興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

新在家墓地完成ニテ御座候

2012年08月13日 | 歴史散歩

 姫路市網干区新在家において市道拡張に伴う新墓地築造整備工事が終了しましたので、その中の石碑とともに報告致します。

 12月21日に魚吹八幡神社のお祓いから始まり、今月の5日に完成式があったようです。

 

 

 

  
 平成23年12月21日魚吹八幡神社より澤宮司・浦上権禰宜が来られてお祓いが行われた。

 

 もともと市道横にあった二本の石碑は、新墓地に移された。

 ひとつは、手塚與三五郎氏の漁業功労者としての石碑が大正10年に建立。

 もうひとつは、大正9年に手塚傳治氏が遭難船を救助に行って亡くなられた石碑。

 手塚與三五郎氏と手塚傳治氏の関係はまだ聞き取りしていないが親子か親戚であろう。

 

  

    

                      

 

 明治・大正時代の石碑には良く書かれている単語であるが、最近は余り聞きなれない単語を『広辞苑』で調べてみた。

 資性(しせい)      : うまれつき。天性。
 仁慈(じんじ)       : いつくしみめぐむこと。なさけ。
 勇敢(ゆうかん)     : 勇ましく果断なこと。
 夙ク(はやく)
 卒タ(おわった)
 勇躍(ゆうやく)      : 勇んでおどりあがること。
 厄(やく)           : くるしみ。わざわい。
 表旌(ひょうしょう) : 表彰
 識(しき)                : 心おぼえに書きしるしておく事

 この石碑の碑文の最後が珍しいように思っている。
 山内佐太郎富田佐一書とあるが、普通はのところがとあるのが多いように思う。


辛夷(こぶし)の花がほころぶように 豪商灘屋で候

2012年02月08日 | 歴史散歩

 中央公論の2月号に諸田玲子さんの「辛夷の花がほころぶように」が読み切り短編小説として掲載されている。

 舞台が網干区浜田なので少し紹介したいと思う。

舞台は、四国丸亀京極家の飛び地である網干。
瀬戸内に面した播磨国の網干港で廻船業を営む、豪商灘屋の賄い場で働く“おあん”15歳。
灘屋は主に赤穂から上質の塩を仕入れ、京・大坂へ輸送していた。
手代の東太は、難破した船から助けられて灘屋で働く。
東から航海してきた船に乗っていたので東太、難破したおり記憶と片目をなくしているが陽気でくったくの無い若者。
おあんは訳があって四国丸亀から飛び地である網干に逃げて来ていた。
そんなおり灘屋の座敷に四国丸亀京極家の勘定方がやって来た。
同行した水夫の一人がおあんの事を覚えていた。

おあんは四国丸亀に居た時、権蔵の店の遊女だったのだ。
訳あって権蔵を殺して網干に逃げてきたのであったが、その男は全てを知っていたようだ。

おあんは灘屋から逃げるように抜け出し、隣の禅寺に逃げ込んだ。
灘屋の隣は臨済宗妙心寺派の禅寺。丸亀京極家から土地を拝領、巨資を投じて寺を建立したのは灘屋の主で、廃寺になっていた龍門寺からその名をもらい、幼なじみの盤珪国師を迎えて播州随一の禅道場とした。
おあんは盤珪国師と貞閑尼に全てを打ち明け、貞閑尼の庵である不徹庵にかくまってもらう事になった。
しばらくして事件が起こった。灘屋のお宝である香炉が盗まれたのだ。その香炉を丸亀で売り払い銭にしようとした男が捕らえられた。
その男は、灘屋でおあんの権蔵殺しを知った男であった。
香炉は灘屋の手代である東太から口止めとして手渡されたものであると供述。

