興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

金刀比羅神社 提灯吊り・注連縄飾り

2007年12月30日 | 興浜新聞

金刀比羅神社 提灯吊り・注連縄飾り

 本日午前9時より小雨がぱらつく中、金刀比羅神社において正月祝いの提灯吊りと注連縄飾りが協議員の皆さんで行なわれました。これが、興浜の年中行事の最後となります。

 皆さんよいお年を。


放生池

2007年12月29日 | 魚吹八幡神社

魚吹八幡神社 放生池 

 12月23日の【魚吹八幡神社壮青年会第4回大掃除】で春麗さんから放生池についてコメントが入ったので、魚吹八幡神社澤宮司に放生池について聞いたところ、魚吹八幡神社は京都石清水八幡宮の別宮であり、その石清水八幡宮の『石清水祭』が放生池の原点と聞き、放生池について調べてみました。

 石清水八幡宮の9月15日に行なわれる『石清水祭』は、生きとし生けるものの平安と、国家の安泰を祈る大祭です。幕末までは、『石清水放生会』と呼んでいたようです。仏教の不殺生の教えにもとづき、生き物を放ち、祖先の霊を追善供養する宇佐神宮の放生会にならい、石清水八幡宮では、863年にはじまったようだ。
 祭り当日の朝8時、頓宮東側の放生川で、魚鳥を放つ放生行事があり、胡蝶の舞が奉納される。放生池は頓宮の北側にあるようです。

 石清水八幡宮は僧侶によって勧請されたので、仏教とは切っても切れない関係にあるようです。かつては『八幡宮寺』ともよばれ、護国寺という神宮寺により総括された、寺院と一体の宮寺であったようです。

 


池の中央部分に放生池の石碑がある
裏側に発起人の名前と明治19年修繕の文字がある
発起人の中に興浜惣代として石田忠次郎・茨木宗治の名前がある

 魚吹八幡神社の放生池は明治19年頃に古い社務所の建築と同じ時期に修繕されたようだ。ただ、上の写真のように玉垣に囲まれた現在の形になったのは、平成の始めである。防火用水設備も兼用した構造になっている。宮司さんの話によれば、新しい放生池になってから2回防火用水として役目を果たしたようです。一度目は平成8年2月に魚吹八幡神社西側の家屋火災の時、二度目は5年ほど前の拝殿でのボヤの時です。二度目がボヤでおさまった影の功労者は、現大江島惣代の前田茂さんと聞いております。

 

 去年完成した、魚吹八幡神社平成の新社務所の中に坂上の旧屋台が展示されている。宮司さんの説明を聞いてわかった事ですが、狭間の彫刻は4面あるのだが、正面が神祗物(放生会)、他の面が武者物(本能寺織田信長)、女物(巴御前)等決まっていたようです。正面には昔、役人が新任されて村に初めて来た時、鶴を放ちめでたいと喜んでいる様子を表しているようです。まさしく放生会です。
 ※( )は、坂上屋台の狭間彫刻

 

 


興浜にある大覚寺にも放生池がある
 


興浜の風景 Vol.1

2007年12月24日 | 興浜新聞

  興浜イルミネーション

 興浜栄町に毎年この時期にイルミネーションがきれいなお宅があります。
興浜本町通りより1本南の筋になる栄町の通りではこのお宅を合わせて3軒きれいなイルミネーションをしています。

 


 興浜は現在、本町・栄町・関町・中之町・南町・南新町に分かれています。
南新町は最近にできた町ですが、それ以外の町は昔よりあるようです。
上の写真は魚吹八幡神社楼門前にある文政4年の燈籠に刻まれている興浜の町名です。興浜は奥之となっています。右より本町・浦町・関町・中之町・南町と書かれている事がわかります。上のイルミネーションの通りの栄町は今でも村の長老達は本町の裏側なので、裏町と呼んでいます。魚吹八幡神社の燈籠の文字がなぜ裏町ではなく浦町となっているのかは、漁業関係者すなわち浦人が多く住んでいた通りだからだと推測されますが、詳しく栄町の方に聞いてみる必要があると思っています。

 


魚吹八幡神社壮青年会 第4回大掃除

2007年12月23日 | 魚吹八幡神社

  魚吹八幡神社壮青年会 第4回大掃除

 

 魚吹八幡神社壮青年会が4年前より、境内の年末大掃除と注連縄張りを手伝っています。
 今年は百名以上の若衆が集まってくれました。その中から興浜の若衆の清掃作業を紹介します。


澤宮司さんの挨拶のあと各ブロックに分かれて作業内容の確認です



最初に始めた年にした場所を例年する事になっているのが現状です
興浜は楼門の清掃です
鳥の糞が多いのでみんなマスクを着用しています

 


今年は興浜の石田造園さんのバケット付きユニック車が登場
去年完成した新社務所の北面の窓掃除も興浜が担当しました

 


3年前より放生池の清掃を天満さんがしています
池の水を吸出してきれいにしました
僕も少しだけ手伝いました
天満村さんご苦労様でした


                              写真提供 魚吹八幡神社


金刀比羅神社 その4

2007年12月16日 | 金刀比羅神社

 燈籠 その1

 興浜に鎮座する金刀比羅神社は安政七年(1860)四月八日に勧請されたと、魚吹八幡神社が氏子の神社を明治時代から記録している神社明細帳にある。
 金刀比羅神社に存在するものの中で最も古いと思われるのが、南側より鳥居をくぐり御社地に入ってすぐ両側にある高さ約3.3mの2基の燈籠です。
 この燈籠は2基が対になり建立されたものと思い込んでいたが、よく見るとそれぞれ建立された年代が違う事がよくわかる。
 下の写真のように並べてみるとよくわかるが、2基の【常夜燈】の文字をくらべると明らかに違うという事がわかる。西側の常夜燈に【文政七甲申天】・東側の常夜燈に【天保十四年癸卯九月】の文字が証明している。 

  
        西側                東側

西側の常夜燈 【文政七甲申天】

  

                         
 【佐々木大神宮】は京極家始祖の京極高次が近江佐々木氏一族であった為であろう。
網干町史に『金刀比羅祭 三月十日 金刀比羅神社が陣屋の中から現地に移されたのは、幕末の安政七年であるから、この祭が盛んに行われたのは新しいことである。夏と秋にも祭はあるが、春が最も盛んである。』とある。上の三月十一日の文字が表している事は、安政七年より35年前から陣屋内にて春祭りがあった証ではないだろうかと考えている。


東側の常夜燈に【天保十四年癸卯九月】

  

                                  
 天保14年に対になるようにもう一基燈籠がつくられたのだろう。

※ □は解読不明の文字                         つづく