興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

興(おきのはま) 御祭神は応神天皇

2012年10月11日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

 魚吹八幡神社秋季例祭まであと10日となった。

 タイトル写真は、魚吹八幡神社秋季例祭の時の西の馬場(お旅所)での渡神殿(わたりしんでん)での3基の神輿である。

 魚吹八幡神社の御祭神は応神天皇(おうじんてんのう)・神功皇后(じんぐうこうごう)・玉依比売命(たまよりひめのみこと)の三柱である。

 応神天皇(おうじんてんのう):品陀和気命(ほんだわけのみこと) 15代天皇

 神功皇后(じんぐうこうごう):息長足比売命(おきながたらしひめのみこと) 応神天皇の御母

 玉依比売命(たまよりひめのみこと):初代神武天皇の御母・海神の娘

 魚吹八幡神社秋季例祭における神輿の御奉仕村は昔より網干3ケ村(興浜・新在家・余子浜)に決められている。

 さて、どの村がどの神様か?という事である。

 興浜が応神天皇、新在家が神功皇后、余子浜が玉依比売命である。

 文献より検証してみる。

  

 『魚吹八幡神社文書』大正5年の神社明細帳である。
 
祭神として左より玉依比売命(たまよりひめのみこと)・応神天皇(おうじんてんのう)品陀和気命(ほんだわけのみこと)・神功皇后(じんぐうこうごう):息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)と記されている。この順番をタイトル写真の神輿の配置と照らし合わせればよい。

 同じく『魚吹八幡神社文書』の明治39年の魚吹八幡神社県社昇格願の中にも由緒書として「祭神 右殿玉依比売命 中殿応神天皇 左殿品陀和気命」とある。右殿・中殿・左殿とあるが、これは神様から向かって右側・真中・左側で、神輿の写真で言えば右殿は左側の余子浜・中殿はもちろん興浜・左殿は右側の新在家である。

 興浜『渡邊家文書』の宝暦10年(1760)庚辰2月の播磨国揖東郡揖西郡之内28箇村神社帳拠抄にも、末社三神 御神号御座候 玉依姫 応神天皇 神功皇后とある。

 由緒書については後日にしたいと思う。

  
 左の写真と右の写真は違う年に写したものである。近年興浜は、左側のように提灯は八幡宮を前にして飾っている。

 最後に、今年の祭りが無事に終わる事をお祈り致します。


魚吹八幡神社秋季例祭 37年振りの昼宮延期

2011年10月23日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

 

 今年の魚吹八幡神社の秋季例祭は、21日の宵宮は昼間は晴天であったが、神事が始まる19時頃からポツリポツリと雨が降ってきた。
予定通り神輿渡御までの神事を斎行。深夜の2時から3時頃はどしゃ降りとなる。

 22日が雨である予報を受けて21日の14時には22日の本宮行事を23日に延期する事が惣代会で決定。

 タイトル写真は22日午前11時の西の馬場の風景である。
 予報ではどしゃ降りになるであろうとの事であったので、各村檀尻はシートに包まれた。
左(北側)から、新在家・興浜・余子浜・垣内である。

 この時点では雨が降っておらず、警護をしていた青年団連中は納得できない様子で、怒りをこちらに向けてきたのでその場を退散。夕方から雨が降り始め夜は雷を伴い強く降る場面もあった。

 ちなみに本日も朝は雨が少しぱらつく様子で、西の馬場までの興浜の流し行列は中止となった。
去年は宵宮の流し行列村練りが中止であった。

 過去の雨での昼宮延期を調べてみると、昭和33年と昭和49年がそのようであったようだが、また詳しく調べる事にして、西の馬場に出発である。


渡神殿の提灯

2010年11月12日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

 忙しかった為ブログを更新していなかったが、「長太郎さん」よりリクエストがあったので強引に記事をつくって今年の秋祭りブログは終了とし、次のシリーズに入っていく予定である。

 タイトル写真を見てここ近年の渡神殿とどこが違うかお気づきであろうか?