権蔵はおあん好きさのあまり何もかも知らぬ存ぜぬで通したが、その後東太がどうなったのかはわからないまま時は過ぎた。
おあんは貞閑尼に盤珪国師に東太を助けてほしいと頼んだ。
おあんが灘屋を出て不徹庵で貞閑尼に世話になって一年が過ぎた時、貞閑尼はおあんに自分の里である丹波国柏原で暮らす事をすすめる。
貞閑尼はおあんが柏原に行く時のお伴を用意していた。用心棒であり柏原に着いたら夫婦となり一緒に暮らすように言った。
その男こそ盤珪国師が守っていてくれた東太であったという話である。

 この物語の舞台である、姫路市網干区浜田の龍門寺・龍門寺の墓地にある灘屋の墓、貞閑尼の墓・盤珪国師の墓・盤珪国師生誕の地である義徳院 ・貞閑尼の庵であった不徹庵を写真で紹介しておく。

龍 門 寺


義 徳 院

 

不 徹 庵


貞閑禅尼木像俗名田捨女(物語では貞閑尼)


歴史三昧の一日 その参 『龍野城天守閣で候』

2011年11月29日 | 歴史散歩

 平屋の御殿しかないはずの龍野城に天守閣が出現。

 たつの市の龍野商工会議所青年部が、発泡スチロール製の天守閣を築城。

 写真は27日(日)の午前11時頃に撮影したものであるが、26日に完成し27日までの命だと新聞に書いてあったので、いいタイミングでお目にかかれた。

 龍野歴史文化資料館の中庭に足場を組み、南面と東面に発泡スチロールを貼り付けたものである。。
大きさは、高さ15m・幅9m・奥行7mの三層構造。モデルは宇和島城との事。

 強風の為24日の完成予定が、ぎりぎりになったようである。確かに祭日の23日の夜は強風が吹いていた。

 
 揖保川左岸の堀家住宅から見た、2日限りの天守閣。

 このあと急用ができたので、室津の海駅館には行けなかった。

 
 帰り道、現在揖保川下流の本町橋の橋脚工事が進行中。

終わり


歴史三昧の一日 その弐 『堀家で候』

2011年11月28日 | 歴史散歩

 たつの市龍野町にある県指定重要文化財「堀家住宅」の特別公開に行って来た。

 たつの市小宅小学校6年生154名が「地域の歴史「語り人」プロジェクト」として案内役を務めており、興ちゃんにも女子児童が詳しく説明しながら母屋まで案内してくれた。

 龍野城下から揖保川ごしに東側の左岸に大きな楠と白壁が連なった建物が堀家住宅である。

 約6,400m2という広大な敷地に、主屋1棟、座敷2棟、蔵12棟、付属屋6棟、門7棟、塀6棟が現存し、宅地と共に兵庫県指定重要有形文化財となっている。

 
 長屋門の前が受付でここから小学生が案内してくれる

 
 揖保川沿いの楠と白壁が連なる堀家住宅

 
 漆喰壁に鏝を使って描かれた漆喰の装飾技法のひとつである「鏝絵」で家紋の「揚羽蝶」

 
 主屋の棟瓦にも家紋の「揚羽蝶」

 
 もちろん陣笠にも家紋の「揚羽蝶」

 
 何番蔵がわからなかったが、蔵の基礎石組に興ちゃんは一番感動した。
 当時の燻銀の石工の作であろう。

  

  
 苔のある庭が美しく整備されている。井戸枠も自然石をうまく細工してどっしりと美しい。

つづく


歴史三昧の一日 その壱 『加藤高文 幕末風説/風聞覚書で候』

2011年11月27日 | 歴史散歩

 

 仕事が朝早く、帰るのが遅い日々が続きブログの更新を中断していたが、もう少しで仕事が落ち着きそうになのでブログの更新を再スタートする事とした。

 今日は歴史巡りのような一日になったので、日記がてらに更新する事にした。

 朝から魚吹八幡神社へ。
 網干公民館古文書学習会で網干区余子浜の加藤家の幕末の歴史を解読して本にしたのでそれを届けに行った。
と言うのは『加藤高文 幕末風説/風聞覚書』と題されたその本の冒頭を飾るページの写真がその理由である。
嘉永七(1854)年の黒船来航の際に「武運長久」と書かれた祈祷札が魚吹八幡神社に保管されている。それを興ちゃんが撮影したのでお届けに参上したという次第である。

