燈籠 その3
本殿部分は約1m東側の道路からは約1.5m高くなっている
興浜の金刀比羅神社は大正3年より6年にかけて村人総出で現在のように本殿部分を高くして再建された。この事は興浜の何軒かの家で先祖から聞き伝えがあるので間違いない事のようだ。
ちなみに本殿東のクスノキは地面が低い時のまま土盛りしたようだ。
また土盛りをした土は金刀比羅神社西側の揖保川の対岸から桟橋を組んで運んだとの事。
大変な工事というかボランティアであったようだ。
ではなぜそのような大変な土盛りをしたのかという事を考えた。
この事はのちほど書くつもりであるが、この神社の正面玉垣にある渡邊鼎と小野周文が大きくかかわっていると考えている。
渡邊家は興浜の本町通り金刀比羅神社からすぐ東側にある。他の家とは違い50cmほど土盛りをした上に建っている。
これは渡邊鼎が大阪府南区長をしていた明治18年に経験した水害を教訓にしたとの事である。
同じその時、小野周文も大阪南区で活躍していた。
渡邊鼎と小野周文は晩年ここ興浜に帰ってきた。
渡邊家にはふたりが仲良く晩年を過ごしたと伝え聞き、ふたりの俳句の短冊が大事に保管されている。
このふたりこそ、もしもの水害から金刀比羅神社を守る為、西側の堤防と同じ高さまで、金刀比羅神社を地上げするべく興浜住民に訴えた人に違いないと考えている。
ついでといっては何だが、この水害の事を少し調べてみました。
『明治18年6月初旬より降り続く雨により枚方の堤防が決壊し、大阪市はほぼ全て床上浸水しました。その激しさはあたかも大阪の古代を再現するような状況であったということです。大阪市街の浸水町数は東区28、南区46、西区174、北区92の各町で計340町におよび、大阪城~天王寺間の一部高台地域を除くほとんどの低地部が水害を受け、被災人口は276,049人にも達しました。また、808橋といわれた大阪の橋は30余橋が次々に落ち、橋によって通行の要衝を連絡していた市内の交通は完全にマヒ、市民生活は困難を極めました。』
明治18年その時、渡邊鼎38歳・小野周文39歳。
ともに大阪でこの水害に遭遇しています。
この土盛りをした時に造られた燈籠を紹介します。
周旋人に小野周文の名前が残る、興浜自慢の燈籠です。
石は香川県青木産
文字は周文さんの揮毫でしょう。
本殿側より燈篭を望む
東側の燈籠 西側の燈籠
同じく西側燈籠には石工の名前が
普段見る事はできませんが、拝殿内には
板に金文字で書かれた額があげられています