 真ん中の興浜神輿の提灯が「八幡宮」になっている。

 全ての村の提灯には「八幡宮」と「村名」が書かれている。

 近年、「村名」を前にして神輿側が「八幡宮」であった。

 果たして正解はどちらであろうか。

 ちなみに魚吹八幡神社境内にある神輿殿の中に吊るされている提灯は両面「村名」が書かれてあるようである。

 
 毎年恒例の興浜檀尻梃子の集合写真である

 
 興浜神輿奉仕の途中に神輿越しにみた風景

 西の馬場でのみ行われる、丁(よろ)村のダッシュで直角に曲がりチョウサをするところをおそまつな動画であるがどうぞ。

 AVI


興浜檀尻金刀比羅神社~お旅所(西の馬場)へ

2010年10月24日 | 魚吹八幡神社 秋祭り
 21日の金刀比羅神社からお旅所に向かう興檀尻はスムーズに運行されたような気がする。
 
 帰りの際は結構右に曲がっていたようであるが、この事は檀尻委員会か調査されるであろう。

 12時に金刀比羅神社を出発した興檀尻は13時30分に網干図書館に到着。30分の休憩のあと出発し15時には西の馬場に据付完了されていた。

 宮内交差点での90度ターンを含めて、この日の興ちゃんのお気に入り写真を掲載する。

 タイトル写真は、興檀尻の先頭で綱を曳きながら子供会を補佐をする、45歳以上の興興壮会のメンバーである。この先頭集団と中学少年団は締め込みをしなくてもOKである。中央赤いまわし姿は今年還暦を向かえられた田興壮会相談役である。

   

  
 上が25歳~45歳の興興伸会で、下が興青年団。
 今年は青年団の人数が非常に多く頼もしい限りである。

  
 金刀比羅神社から東に曲がり、左側に見えるのが3階建ての山本家で右側が太田家でその奥がこのブログの偉人伝に登場された渡邊家だ。古い町並みを行く長い行列が絵になるが、哀しいかな写真がイマイチである。

  
 山田病院前にて。綱が右に寄ったので危険であるが撮影させてもらった。

  

  
 西の馬場到着。平成13年の武神祭のおり新調されたクレモナ製の純白の綱が蛇行したところが、これまたお気に入りのひとつである。
  

興浜檀尻金刀比羅神社出立

2010年10月22日 | 魚吹八幡神社 秋祭り
昨日10月21日の魚吹八幡神社宵宮の朝はあいにくの雨模様。

無情の雨とまではいかないが、流し行列の村練りは中止。

子供会の巫女行列のみの珍しい村練りという形になった。

興浜檀尻の金刀比羅神社からの出立ちが興ちゃんは好きなので、今回動画で撮影してみた。

 
 
まつりが終ったらゆっくり記事を投稿するとして今日はこれくらいにしておく。


興ちゃん 神輿奉仕者で候

2009年11月08日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

 今年の魚吹八幡神社の秋祭りにおいて、興ちゃんは21日の宵宮では興浜の檀尻を曳いて興浜の金刀比羅神社から西の馬場まで行ったあと、夜は神輿奉仕者として、22日の昼宮も神輿奉仕者として参加。檀尻の帰興においてはもちろん曳かせて頂き、無事に23日の3時30分に檀尻蔵に帰りついた。

 平成16年に神輿が新調され、興浜での披露と平成16,17,18,19,21年と神輿を担わせて頂いた。

 新調された大工の三木棟梁が同じ隣保である事と社長が祭典委員長をされていた事で新調される過程によく立ち合わせてもらったので、古い神輿の事を含めてそのあたりを書かせてもらう予定であったが、少し先延ばしにさせてもらう。

