛場卓蔵
同日 用地掛長兼務

建築部と用地係長を兼任

明治31年12月23日 二級書記 山陽鐵道會社専務取締役牛場卓蔵
二級書記になる

明治37年12月26日 一級書記 山陽鐵道會社専務取締役牛場卓蔵
一級書記になる

明治39年12月1日鐵道国有法二依リ政府へ山陽鐵道買収ノ結果山陽鐵道株式會社解散
同年12月1日 鐵道作業局雇ヲ命ス 逓信省

山陽鉄道株式会社が解散になり国鉄になった時である。
鉄道関係は郵便と同じの逓信省管轄になった。

明治40年1月24日 依願雇ヲ免ス 逓信省

明治39年4月1日 明治37,8年事件ノ功二依リ金□□ヲ賜フ 賞勲局
この文章をもって、履歴書は終わっている。

つづく

 


あぼしまち交流館のオープンと村紋

2009年01月26日 | 歴史散歩

  今年の2月14日にオープンする「あぼしまち交流館」を見せてもらった。

 タイトル写真は、大ホールの天井にある九つの提灯型の照明である。

 網干の魚吹八幡神社の秋季例祭が最近「あぼしの提灯まつり」という名で有名になっている。地域のイベント等でも提灯をアピールしているようだ。

 さて、その提灯型の照明に網干中学校区6ケ村の村紋が入っている。

 村紋とは何ぞやという事だが、県や市にシンボルマークがあるようにその昔各村にもマークがあったようだ。
 いろいろな資料を読んでみたがこれといった確信には到らなかった。
 先日網干古文書学習会の新年会の席でその事を質問したところ、世話役をしてくださっている前田さんからこのような意見を頂いた。「江戸時代の古文書には各村の水争いの文献が数多く残っている。水は命の次に大事なものであったのであろう。稲作の時期、堰板(せきいた)の開け閉めなどの作業で自分の村の堰板と他の村の堰板を間違って開け閉めしたら大変な事になったであろう。その為に村のマークを決めて印をしていたのではないか。」
 納得である。江戸時代は今のように全ての人々が読み書きができたわけではなかったでだろう。だからといって読み書きできる者だけで事は運べなかったはずだ。その時に決められた印が村紋となり、こんにちに到っているのだろう。皆さんなら秋祭りの時、高張提灯や役員が持つ弓張提灯に記されている村紋をみているはずです。
 

   
     事務所はあぼしの町並に多く残る格子戸を使用している


網干歴史めぐりの案内版


最高級御影石である庵治石でできた網干町歌が刻まれた石碑と会館


大覚寺工事日記 文化財防火デー

2009年01月24日 | 大覚寺
 昭和24年に奈良法隆寺金堂の壁画が消失した日にちなんで1月26日は文化財防火デーである。

 網干消防署においてはそれに先立ち23日姫路市網干区興浜の大覚寺にて
「第55回文化財防火デーに伴う消防訓練の実施」が行なわれた。

 消防訓練のあと中西住職が挨拶された。世界で一番古い組織消防隊が1650年に我国ではあった事を話されていた。忘れないうちにメモしておいた。大岡越前守のい組ろ組は組・・・の町火消しが日本では一番古いと思っていた。

第55回文化財防火デーに伴う大訓練の実施について

1 目 的
第55回文化財防火デーの一環行事として大訓練を実施し、それを通じて、文化財の防火意
識の高揚とともに、火災発生から鎮火までの初動体制の確立を図り、関係者との連携をより一
層円滑にすることを目的とする。
2 日 時
平成21年1月23日(金) 10時00分~10時30分
3 場 所
姫路市網干区興浜151
鶴立山 大覚寺
4 参加機関
⑴ 網干消防署
飯塚署長 以下19人 車両4台
⑵ 大覚寺
中西住職 以下 3人
⑶ 網干西地区連合自治会
加藤会長 以下 5人
⑸ 網干消防団 網干分団
金谷分団長 以下 5人 車両1台
5 訓練想定
強風、乾燥注意報発令下、平成21年1 月23日10時00分頃、参拝者の火気取扱い不
注意により本堂から出火炎上し、周囲の建物に延焼拡大。さらに火勢は拡大し、南側の住宅
密集地へ延焼の恐れがある。
6 訓練実施事項
⑴ 文化財として指定されている木造大建築物に対する防御体制の確立
⑵ 大覚寺関係者の通報及び文化財の非常持ち出し要領の習得
⑶ 自主防災会員の初期消火技術の習得
⑷ 連携要領の確立
⑸ 情報交換を密とした円滑な消火活動の習得    姫路市HPより