    
 左は平成16年4月に発行された加藤家文書『飾磨県奉職日誌』と今回発行された『加藤高文 幕末風説/風聞覚書』
 中は『加藤高文 幕末風説/風聞覚書』で祈祷札の写真が掲載されたページ
 右は興ちゃんが撮影した祈祷札のカラー写真 

 魚吹八幡神社をあとにして向かった先は、室津にある海駅館である。
現在、特別展「琉球使節の江戸上り」が開催中。
ここでとんだ失敗をしてしまった。
10時20分に到着し見学したのだが、13時30分から「江戸の流行:琉球人がやって来る」と題した講演会があるのを忘れていた。
このあと龍野に行くのだが、13時30分に引き返す事が出来るのか?

  

 

つづく


角倉歴史塾 掛軸展

2011年05月29日 | 歴史散歩

 今日と明日、姫路市網干区余子浜にある「あぼしまち交流館」2Fホールで、同所で毎月第4日曜日に活動を行っている「角倉歴史塾」のメンバーが掛軸展が開催されている。

 網干の昔の写真等も展示されている。

 本日は残念ながら、季節はずれの大型台風の襲来という事で、来館者は少なかったようだ。

 明日は天気が回復すると思われるので、たくさんの来館者があるであろう。

   

 

 

  

 


網干龍門寺安居会(あんごえ)

2011年05月04日 | 歴史散歩

今日の朝8時から、龍門寺の修行僧23名が網干の町中を托鉢された。

龍門寺において行われている、この時期と11月との年に2回の安居会(あんごえ)と言う修行のひとつである。

2009年5月8日に投稿した「雲水あぼしを行脚する(龍門寺安居会)」の記事に詳しく書いたので、今回はあぼしまち交流館での接待のお礼に帰り際に般若心経を唱えられた様子を動画でUPする事にした。

網干龍門寺安居会


勲章で候

2011年01月30日 | 歴史散歩

  知り合いの方の家から勲章が出てきたが、何の勲章かわかりますかとの問い合わせがあった。

 珍しいのでちと調べてみた。ブログに使わせてもらっていいとの事だったので、掲載する事にした。

 タイトル写真は下の「支那事変従軍記章」の裏面である。右側から「支那事変」と書かれてある。

支那事変従軍記章:支那事変に従軍した日本軍人に与えられた従軍記章。
章は青銅製。
表面に菊の御紋・やたカラスに軍旗・軍艦旗が交叉し、背景に瑞雲と光。
裏面は山、雲及び波の図、中央に支那事変と刻印。
従軍記章(じゅうぐんきしょう)は日本が参戦した戦役・事変に関わった人物へ、これを顕彰するために日本国から贈られた記章である。
支那事変記念章令昭和14年公布。
昭和21年3月29日勅令177号を以て廃止。

   

日本赤十字社社員章

   

 
写真上の勲章裏側の文字は、明治二十一年 日本赤十字社とある。

勲八等白色桐葉章 
戦後に叙勲された日本の勲章のようだ。

   

 
この文字が読めなかった。残念で候。


福砂屋のカステラ

2010年07月25日 | 歴史散歩

 蒸菓子(むしがし)  干菓子(ほしがし) カステイラ 砂糖漬(さとうづけ) 
 製造処(せいぞうところ) 長崎舩大工町(ながさきふなだいくまち) 
 福砂屋大鋪(ふくさやだいほ)


 先日長崎の方よりこれが正真正銘の長崎に伝来してきたカステラだと頂いたのが、「福砂屋」のカステラだ。

 寛永元年(1624)創業の福砂屋は、今尚職人の手作りで機械による大量生産はされていないようだ。

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」も長崎編で、ちょうど本日放送では長次郎がカステラづくりで一儲けしようと発案する場面もあるようで、タイミングがよかったので記事にしてみたが、確かにこのカステラ、卵と砂糖の甘みは格別で、下になった部分のザラメの歯ざわりが他に無いとの事だったが、興ちゃんが食べた時はザラメ部分は解けており残念ながら歯ざわりは楽しめなかった。