 新在家村のYさんに撮って頂いた神輿の集合写真や檀尻の写真、特に興浜の梃子持ちの写真が綺麗だったのでこの度投稿する事に相成った。

 時間を追って紹介する。写真は全て10月22日の本宮である。

 タイトル写真は神輿還御の魚吹八幡神社楼門前に到着17時42分。 

 
西の馬場檀尻、神輿還御前の15時45分

 
神輿奉仕者記念写真 15時55分

 
興浜檀尻と梃子持ち、曳き子 15時56分

 
興浜子供会巫女、渡神殿前にて「もみじ」を演奏のあと出発 16時3分

 
神輿還御 16時9分


神輿還御 16時10分


提灯で候 その弐

2009年10月21日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

  魚吹八幡神社の本殿・舞殿と幣殿・拝殿の三箇所の箱提灯と幕は網干三ケ村が担当する。興浜・新在家・余子浜が担当する事にいつの頃からかわからないがそうなっているようである。

 タイトル写真は御本殿を西から撮影したもので、下の写真でわかるように興浜の箱提灯が吊るされている。

 痛んだものから順番に作り直すようで、「浜」であったり「」であったりするところが残念である。

 

 新在家は舞殿と幣殿で、撮影する時に新在家の協議員さんが今年いくつか新調したと言っておられた。

 余子浜は拝殿の提灯であるが、こちらは箱提灯ではなく普通の提灯である。 


提灯で候 その壱

2009年10月21日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

 今年も魚吹八幡神社の秋季大祭が始まった。

 今回は10月21日、22日にしか見られない魚吹八幡神社の提灯を紹介しよう。

 まずは楼門に吊るされた三張の大提灯は、正面にはすべて「八幡宮」の文字がある。左から、茶屋町と中之町、西の町、東の町とある。全て敷村である宮内地区の町名だ。年号は「享保四歳□八月」とある。

 ここで興ちゃん困りました。上から5番目の字がどうしても読めない。

 享保4年は1719年徳川八代将軍吉宗の時代と判明。この年は干支では己亥(つちのとのい)年である。亥己と書けば答えが出てきた。もちろん一文字の漢字では無い。己亥を右から書いただけである。

 年を歳と書く事についてはわからないが、暦に詳しい方に後日聞くという事で楼門の提灯は終了。

  

 

   
 拝殿に上がると三張の箱提灯が左右対になって吊るされている。

 写真左から田井村・長松村・天満村とある。

 この三ケ村に共通する事は、この網干地方は寛永年代より京極家の所領であった。万治元年京極家が丸亀に移ってからも揖保郡之内二十八ケ村の所領は引き続き領有した。と『網干町史』にあるが、その二十八ケ村の内現在の魚吹八幡神社の氏子である村は、興浜・余子浜・大江島・長松・天満・田井・宮内・津市場である。途中余子浜と大江島は天領になったが、田井村・長松村・天満村が丸亀藩であった事は間違い無い。

 年代は安永八年 亥八月十五日とある。

 8月15日について少し書いておくと、『近世魚吹八幡神社関係資料』によると、「現在行われている津之宮秋祭は、江戸時代には「放生会」と呼ばれていた。放生会は本来、殺生を禁ずる思想からでた仏教の儀式で、陰歴八月十五日に全国の神社や仏寺で行われたもので、津之宮でも「往古より放生会として毎年八月十五日神式仕来り」とあるように例外ではなかった。」とある。明治中頃までは毎年八月十五日にお祭りがあったようだ。

     
 
      
 
拝殿の左側と右側に三張の箱提灯が吊るされているが、これはすべて個人名が入っている。この提灯に年代は入っていないが興ちゃんは明治時代寄進の提灯であると推測する。

 左側真ん中の提灯は興浜 山本昭とある。右側左の提灯は平松 土井勘次郎とある。この土井勘次郎氏は平成20年9月15日に投稿した金刀比羅神社その16手水舎の記事の中で興浜金刀比羅神社において明治中期から後期に手水舎を寄進した方の一人である。興浜の山本昭氏の祖父である山本真蔵氏と深くかかわっていた可能性がある人物の為、山本真蔵氏寄進の提灯が古くなり傷んだ為、孫である山本昭氏がやりかえた時に自分の名前を入れたのではないだろうか。

  
 幣殿の御神燈の箱提灯は坂上

  

