興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

山本家住宅 (その11 金庫室)

2017年08月27日 | 山本家住宅

 6畳の和室で1間の床の間と金庫がある部屋です。
事務を行っていたと伝わっている部屋です。
網干銀行又網干町関係の方とのお金に関する話し合いや、莫大小(メリヤス)工場を経営していたので商談等お金に関する話し合いに利用した部屋なのでしょうか。


 大きな金庫が備え付けられています。

 竹内金庫製である事は間違いないようなので、
「鍵神博士」http://www.afrocontempodancetheater.com/ さんからからそのまま掲載させて頂きます。

竹内金庫
日本で一番古い金庫のメーカーが「竹内金庫店」というところです。
現在でこの竹内金庫製造の金庫が使われていることはほとんどないでしょう。
多くが骨董品扱いだったり、博物館に展示されているようなものです。中には現役で使えるようなものもあるでしょうが、今では使用するよりも骨董的な価値のほうが高くなっています。
もし家にとてもふる~い金庫があるというのならば一度じっくり観察してみてください。
「竹内製造」「東京市」「馬喰町」といった表記があって三本足の八咫烏のエンブレムがあればそれは竹内金庫の可能性が高いです。稀に同じようなエンブレムで「竹内製造」の表記がないものもあります。その場合は模造品の可能性が高いです。
竹内金庫が創立されたのは幕末のことです。横浜で火事が起こり、外国商館がその被害にあいました。大切な金庫も火事で焼けて壊れてしまったそうです。その金庫を直したのが竹内弥兵衛という鍛冶屋だったそうです。
このことをきっかけに弥兵衛は竹内製造を設立します。
エンブレムに描かれている「東京市」というのは架空の地名というわけではありません。明治22年から昭和18年にかけて実際に使われていた地名です。
もうひとつ竹内製造金庫の特徴をお伝えしておきます。それはダイヤル錠が「イロハニホヘト」になっているところです。なんとも時代を感じる趣ある金庫ですね。

 確かに、山本家住宅の金庫のダイヤルは「イロハニホヘト」です。
次回に写真を撮影してUPさせて頂きます。

「女性金庫診断士ちょこっと日記」http://blog.livedoor.jp/enomoto_safe/archives/52423961.html さんからもそのまま掲載させて頂きます。
日本の金庫の歴史では、洋式金庫から学んで日本で初めて金庫を製造したのが竹内金庫店と山田金庫店です。
明治初期から製造された国産金庫のさきがけ竹内金庫は鋼板と鋳物部材をリベットで組み合わせ、耐火材の砂を利用したもので、現在の金庫とは違って、漆黒の本体とエンブレムの金色が重厚なのです。
古い外国製金庫にはアンドリュース・レミントンなどがあり、日本製の竹内金庫以外の古い金庫には大倉金庫
・山田金庫・吉光金庫などがあり、さらに大谷金庫・萱内金庫・風間金庫・日本金庫・野原金庫・日の丸金庫・文祥堂・第一金庫など実際には見たことがない金庫もあります。
ちなみに・・・
*日本の金庫の歴史*
江戸時代      木製銭箱・車付長持・千両箱・からくり箱
1866年(慶応2年) 幕府献納の洋式金庫(ドル箱・金張箱)を鍛冶屋の中北米吉・
竹内弥兵衛が修理
その後、竹内金庫店・山田金庫店が洋式金庫製造
1877年       佐倉金庫店
1891年       伊藤喜商店
1899年       佐川製作所・熊平商店
1906年       黒田表紙店(コクヨ)
1909年       下田金庫(合)
1915年       大谷金庫
1916年       佐藤金庫
1917年       日進社(キング工業)
1920年       榎本金庫創業
1921年       大阪の金庫業者16名で「大阪金庫有志会」発足

竹内金庫他古い金庫について
1号 高さ1320・幅970・奥行820・重量不明
2号 高さ1320・幅790・奥行820・重量不明
3号 高さ1090・幅820・奥行760・重量不明
4号 高さ1090・幅700・奥行760・重量不明
5号 高さ 910・幅640・奥行640・重量不明
耐火材・・・砂  生産年代・・・明治初期~大正末期 1870年~1923年頃まで