 
カステラ本家福砂家は、インターネットのお取り寄せは無いようで、一番近いところでは、そごう神戸店に直売店があるようである。


















下に写っている点々がザラメ砂糖の溶けたもの





西の馬場 渡神殿(わたりしんでん) 網干公民館主催歴史ウォーク 旭陽南地区を訪ねて 2 

2010年06月01日 | 歴史散歩

 前回から引き続き、今回は網干歴史ウォークにおいて興ちゃんがガイドをした「魚吹八幡神社お旅所(おたびしょ)」別名「西の馬場(ばば)」について簡単に書いてみます。

魚吹八幡神社 お旅所
 毎年10月21・22日には魚吹八幡神社の秋季祭礼があります。
御祭神である神功皇后(じんぐうこうごう)・応神天皇(おうじんてんのう)・玉依姫命(たまよりひめのみこと)が21日の宵宮の時にここ「お旅所」にある渡神殿(わたりしんでん)に神輿で来られて一泊されます。
 その時に氏子である興浜・新在家・余子浜・垣内・大江島・吉美・平松の七ケ村が道中を御神燈で照らし無事にこのお旅所に渡られるようにしていた事が、現在、魚吹八幡神社の秋祭りが「提灯まつり」の別名で呼ばれている由縁です。
 「お旅所」は別名「西の馬場」と呼ばれていますが、ここ津市場村だけは「宮の馬場」と呼んでいるようです。
 渡神殿には津市場の提灯が掛けられていて、かつてはお旅所の外周を津市場の村人が提灯を持ちお迎えされていたようです。
 22日の本宮祭には御祭神は魚吹八幡神社の本殿にお還りになられます。


というのが当日の虎の巻きであるが、補足説明があるので紹介する。

1.この歴史ウォークをする前に、ガイドを務めるメンバーで会議を行い、それぞれの案内文を披露する時に指摘された事であるが、その時「渡神殿」を”としんでん”と言ったところ”わたりしんでん”と言うだと皆さんから言われました。
こういう指摘をされるので先輩達との交流に感謝です。
舟で人を渡す場所は、渡し場(わたしば)であるし、ふたつの建物をつなぐ渡り廊下の事は渡殿(わたどの)と言うし、季節によって住む場所をかえる鳥は渡り鳥(わたりどり)と呼ぶのだから、神様が年に一夜お渡りになられる神殿は「わたりしんでん」に間違いない。ただ最近”としんでん”と呼ぶ祭り関係者を”わたりしんでん”に訂正する事ができるだろうか。これからの課題である。



網干公民館主催歴史ウォーク 旭陽南地区を訪ねて 1

2010年05月30日 | 歴史散歩


  4月25日(日)10時~12時まで毎年恒例の網干公民館主催の歴史ウォークが行われた。

 網干地区は全て過去にまわった為、今年は旭陽南地区に行く事になった。

 興ちゃんが説明した、「西の馬場 渡神殿」と「おたら池」については次回に掲載する予定で今回は当日の足取りを写真で振り返ってみる。

 タイトル写真は、集合場所である網干区垣内の狭間公園で出発前に撮影した参加者の集合写真である。


  
 左は狭間公園からの出発に先立ち、「お旅道」についての説明中。
 右は、「魚吹津の構」。
 
   
 左は偶然出くわした坂上村の子供屋台で、右は「徳寿院」。
   
 左は徳寿院の案内版で、右は魚吹八幡神社東門から入り鐘楼のところで説明を聞く。
 
   
 左は魚吹八幡神社拝殿・本殿東側を通り奥にある敷島神社へ。
 右は敷島神社で説明を聞く。

  
 
「盛徳寺」へ。こちらはすばらしいHPがあるので一度ご覧下さい。
http://www.seitokuji.jp/
     







文覚上人遺愛の石と文覚上人像を見せて頂きました。         

          
角戸の石仏へ。

             
    