 
 本殿前の提灯は左右両側に三張ずつ箱提灯が吊るされており、糸井・當所・糸井とある。
 年代は糸井村の提灯が、明暦二年八月(1656)徳川4代将軍家綱の時代のもがひとつと、明和五年八月(1768)徳川10代将軍家治の時代のものがひとつである。
 當所の提灯は正徳二年八月吉日(1712)徳川7代将軍家継の時代である。

 共に8月の文字が意味するように8月15日に行われていた放生会の提灯であろう。それにしても明暦2年は古い。京極家が龍野に入封したのが寛永十四年(1637)である。


秋祭り日記その5 23日清掃

2008年10月29日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

  10月23日の朝、魚吹八幡神社境内の様子である。

 21、22日の秋祭りでのゴミが境内に散乱している。
ほとんどが、テキ屋で買って食べたあとのゴミと哀しいかなテキ屋の残骸である。

 いつの頃からか詳しく聞いていないが、朝日中学校の生徒の皆さんがボランティアで清掃活動を行っている。もちろん宮内の方や有志の方も参加されています。

 魚吹八幡神社壮青年会も若衆引き連れ参加している。

 神輿殿の周囲は神輿3ケ村(興浜・新在家・余子浜)の役員の方が来られている。

 今年に関してはあいにくの雨模様だったので人出が少ないのではと心配しながら7時30分頃お宮に到着。数人の中学生を参道で見かけて安堵していたら、みるみるうちに沢山の生徒さんが集まって来てくれた。

 ちなみにお宮の方々は5時から開始している。

 興ちゃんは今年休み年という事と、昨日風邪気味だったので早い時間に就寝したので、参加しやすかったがのだが、2日間の疲れや村の跡片付けがあると思うがこれを見て「おらが神社」の事なので一度ご参加ご協力をと思いこの記事を書く次第である。

 タイトル写真は、8時30分に作業を終えた生徒さんが集合している様子。
今年は朝日中学1年生320名が参加。
後は清掃業者の方が集めてまわるのみの状態になっている。

 朝日中学校の皆さんご苦労様でした。

        

 
  拝殿東側 テキ屋の跡か?          ベビーカステラの売れ残りか?

 
  国旗掲揚塔下                  西門

 
  西門アップ                   

 
  神輿殿裏                     境内北側

                                写真提供:魚吹八幡神社


秋祭り日記その4 無情の雨

2008年10月23日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

 10月22日の本宮、天気は前日の予報で夕方から雨となってしまっていたが、当日予報より更に早い時間から雨となった。

 楼門のところで長老が「もうすぐ未半刻(ひつじはんとき)だ」と声がしたので、雨が降り始めたのは3時前だったのだろう。

 西の馬場(お旅所)に移動。15時30分合羽を着た小学校4年~6年生女子の巫女さんを先頭に興浜神輿がビニールシートを被り出発。

 今年はその後から興浜の若衆が幟を持って祭り絵巻に色を添えた。

 4年前は神輿の前であったが、後幟の方が後方から来る外敵を防ぐには心強い。

               
 この写真を見たら平成13年の興浜武神祭での無情の雨を思いだすであろう。

 今日のブログは興浜の方しか理解できない内容でした。

    
 16時40分 新在家檀尻が西の馬場から出発

               
 19時 風邪をひいたのか無念のリタイヤ。
 宮内交差点南側に出店されていた「あんまき」を土産に一足早く帰路につく。
 この「あんまき」興浜大覚寺荒神さんに来ていたが買いそびれていた。
 「あんまき」甘等にはお勧め。美味の上衛生なり。


秋祭り日記その3 お旅提灯宮入終了報告

2008年10月22日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

 魚吹八幡神社秋季例祭の宵宮祭は10月21日の19:00に輪番・宮惣代・敷村役員が拝殿にあがり祭典が始まる。

それと時間を同じくしてお旅提灯が下記の七ケ村から集まってくる。

お旅提灯が宮入りする時間は細かく取り決められている。

平  松  19:00~19:25  (25分)
吉  美  19:25~19:45  (20分)
大江島  19:45~20:05  (20分)
興  浜  20:05~20:35  (30分)
新在家  20:35~21:15  (40分)
余子浜  21:15~21:35  (20分)
垣  内  21:35~22:00  (25分)