 山本家住宅の金庫は上の写真にもありますが、№5とありますので、5号金庫のようです。
開閉されていないので、奥行きはわかりませんが、高さと幅の寸法はあっています。

 金庫の話はこれくらいにして、床の間の設えについてお話ししましょう。

 床は畳床、床柱は鉄刀木(たがやさん)、床框は楓(かえで)、落とし掛けは桜です。
山本家住宅を案内した時、この部屋は床が新建材に貼り替えられ、応接セットも現代風の決して高価とは言えない物なので、他の部屋から比べると金庫だけがある部屋のように皆さん思われるようです。
上の住宅見取り図を見て頂ければわかりますが、金庫室は住宅の中央に位置します。
防犯を考えた時、窓際に面しない部屋にしたのは納得がいきます。
その為、お日様が入らず少しうっと暗い部屋ですが、銘木を使った素晴らしい部屋です。


 山本眞蔵氏が当主であった山本家住宅という事なので、この金庫室を語る時、網干銀行網干町支店の説明ははずせません。

実際、山本家住宅に来て頂いた方には時間があれば網干銀行網干町支店に足を延ばす様おすすめしています。

 網干銀行網干町支店は現在外からしか見れませんが、内部公開の時の写真を掲載して説明させて頂きます。

【網干銀行網干町支店】
 網干銀行網干町支店は明治29年1月に営業を開始しています。
当初の銀行が同じ場所だったのかは、わかりませんが現在の建物は大正11~12年に完成したようです。
ちなみに網干銀行本店は、旭陽村之内髙田村において明治27年11月に営業を開始したようです。
明治32年12月発行の『揖保郡地誌』と『姫路市史』から

 山本眞蔵氏は、大正3年7月に38歳で網干銀行重役に就任。
昭和5年2月の網干銀行解散までの間、頭取にもなられたようで、この建物が完成したであろう大正12年は47歳でした。

 山本眞蔵氏は、大正7年完成の山本家住宅では施主として、又同じ大正7年に大改修された興浜金刀比羅神社では工事員として設計には相当関与したであろうと思われる形跡がメモや書斎に残る建築関係の書籍が物語るように網干銀行網干町支店の設計にも関与されたと想像できます。

 山本家住宅が公開された時、金庫室の金庫については、網干銀行網干町支店の金庫と製造会社が同じかと思いましたが、住宅用の金庫と銀行の金庫については、大きさや構造などから製造会社が別のようでした。
網干銀行網干町支店の金庫については、エンブレムから大谷金庫製という事は判明しました。

「株式会社 大谷金庫本店」http://www.otani-safe.co.jp/  さんからからそのまま掲載させて頂きます。
弊社は、初代大谷栄之介が明治26年、当時の東京市京橋区に店舗を設け、金庫及び鉄扉の製造販売を目的に創業。
以来、業界に先駆してお客様のご要望にお応えしつつ、父子6代110年余年を経て、国内はもちろん、遠く海外にまで進出してまいりました。
その間、昭和35年1月、株式会社大谷金庫本店を設立、現在に至っております。また、創業よりの信条として「まさかの時、役に立つ金庫」の製作に精進して、その真価は既に大正12年9月1日に起こった関東大震災、ならびに戦災時における幾多の完全奏功の実例などの示すところです。

協力:網干歴史ロマンの会・あぼしまちボランティアガイド
    銘木関係:原匠江尻店長

※山本家住宅を見学された方はご存じのように、これから紹介させて頂きます和室部分につきましては、立入禁止区域はございません。気になる部分があれば近くからじっくりとご覧ください。但し、調度品等にはお手を触れないようご理解・ご協力を頂きたくお願い致します。

※山本家住宅は、第1、第3日曜日の10時00分~16時00分に公開中です。


山本家住宅 (その10 離れ和室8畳,6畳)