 左は現在津市場屋台蔵がある公園内の「火揚げ場跡」。

 
右は津市場村の稲荷神社。
 
稲荷神社に奉納されている、「火揚げ」の絵馬。
小野周文作と聞いていたのだが、違うようで、宿題となった。
後に色を付けたのは、周文の弟子である周山。これは間違いない。

                                       つづく


ひなまつりで候

2010年03月03日 | 歴史散歩

 姫路市網干区新在家に300年の歴史が刻まれた片岡家がある。

 瓦に残る脇坂家の輪違紋が江戸時代龍野藩南組大庄屋を勤めていた事を今も物語っている。

 その片岡家が2月27日~3月7日まで、家の中は古い「雛人形」がたくさん飾られている。

 まちなか歩きのイベントのコースにもなっている。

 どうも雛人形は苦手なので説明ははぶかせて頂くが、興味を持った古い雛人形を紹介する。

 

 


謹賀新年 長安周得『竹に虎図』

2010年01月01日 | 歴史散歩

 平成22年は干支では庚寅(かのえとら)に当るので、長安周得が安政元年に描いた「竹に虎図」で今年はスタートである。

 長安周得は赤穂出身の日本画家であり、文政10年(1827)朝廷から法橋位に叙せられた。

 興浜の偉大な日本画家である小野周文の師匠であり、河野鉄兜とも交友があったようである。

 現在赤穂花岳寺の本堂前の天井に揚げられている縦5間半×横1間半の大作である。
 この絵は周得後裔(こうえい)の長安淳二氏が赤穂の某旧家より収得したものを、花岳寺に寄進されたものである。
 周得67歳、安政元年(1854)寅年の作である。紙幟(五月幟)であり、画題が竹に虎であることから、男子出生に因んで、周得に描かせたものであろう。紙幟が仰ぎ見るものであるため、仰角で見た場合に正常の頭身に見えるように、虎の姿が長細く描かれている。

田淵記念館冊子『法橋長安周得』より

         


富島神社 村紋で候

2009年10月26日 | 歴史散歩

 今年の1月26日に投稿した「あぼしまち交流館のオープンと村紋」という記事で網干6ケ村の村紋(村印)について書いたが、今回はたつの市御津町の富島神社バージョンである。

 と言っても詳しく調べたわけでは無く、祭り見学中に撮った写真を投稿するだけの記事ではあるが、祭りを見ながら考えていた事がある。

 釜屋村の村紋についてだ。

 1月26日の記事には、村紋は読み書きがあまりできなかったであろう江戸時代のお百姓さんの為に、田んぼの堰板(せきいた)に印をして、勝手に他村の堰板を開け閉めしないようにというような内容を書いたが、もし自分が村役人であったなら釜屋村の村紋のような複雑な図案を提案するであろうか。という事だ。

 疑問を残しながらの投稿であるが、投稿するといろんな方から意見を頂けるのが、このインターネットのいいところである。

  

   


富島神社 秋祭り宵宮

2009年10月25日 | 歴史散歩

 10月24、25日は、たつの市御津町の富島神社秋祭りである。

 昨日の宵宮は、苅屋子供会の提灯行列に昨年に引き続き甥子のボディーガードとして同行した。

 タイトル写真は、苅屋屋台蔵の近くの横吊提灯。

 子供会が宮入したあと、苅屋公民館に行って提灯と交換にお菓子をもらい、そのあと大人の提灯練りを見物したあと、富島神社の前を通った時に「苅屋若中」の方々がゴミをひろってまわっていた。

 魚吹八幡神社では、提灯練りの後と本宮の次の日の朝など清掃活動をしているが、富島神社でも秋祭りを継続させる為に近隣からの苦情が無いように清掃活動を行っているようだ。いいところに遭遇し、気持ちのいい秋祭り見学となった。

 がんばれ苅屋若中。本日もピンクの鉢巻を締めて見学に行く予定だ。