 この時間は各村の先頭の高張提灯が楼門を入ってから、最後尾の高張提灯が楼門を入りきる時間である。

 先頭の高張提灯のあと提灯行列(子供会なども含む)があり、中学少年団の提灯練り、若衆の提灯練りと続き、若衆の提灯練りで祭典委員長が持ち時間を調整する。中学少年団の提灯練りの前に子供会が提灯練りをする年もある。

 この持ち時間の分配は各村の戸数で決められたと聞いているが、最近では垣内村の戸数が多いと思われるが、改定されていない。

 ここ最近に関しては、各村取締役は時間を厳守する事に神経を尖らせていると言ってもいいほどだ。遅れれば最後に宮入りする垣内村の練り時間が短くなる為だ。垣内までの6ケ村が各村1分ずれ込んでも6分も垣内村は持ち時間を失う。あくまでも垣内は他村が時間をずれ込んだとしても22:00の宮入りは守っている。

 すべての提灯が宮入りを終了すれば、興浜・新在家・余子浜・垣内の4ケ村の各代表が角提灯を携えて、揃いお旅宮入り終了の旨を拝殿に居る輪番に報告する。

 この報告係りは興浜が担当する事になっている。タイトル写真がその様子だ。

 興浜祭典委員長「輪番に報告します。網干4ケ村お旅提灯宮入りが完了しました。」

輪番はこの報告を受け金幣の出御を指示する。

               
 輪番が報告を受けたあと大江島の金幣が出御する様子

               
 興浜の神輿に「応神天皇の御霊」が移されている様子

               
 楼門前において渡御される興浜神輿


秋祭り日記その2 興浜提灯練り

2008年10月22日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

 興浜興伸会のお旅提灯練りである。

 タイトル写真は渦を巻くように楼門に向かって走り込んで来る様子。

  
  輪を作りながら入って来て、提灯をすりあわせている
  まさしく魚が砂を吹きあげてこの土地をつくりあげた魚吹神話だ

  

  
                        同じ隣保のよしみで古西君

            
 平成10年だったと記憶するが、檀尻音頭出しをされていた市岡先生に提灯練りの最後の音頭を作って頂いた。

 祭典委員長と興浜興伸会会長が時間を見計らい興浜興伸会会長が最後の音頭を出し興浜の若衆は宮に入る。戻す事は無い。

「お旅提灯 魚吹に燃えて これが止(とどめ)の 祭り唄」

 長谷川会長・金井お旅頭、ご苦労様でした。


秋祭り日記その1 秋祭りウォーク

2008年10月21日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

 興浜村は今年の魚吹八幡神社秋祭りは檀尻が出ないので、21日は巫女の村練りと夜の提灯行列・提灯練りと神輿の渡御、22日は巫女行列と神輿の還御だけとなる。

 祭典委員長が今年の子供会会長と同級生という事もあり、タイトル写真にする運びとなった。そういわれると、このコンビ平成平成10年と11年で前梃子だったのだ。並びも一緒でなつかしい。

