興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

渡邊 鼎  その11 大覚寺放生池

2009年07月23日 | 興浜偉人傳

  大覚寺の境内は網干の中にあるお寺では、龍門寺に次いで広い。

その広い境内の南側にある観音堂と鐘楼堂の間に放生池がある。

たくさんの玉垣で囲まれた池を東側から太鼓橋を渡り観音堂にお参りする時にひときわ大きな玉垣が二本建っている。

 一本は渡邊鼎、もう一本は肥塚龍(こえづかりょう)の名前が刻まれている。

 肥塚龍について少しふれてみようと思う。

 ここ大覚寺の檀家はほとんどが興浜であるが、御津町中島(みつちょうなかしま)と揖保町真砂(いぼちょうまなご)にも檀家がある。

この春大覚寺から正式に名前が無くなった、大覚寺の塔頭(たっちゅう)であった西明寺と法華寺は、もともと法華寺を中島門徒が西明寺を真砂門徒が守られていたと方丈さんから聞いた事がある。

肥塚龍はこの中島で鼎と同じく、嘉永元年に生れている。

13歳の時に大覚寺の小坊主となり、新在家にある誠塾に学び、さらに大覚寺の本山である永観堂でも修行と勉学をされたようだ。

明治27年(1894)帝国議会議員(現在の代議士)に当選してから、明治31年に東京府知事になり、大正4年(1915)には8回目の代議士当選を果たしている。

この放生池が出来たのが大正2年。鼎と龍はともに65歳。龍は8回目の代議士当選の2年前となる事から考えると、代議士で活躍中での玉垣奉納であったとようだ。

渡邊鼎と肥塚龍の共通点はと言われれば、正義感あふれる男だろうか。
大覚寺を通じてこの二人は仲がよかったに違いない。

※肥塚龍さんについては、『間森誉司さんの自作地域教材ふるさとの自由民権運動家肥塚龍』から拝借しました。

  
 鼎と仲の良かった小野周文の玉垣も鼎の玉垣の少し北側にある。

    
放生池南側の石碑を解読すると大正2年にこの池が造られた事がわかる。
正空真道住職は新舞子の船の上で鼎と一緒に写真を撮っていた方。


片岡家 筑前琵琶の調べ

2009年07月12日 | 歴史散歩

 

 

 昨日、網干区新在家の網干商店街にある片岡家において、新在家に在住する熊谷親子による琵琶の弾き語りがあった。

 片岡家は、江戸時代龍野藩南組大庄屋をしていた家で、元禄15年(1702)に建築された姫路でも古い町屋である。

 網干商店街の土曜夜店とタイアップした形で、去年に引き続き今年で2回目。

 クーラーもなく、団扇片手に聞かせて頂いた琵琶の音は、片岡家だけが江戸時代にタイムスリップした錯覚さえ与えてくれた。

 最初に、主催者を代表して谷口からお二方の説明があり、熊谷章香さんが「都落ち」をそのあと、熊谷櫻香さんが「安達が原」の弾き語りがあった。

 今年は、下の写真でわかるようにパンフレットもあるので説明ははぶきくが、「安達が原」の内容が怪談風だったので、調べてみると二本松市のHPの中に安達ケ原物語りが掲載されていた。





 18日の土曜日も午後19時30分から別の題目で弾き語りがある。

 弾き語りは二人で1時間もないくらいだが、あっという間に過ぎた。

 終ったあと、皆で冷たいスイカを頂いた。