2017年08月16日 | 山本家住宅

洗面所のステンドグラスを背に庭の方に廊下づたいに行くと、平屋建ての離れ和室です。
この和室は数寄屋風書院造りで、8畳6畳の続き間になっています。

和室は、床の間の設えで真・行・草と格式を分ける事ができますが、ここ山本家もこの和室が真の和室、このあと案内致します2階南側の和室が行の和室、2階北側の和室が草の和室になっていると思われます。
床の間の材料やつくり等の違いを楽しみながらご覧下さい。

8畳床の間の床柱は北山杉、床框は北山杉を割ったもの、床は畳床、部屋の天井板は天然の屋久杉です。

天井板の南半分は雨漏りの修繕をしたためか、違う板が貼られています。
下の写真は、1枚目が雨漏りの為に修繕された天井板。
2枚目の写真は左が南で、右側の天井板が当初からの屋久杉です。
3枚目の写真は当初からの屋久杉の天井板です。


床脇の天袋は欅、違い棚は楓、地板は栃です。6畳との間の欄間は桐材です。

違い棚の棚板の雛留め(ひなどめ)も見事です。

6畳の間の床の間、地袋板は欅(けやき)の玉杢(たまもく)で入手困難な高級銘木です。

襖絵は小野周文が晩年興浜に帰って来られていた時に描かれたものです。

当時の和室としては高い天井となっています。
雪見障子は「その9和室6畳」で紹介したのと同じ構造ので一般的な上下スライド式ではなく横にスライドする形式となっています。

庭側のガラス戸も標準のものより少し大きくなっています。

この住宅は迎賓館と書きましたが、この和室を含めこれから紹介する全ての和室において、遠方からのゲストが宿泊された形跡が残っています。
それは、部屋の長押(なげし)の隅に夏場に使用した蚊帳を引っ掛ける金具が残っている事です。

外側の造りもそれぞれ見事です。

大きな沓脱石(くつぬぎいし)を紹介して離れ和室の紹介を終わらせて頂きます。

協力:網干歴史ロマンの会・あぼしまちボランティアガイド
    銘木関係:原匠江尻店長

※山本家住宅を見学された方はご存じのように、これから紹介させて頂きます和室部分につきましては、立入禁止区域はございません。気になる部分があれば近くからじっくりとご覧ください。但し、調度品等にはお手を触れないようご理解・ご協力を頂きたくお願い致します。

※山本家住宅は、第1、第3日曜日の10時00分~16時00分に公開中です。


山本家住宅 (その9和室6畳)

2017年08月15日 | 山本家住宅

6畳の和室の紹介です。
ステンドグラスがある廊下や洗面所を通り過ぎて、庭に面した数寄屋風和室の離れ和室に向う動線とは違う奥まったところにこの6畳の和室があります。
この和室の南側には、山本眞蔵氏が長男の博通氏の婚礼の為だけに建築したと伝わる、15畳の平屋の和室が有り、昭和30年初頭に興浜の大工によって興浜金刀比羅神社前の仕出し魚屋の「まる万」の2階部分に移築されています。
この話は、シリーズ終了後番外編として掲載する予定です。

さて話を6畳の和室に戻しましょう。この部屋は建築当初何に使われていたかは不明です。
現在、タンスや鏡台等が残されていますが、これは、山本眞蔵氏の長男である博通氏(明治34年7月17日生・昭和4年2月2日つゆこさんと結婚。昭和38年10月2日没)の奥さんであるつゆこさんが博通氏が亡くなってから使用していた部屋と聞いています。
この山本家住宅で唯一生活の匂いがする部屋です。

床の間は床柱に黒柿、床框に黒檀とそれぞれ高級銘木を使用しています。





山本家住宅の障子の雪見障子は上下開閉式では無く、左右に開閉するつくりになっています。

 

協力:網干歴史ロマンの会・あぼしまちボランティアガイド
    銘木関係:原匠江尻店長

 

※山本家住宅を見学された方はご存じのように、立ち入り禁止箇所からの写真が掲載されておりますが、山本家住宅を管理しております「網干歴史ロマンの会」の了解を得ております。見学の際は調度品等を傷めるケースがありますので、赤い絨毯部分のみからの見学にご協力をお願い致します。

 

 ※山本家住宅は、第1、第3日曜日の10時00分~16時00分に公開中です。