大覚寺工事日記 歴史ウォーク

2009年01月21日 | 大覚寺

 本日、山陽電車の企画でしょうか、300人近くの方々が大覚寺にやって来た。

 歴史ウォークのようだ。

 中西住職が説明されるので、聞きたかったのだが資材の片付けの為残念ながら写真だけ写して倉庫に向かった。


大覚寺工事日記 秀姫明とは誰だ

2009年01月17日 | 大覚寺

 姫路市網干区興浜の大覚寺で工事中に不思議な墓を発見。

 放生池のすぐ東、観音堂の南側にある墓である。

 表は秀姫明霊とある。

 裏には昭和14年11月建立とあり、側面には 世話人 松島由太郎とある。

 興浜の偉大な先人松島由太郎さんについては後日掲載できればと考えているが、その松島さんが世話人とあるこの墓は誰だろう。

 今日は疑問を書いただけで、調査はこれからだ。


大覚寺工事日記 匠の技 前川俵治

2009年01月15日 | 大覚寺

 姫路市網干区興浜の大覚寺で工事中に本殿前にある、本殿の大屋根から落ちてくる雨水を受ける雨水桝に匠の技を発見。

 この雨水桝については、 平成20年11月17日に投稿した「石工 前川俵治」を参照してもらうといいのだが、今回の雨水排水工事で本殿前を掘ったところこの雨水桝は下まで貫通した穴を穿(うが)っており、その先は素焼きの管を通り放生池に流れ込む構造となっていた。

 現在雨水桝の穴は子供のいたずら等で穴がふさがった状態である。
おりを見て掃除できればと考えている。 


雨水桝の水は今回の工事で布設する管につながった。


大覚寺工事日記 石畳をはずした参道を子供達が通る

2009年01月13日 | 大覚寺

 本日大覚寺において大雄石材さんが本堂前の参道石畳をとりはずしている最中に、網干小学校5年生の児童たちが中西住職の話を聞きにやって来た。

 工事関係者の我々は住職から児童達の来訪を聞いていなかったので急きょ作業を中断。静かな作業に切り替えた。

 石畳の下地の土の上を歩くのもまずない機会であるが、子供達には関係ない事かな。

 記念に顔がわからない程度に写真を撮らせて頂いた。


大覚寺工事日記 参道石畳整備と雨水排水工事が始まる

2009年01月11日 | 大覚寺

 姫路市網干区興浜の大覚寺において、参道の石畳整備と雨水排水を入れ直す工事が今日より始まった。

 大覚寺の境内は東西はほぼ同じ高さ(レベル)であるが、南北は50cm以上の高低差がある。以前は南端にある放生池に水が集まりそこから南に水路があったようだ。
今回の工事で水路跡らしき石積を確認できたが、現在の雨水もその水路の跡に管渠が通っておりそこに落ちる構造となっている。

 大雨の時に境内の水を一気に処理するのは不可能に近いが、水溜りができないように、参道の脇や境内に暗渠排水の管渠を布設してこれに対応する。

 ダイカプレス管という直径150mmの穴が開いた塩ビ管を約240m布設する工事が今日より始まった。

 並行して、参道の石畳が境内への車両の進入によりデコボコになっているので、一度取り外し据えかえる工事も行う。

  

  
 重機にて掘削したあと、吸出し防止マットをひいて、直径150mmのダイカプレス管を布設する。穴があいた管のまわりは、20mmの石(たつの市御津町豊崎商店5号砕石)で埋め戻し水が集まる構造となる。

  
 地面より10cm下がりまで20mmの石を敷き、その上は5号砕石より少し小さい6号砕石を敷き完成となるが、全ての工事が完了したら、もう一度不陸整正の作業を行う。


渡邊 鼎  その5 山陽鐵道會社用地掛員

2009年01月10日 | 興浜偉人傳

山陽鐵道會社用地掛員の写真
鼎さんは前から2列目の中央
明治39年12月1日鐵道国有法二依リ政府へ山陽鐵道買収ノ結果山陽鐵道株式會社解散の時の写真
前列の方々がムシロの上にあぐらをかいているのがおもしろい。

鼎さんの写真には下のような説明書きが付いているものが多い。
もちろん鼎さん直筆のものだ。
非常に読みづらいが、後にこのように公開される日を予測していたのかと興ちゃんには思えてならない。
 


山陽鉄道株式会社解散ノ□ 建築課長上山準之助君並雑務用地両掛員 □□

 

今回も渡邊鼎直筆の履歴書より年代ごとに追ってみる(青字は履歴書から)

明治22年2月1日 七級書記 山陽鉄道会社々長中上彦次郎
同日 建築課勤務(雑務掛事務擔任)

山陽鉄道会社建築課に勤務でさらに雑務係りの事務を担任されたようだ。

明治25年10月27日 三原出張所在勤
静子さんの聞き伝えによると、山陽本線の敷設の用地買収に係わっていたようだ。近畿地方はもちろんのの事、西は広島県まで担当していた。鼎さんはこれからは鉄道の時代だと思い網干沿岸に是非とも鉄道を敷きたかったようだ。哀しいかな地域住民から反対があった。山陽本線は現在のように海岸線ではなく少し北を通る事になった。

つづく