 本日これを皮切りに夕方まで、午前中は徒歩で午後は自転車で魚吹秋祭りめぐりをしてみた。

               
 9:50興浜公民館前 今年は檀尻が休み年の為、興浜興伸会の若衆が巫女のあとを幟で練って祭りの雰囲気を盛り上げた。


  
 10:30新在家網干神社 檀尻出立前の演芸披露

  
 新在家の昔ながらの提灯が並ぶ通り

  
 橋本町商店街には網干橋の絵柄の提灯が吊るされている

  
 網干橋には新在家文化祭典振興会の皆さんのお旅提灯が並ぶ

  
 10:50余子浜公民館前 船渡八幡神社の檀尻にはこの時間人影なし

               
 11:20垣内檀尻蔵前 檀尻出立前の演芸披露 タイミングよく30分全て見られた 

  
 12:20西の馬場付近にベーコンエッグたい焼きを2軒発見 美味也

               
 12:30 魚吹八幡神社到着

  
 神輿殿東側にテキヤが出店していないか確認
 社務所前には出店してしまっていた 困った


               
 13:15 新在家ことぶき食堂前 新在家流し行列通過


                  
 13:30 網干保育園前から新在家檀尻を撮影 楽しそうだ 

                
 14:15 津市場村 津市場本村屋台の村練り


                
 15:30 JR網干駅前 糸井和久高田福井坂出の屋台5台練り


                
 15:50 坂上屋台蔵前通過


魚吹八幡神社 秋祭り 注連縄張りのご奉仕当日

2008年10月19日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

  10月16日に書いた記事の報告だ。

                
 日本触媒駐車場に8時に集合して、笹竹60本を切りトラックに積み込んだ。

               
 魚吹八幡神社境内で竹を切りそろえて、枝を落としてから西の馬場へ。
 宮内交差点の信号から西の馬場までの注連縄張りを終えてタイトル写真の渡神殿の注連縄張りと金幣殿の注連縄張りを行った。

               
 楼門前の笹竹と楼門から半鐘台までの注連縄張りが追加だったが、若い衆はいやな顔もせず高いところにあがりがんばってくれた。

        
 楼門東側に注連縄をくくり付けている様子

        
 楼門からの注連縄を半鐘台にくくりるけている様子

 作業が終ったのは11時だった。 
 伝統を継承すべく、作業中の掛け声は「ウエヘー」と言って意思疎通をはかってくれていました。興浜の掛け声「ウエヘー」の復活を心より喜びます。
 興浜興伸会並びに青年団の皆さんご苦労様でした。


魚吹八幡神社 秋祭り 注連縄張りのご奉仕

2008年10月16日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

  魚吹八幡神社秋祭りにおいて魚吹八幡神社から西の馬場までの神様のお旅区間は注連縄が張られるのであるが、いつの頃かは知らないのだがその作業を宮内交差点から西の馬場までの区間を檀尻が休み年の村がご奉仕する事になっている。

 今年は興浜がご奉仕する番であるので、興浜興伸会の皆さんとご奉仕する予定である。

 今年は19日が日曜日なので皆が出やすい事もありこの日がご奉仕日となった。朝から笹竹100本を切ってから魚吹八幡神社に向かうのであるが、この事を掲載した理由のひとつに興浜の皆さんの参加呼びかけともうひとつは前回の4年前の出来事を書き留めるいい機会だったからだ。

 前回の平成16年の秋祭りは前日の20日は台風23号の襲来というアクシデントに見舞われた。大型でこのあたりも被害も多かった事は下記の神戸新聞記事を読んで頂ければ思い出される方も多いと思う。

 魚吹八幡神社も被害を受けていた。強風の為境内の東側の大木が倒れたのだ。そこはまさしく屋台を据えつける場所であり、加納土木社長がユニック車で駆けつけたのだがお宮のチェーンソーの調子が悪くなり興ちゃんもチェーンソーを持って駆けつけ参戦した。どうにか境内は祭りができる状態になったが、さて毎年なら前日に行なわれる注連縄張りをその年は21日宵宮の朝に行なわなければならなくなった。

 興浜協議委員の皆さんは興浜神輿の飾り付けがあるので、その時興浜興伸会会長をさせて頂いていた興ちゃんが若い衆を引き連れてご奉仕させて頂いた。

 テキ屋の車はやって来る、神輿の各村役員さん達も来る、もちろん宮内の方々、神社の方々、わけもわからないまま若い衆のがんばりであっという間に注連縄張り作業を成し遂げた事をここに記録する。

 あの団結力と責任感を思い出し、今年もご奉仕を無時完了できる事を祈念する。

  

 宮内交差点からお旅所までの注連縄

 
    魚吹八幡神社が作成している当日の作業マニュアル
    興浜興伸会の皆さん予習しておいてくれ

 
   平成16年10月21日の神戸新聞朝刊での台風23号の記事