興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

山本家住宅 (その1外観・正門)

2017年05月28日 | 山本家住宅

久しぶりの投稿となります。
去年から第1,3日曜日に公開されている姫路市網干区興浜70番地の山本家住宅についてシリーズで投稿する予定です。
その1として外観と正門について書いてみます。
タイトル写真は、金刀比羅神社東側から高所作業車を使用して少し高い角度より撮影した写真です。

右奥の大屋根は大覚寺です。左上の煙突はダイセルです。

山本家住宅は平成元年7月1日付けで姫路市都市景観重要建築物等に第1号で指定されました。
山本家住宅洋館部分は大正7年に竣工しました。



大正10年揖保郡郡会議長時代の山本眞蔵(45歳) 『兵庫県郡役所事蹟録』より

応接間に掛けられている写真、昭和9年網干町長退任時(58歳)の時の写真と推定されます。
数年前、亡くなられた山本眞蔵氏のお孫さんの昭氏に見せて頂いた事がありますが、重厚な額縁に入った大きな写真だったので網干町役場に掛けられていた歴代町長の写真と推定しました。

この洋館を建てた山本眞蔵氏は、大正7年(42歳)当時の役職は次の通りです。
網干銀行重役(大正8年監査役・大正13年頭取就任?)
網干町会議員名誉助役(昭和4年町長就任)
揖保郡会議員副議長(大正10年議長就任)
燐寸製造業である山本合名会社代表(明治38年の職工数130名)

明治・大正時代の地方の名士にとって、洋館を建てることが大きなステータスだったのでしょう。



外側の壁板は日本建築の縦張りで建物の壁板は明治・大正期の西洋建築に多用された下見板張り(したみいたばり)という水平張りになっており、木材は何れも栂(とが)材を使用しており日本建築と西洋建築を見事にミックスして正面からの視覚効果を考えたつくりになっています。
(※下見板張り:ダイセル異人館・塩舎・昔の網干小学校の校舎)


屋根瓦は普通のものより小さく軒瓦には山本家の家紋である桐が焼かれています。


3階建の建物に圧倒されて、どうしても上ばかりを見てしまいますが、外壁の基礎となる石積みが、非常に丁寧な仕事が施されています。
石工(いしく)と呼ばれる職人がひとつひとつの石を曲線に加工し表面を叩き上げて積み上げています。
これらは全て手仕事です。建築年代と仕事の丁寧さから大覚寺の雨水桝と参道敷石、興浜金刀比羅神社の燈籠と山本眞蔵が寄進した鳥居を施工した地元余子浜村のこのブログに良く登場しました石川俵治の作と思われます。
山本家の玄関廻りの石積みや裏側の高い石積み又庭の石仕事も石川俵治の仕事と思われます。

建物を見上げながら、正門の門扉をくぐられる時に、電話3番と書かれた板札をご覧ください。
この家の電話番号を示したものです。この地方でいち早く電話をひかれた事がわかります。

これからシリーズで紹介します建物は、住居としてではなく、山本眞蔵氏が迎賓館として建てたものです。
内部の特徴は、洋室・和室共に天井が高くつくられ、圧迫感がなく、より広い空間をイメージさせています。
財をなして贅を尽くし、材料についても金額に糸目をつけなかったと伝わるように、銘木や高級石材が随所に使われています。



協力:網干歴史ロマンの会・あぼしまちボランティアガイド

※山本家住宅は、第1、第3日曜日の10時00分~16時00分に公開中です。